「自由を歓迎しない」
呼び出しは、ひどく事務的だった。
五限の終わり、担任が僕の席の横に来て、いつもの声で言っただけだ。
「東條くん、放課後に保護局へ寄ってください」
それだけ。
周囲に聞こえても問題ない言い方。
でも、だからこそ少しだけ雰囲気が止まる。
前みたいに、誰かがあからさまにこちらを見ることはない。
でも、一瞬だけ視線が集まって、すぐに散る。
その短い動きだけで十分だった。
保護局。
今の僕にとって、その言葉はもうただの制度名じゃない。
守られるための場所。
評価される場所。
数字にされる場所。
そして、ときどき、正しさの形で追い詰められる場所。
「…分かりました」
そう返すと、担任は軽く頷いて去っていく。
教室のざわめきはすぐに戻った。
何事もなかったみたいに。
でも僕の中だけは、放課後の予定が一気に重くなる。
理由はだいたい分かっていた。
最近の僕の変化。
接触の減少。
断る回数。
雰囲気の変化。
たぶん、それを“確認”されるのだ。
◇
放課後、保護局の建物へ向かう廊下は、いつ歩いても音が少ない。
人はいる。
職員も、生徒も、出入りしている。
でも誰も大きな声を出さないし、足音も不思議なくらい静かだ。
白い壁。
整いすぎた掲示物。
余計なものの少ない廊下。
ここに来るたび、自分が少しずつ“個人”じゃなくなっていく感じがする。
案内された部屋の前で一度だけ深呼吸してから、ノックをする。
「どうぞ」
中に入る。
そこにいたのは二人だった。
鷹宮ひとえ。
そして霧島紗世。
ひとえはいつも通り背筋を伸ばして座っていて、紗世は薄い端末を開いたまま視線だけをこちらに向けた。
二人とも表情は穏やかだ。
怒っているわけではない。
でも、その穏やかさが逆に逃げ場をなくす。
「座ってください」
ひとえに促されて、向かいの椅子に腰を下ろす。
机の上は整っていた。
紙の資料はほとんどなく、端末が二台。
その画面の向こうに、たぶん今の僕が数字や記録として並んでいる。
「本日は確認です」
最初に口を開いたのは紗世だった。
静かな声。
やわらかいが、隙がない。
「最近の対人接触傾向について、少し変化が見られています」
その一言で、やはりそうかと思う。
「…はい」
「以前より個別接触を避ける行動が増えています」
「また、誘いに対して明確な断りを入れるケースも確認されています」
確認。
断り。
ケース。
その言葉の一つ一つが、僕の行動を僕自身のものから少しずつ切り離していく。
「悪いこと、なんですか」
思ったよりすぐに言葉が出た。
紗世は一拍置いてから首を横に振る。
「いいえ。拒絶そのものは権利として認められています」
そこまでは予想通りだった。
「ただし」
やはり続く。
「周囲との摩擦は以前より増加傾向です」
「また、“対応が難しい”という印象を持たれる頻度も上がっています」
対応が難しい。
その表現は、思ったより直接的に胸へ落ちた。
面倒。
気を遣う。
近づきにくい。
制度の言葉に直すと、そういうことなのだろう。
「断ること自体が問題ではありません」
今度はひとえが言った。
声は落ち着いている。
でも、やはり事務的すぎない程度に整っている。
「ただ、希少な男子の対人行動としては、以前より扱いづらさが増しているのは事実です」
「…扱いづらい」
思わず復唱すると、ひとえはわずかに頷いた。
「はい」
「それは、誰にとってですか?」
自分でも、少しだけ刺のある聞き方だと思った。
でも、今はそこを曖昧にしたくなかった。
紗世が端末に視線を落としながら答える。
「学内環境全体です」
「同級生、教職員、支援担当、保護対象管理の観点を含みます」
あまりにもきれいな答えだった。
つまり、みんなにとって、だ。
「…断ることは自由なんですよね」
僕は視線を上げたまま言う。
「はい」
ひとえの即答。
「でも、断ると“扱いづらい”になる」
「結果としては、そう評価される場面があります」
また、その言い方だ。
善悪ではない。
ただ傾向。
ただ事実。
ただ観測。
その無機質さが、一番息苦しい。
「それって、歓迎されてないってことですよね」
部屋の雰囲気が少しだけ静かになる。
紗世とひとえが一瞬だけ視線を交わした。
先に答えたのはひとえだった。
「率直に言えば、歓迎はされにくいです」
その言葉は、思ったよりまっすぐだった。
「この社会は、基本的に“受け入れやすい男子”を前提に組まれています」
「保護、支援、進路設計、接触管理」
「どれも、ある程度の協調性を想定しています」
僕は唇を結ぶ。
前から薄く感じていたことを、ついに言葉にされた感じがした。
受け入れやすい男子。
断らない男子。
管理できる男子。
そういう存在の方が、制度にとって扱いやすい。
「…つまり」
自分でも声が少し低くなる。
「受け入れる男子の方が、守りやすいってことですか」
「はい」
今度は紗世が答えた。
「管理しやすく、予測しやすく、環境調整も容易です」
そこまで潔く言われると、逆に笑いたくなってくる。
守る。
でも、守りやすい形の方を好む。
それはたぶん制度としては合理的なんだろう。
でも、個人としてその中に入ると、かなり苦しい。
「…じゃあ、結局」
僕は机の上で手を組む。
「受け入れた方が、生きやすいんですね」
紗世は即答しなかった。
少しだけ慎重に言葉を選ぶ。
「少なくとも、周囲との摩擦は少ないです」
否定しない。
でも、その言い方の中には少しだけ人間味がある。
「ただし」
「それが本人にとっての希望かどうかは、また別の話です」
その一言で、少しだけ呼吸が戻る。
全部が制度の都合だけではない。
少なくとも、この人たちはそこを分かってはいる。
でも、分かっていても構造は変わらない。
「東條くん」
ひとえが静かに言った。
「あなたが今していることは、間違っているわけではありません」
その言葉は、救いのようでいて、救いになりきらない。
「ですが、以前より不利になる場面は増えます」
「人間関係も、支援評価も、将来的な進路も」
不利。
やっぱりそこへ戻る。
断ることは許される。
でも、歓迎はされない。
そして結果として少しずつ不利になる。
それは、かなりきれいな圧力だった。
「…それでも、断るしかないときもあります」
自分でも驚くほど、まっすぐ言えた。
ひとえは少しだけ目を細める。
「ええ。あります」
「じゃあ、どうしろって言うんですか」
今度は少しだけ感情が混ざった。
「断るな、とは言わない」
「でも断ったら扱いづらいと言われる」
「受け入れた方が楽だとも言われる」
机の上に置いた手に、少しだけ力が入る。
「それで、何を選べばいいんですか」
部屋の中が静かになる。
この沈黙は嫌いじゃない。
少なくとも、適当な慰めやごまかしよりましだ。
先に口を開いたのは、ひとえだった。
「選ぶしかありません」
短い答えだった。
「どちらを選んでも、痛みはあります」
その言葉は、前よりずっと人間の言葉に近かった。
「受け入れれば、自分を削るかもしれない」
「断れば、周囲との摩擦や不利益が増えるかもしれない」
そこで少しだけ声を落とす。
「それでも、あなたが選ぶしかない」
その言い方は残酷だった。
でも、きっと本当だった。
制度は守る。
けれど、人生を代わりに引き受けてはくれない。
苦しさを完全には消してくれない。
選択そのものは、やっぱり僕のところへ返ってくる。
「…不快に思うのは理解できます」
紗世が静かに言う。
「この社会が、受け入れる男子を前提に作られているのは事実です」
「それは東條くんのようなタイプには息苦しいでしょう」
その認識があることに、少しだけ驚く。
もっと完全に制度側の言葉だけが返ってくると思っていた。
「ただ」
紗世の声は、やはりそこで少しだけ硬くなる。
「現実は変わりません」
それが、今日の結論なのだと思った。
不快でも。
理不尽でも。
息苦しくても。
現実は変わらない。
僕が断るなら、そのぶん歓迎されにくくなる。
それでも断るかどうかは、自分で決めるしかない。
「…分かりました」
小さくそう言う。
本当の意味で全部納得したわけじゃない。
でも、今はそれしか言えなかった。
ひとえはゆっくり頷いた。
「本日は以上です」
形式としては、それで終わりだった。
でも立ち上がる前に、ひとえがもう一度だけ言う。
「東條くん」
「はい」
「あなたが今していることは、少なくとも“無自覚なまま流されること”ではありません」
その言葉に、少しだけ足が止まる。
「それは以前との大きな違いです」
僕は返事をしなかった。
返事をすると、変に軽くなりそうだったからだ。
ただ小さく頭を下げて、椅子を引いた。
◇
保護局の建物を出ると、外の雰囲気は少し冷たかった。
夕方の光がガラスに反射して、白い壁がやけにまぶしい。
誰も怒っていない。
誰も責めていない。
でも、ちゃんと圧はあった。
断ることは自由。
ただし、歓迎はされない。
その構造を、今日はきれいな言葉で見せられた。
「…面倒くさい」
小さく呟く。
でも、それは半分しか本音じゃない。
面倒なのは事実だ。
けれど本当にきついのは、正しいことと生きやすいことが、ここではきれいに重ならないことだった。
断るのは正しい。
でも、楽にはならない。
受け入れれば楽かもしれない。
でも、自分が薄くなるかもしれない。
そのどちらも、自分で選ぶしかない。
空を見上げる。
そこには今の僕の気持ちを表すような薄い雲が流れていた。
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