「はっきり拒絶する」
その日は、朝から妙に落ち着かなかった。
何かが起こる、とまでは思っていない。
でも、ここ数日の積み重ねのせいで、少しずつ張りつめた雰囲気の中を歩いている感覚はずっとあった。
断ることには、もう少しずつ慣れ始めている。
短い返事。
隙を残さない言い方。
相手の機嫌まで気にしないこと。
頭では、何度も確認してきた。
でも、それは小さな場面の話だ。
短いメッセージ。
教室でのちょっとした誘い。
休み時間の軽い相談。
そういうものなら、まだどうにか呼吸を整えながら返せる。
問題は、もっとはっきり近づいてこられたときだった。
その瞬間は、六限が終わったあとに来た。
◇
放課後の教室は、昼間とは違うざわめきをしている。
部活へ向かう支度。
友達同士の待ち合わせ。
机を寄せて課題を確認する声。
帰る人間と残る人間が入り混じる、少しだけ緩んだ時間。
僕はなるべく早く帰るつもりで、鞄に教科書をしまっていた。
ひよりはまだ席にいたけれど、今日は特にこちらへ来る気配はない。
それがありがたいような、少し心細いような、妙な感じがした。
「凪くん」
声をかけられて、手が止まる。
顔を上げると、教室の入口近くに立っていたのは、二年の女子だった。
何度か話したことがある。
特別近いわけではないが、顔を合わせれば軽く会話をするくらいの距離。
ただ、その人が今みたいな時間に、一人でわざわざ僕のところへ来るのは初めてだった。
「…何ですか」
僕がそう返すと、その先輩は少しだけ緊張したように笑った。
「ちょっとだけいい?」
周囲のざわめきの中でも、その“ちょっとだけ”はやけにはっきり聞こえた。
少しだけ。
その言葉の危うさは、今の僕にはもう十分すぎるほど分かっている。
「ここでなら」
できるだけ平たく返す。
先輩は一瞬だけ目を伏せてから、僕の机のそばまで来た。
距離は近すぎない。
でも、教室のざわめきの中では十分に“個別の雰囲気”ができる位置だった。
「…最近、前より冷たくなったよね」
開口一番、それだった。
褒めているのか、探っているのか分からない言い方。
僕は曖昧に返したくなるのを少しこらえる。
「どういう意味ですか」
「そのまま」
先輩は視線を逸らさずに言った。
「前みたいに、誰にでもやさしく返す感じじゃなくなったっていうか」
「ちゃんと一線を引いてるっていうか」
その言葉に、教室の中の音が少し遠くなる気がした。
見られている。
思っていたより、ちゃんと。
「…そうかもしれません」
「うん」
先輩は少しだけ笑った。
でも、その笑い方にはどこか決めたものがあった。
「だから、今なら聞けるかなって思って」
僕の指先が、鞄のファスナーにかかったまま止まる。
何を聞かれるのか。
たぶん、予感はあった。
でも、予感したくなかった。
「何をですか」
先輩は一度だけ息を吸った。
「私、前から少し気になってたんだ」
その瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
教室の中のざわめきは続いている。
誰かが椅子を引く音。
廊下を走る足音。
窓の外から聞こえる運動部のかけ声。
なのに、この周囲だけが妙に静かに感じる。
「凪くんのこと」
先輩は言った。
「前は、たぶん誰に言っても同じ感じかなって思ってた」
「でも、最近は違うでしょ」
違う。
その通りだ。
前みたいに曖昧に広げないようにしている。
好かれていることを惜しんで引っ張らないようにしている。
それは、たしかに変化だ。
「だから」
先輩の指先が、小さく制服の裾をつまむ。
「今なら、ちゃんと聞けるかなって」
心臓がうるさくなる。
ここで曖昧にすれば、前と同じだ。
でも、はっきり言えばその場の雰囲気が変わる。
相手の顔も変わる。
それが怖い。
しずくの言葉が頭をよぎる。
**主語は自分。理由は足しすぎない。期待を残しすぎない**
ひよりの言葉も浮かぶ。
**誰も選ばないのは、やさしさじゃない**
七海の声もよみがえる。
**隙を残されると、期待しちゃうよ**
「凪くん」
先輩が、少しだけ不安そうに僕を見る。
「私のこと、どう思ってる?」
やっぱり来た、と思う。
何度も想像していたはずなのに、実際に目の前でそれを言われると、頭が一瞬だけ真っ白になる。
どう思ってる。
その答えを、今までの僕はずっと曖昧にしてきた。
感じがいい返事。
少しだけやわらかい笑い。
今は忙しい、また今度。
そういうもので、決定的なところをずっと先送りしてきた。
でも、今日はそれをしたくない。
したら、また同じ顔を見ることになる。
僕は息をゆっくり吸う。
先輩の顔を見る。
期待と不安が、両方そこにある。
その顔を見ると、いつもの僕なら少しだけやわらかくしていた。
でも、それをやったらまた隙を残すことになる。
「…ごめんなさい」
最初の一言を、できるだけ静かに言う。
先輩の表情が、そこでほんの少しだけ止まる。
喉が乾く。
でも、ここで止まったらだめだと思った。
「そういうつもりでは、ないです」
短く。
余計な言い訳を足さずに。
先輩の目が、目に見えて動揺する。
「…そうなんだ」
声は静かだった。
でも、驚きが隠せていない。
今までなら、ここで僕の方が慌てて何か足していたかもしれない。
“でも先輩が悪いわけじゃなくて”とか、
“今はそういう余裕がなくて”とか、
“嫌いとかじゃなくて”とか。
でも、その一言一言がまた期待させることになる。
また“今はだめでも、いつかは”に変わる。
僕は息を整えて、続ける。
「期待には、応えられません」
先輩がまばたきもせずにこちらを見る。
教室のざわめきが、妙に遠い。
「…はっきり言うんだね」
その一言は、怒っているわけでも泣いているわけでもないのに、ひどく痛かった。
それでも僕は目を逸らさない。
「曖昧にしたくないので」
声が少しだけ硬い。
でも、内容はぶらしたくなかった。
先輩は、しばらく何も言わなかった。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
その沈黙の中で、僕は自分の心臓の音ばかり聞いていた。
やっぱりきつい。
相手の顔が変わる瞬間を、真正面から見るのは本当にきつい。
でも、七海の涙よりはましだとも思う。
少なくとも今は、ここで終わらせている。
「…そっか」
ようやく、先輩がそう言った。
笑おうとしたのかもしれない。
でも、うまく笑えなかった顔だった。
「分かった」
それだけで、会話を終わらせようとする。
その姿勢が、余計に胸へ刺さる。
「…ごめんなさい」
もう一度だけ言う。
これはたぶん、必要な“ごめん”だと思いたかった。
先輩は小さく首を振った。
「謝らなくていいよ」
でも、と続く。
「前みたいにやさしい方が、まだ楽だったかも」
その言葉に、息が少し詰まる。
前みたいにやさしい。
たぶんそれは、やさしいんじゃなくて曖昧な態度だっただけだ。
でも、相手にとっては、その曖昧さの方がまだ楽に感じられることもある。
そこが、この場面のいちばんつらいところだった。
「…それでも」
僕は小さく言う。
「前みたいには、できません」
言った瞬間、これが本当に拒絶なんだと思った。
やさしく見える余地を置かない。
戻れるかもしれない場所も残さない。
相手の期待を、自分の気持ちよさのために温め続けない。
先輩はそれを聞いて、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
「分かった」
今度の“分かった”は、さっきより静かだった。
そして、そのまま踵を返す。
呼び止める言葉は出なかった。
出してはいけない気もした。
ただ、その背中を見送るしかない。
先輩が教室を出ていくと、周囲のざわめきが少しずつ戻ってくる。
でも、数人がこちらを見ていたのは分かった。
聞こえていたかもしれない。
全部じゃなくても、雰囲気は伝わっただろう。
僕はその場で、しばらく動けなかった。
膝のあたりが少しだけ力を失っている。
ちゃんと立っているのに、足元が少し浮つく感じがした。
「…凪くん」
横からひよりの声がした。
いつの間に近くまで来ていたのか分からなかった。
でも、その声に少しだけ現実へ戻る。
「…何」
「ちゃんと言えたね」
その言い方は、驚くほど静かだった。
褒めるわけでもなく、慰めるわけでもなく、ただ事実を置くみたいに。
「…心が痛いけどね」
思わず本音が漏れる。
ひよりは小さく頷いた。
「うん」
「すごい、痛い」
「うん」
「前よりずっと、きつい」
「でも?」
僕は一度、先輩が出ていった教室の入口の方を見る。
もう誰もいない。
でも、さっきまでそこにあった雰囲気はまだ残っている気がした。
「…でも、今回は逃げなかった」
そう言うと、ひよりはほんの少しだけ目を細めた。
「うん」
「たぶん、それが大事なんだと思う」
自分で言いながら、ようやく少しずつ胸の奥へ落ちていく。
傷つけた。
それは事実だ。
でも、待たせ続けたわけじゃない。
痛かった。
でも、今回は自分で痛みを引き受けた。
それが前との違いなのだと思う。
ひよりは短く言った。
「前よりずっとましだよ」
その一言が、今は必要だった。
楽にはならない。
罪悪感も消えない。
でも、前よりましだと思えるなら、たぶんこの痛みは無駄じゃない。
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