「水無月ひよりは、普通でいたい」
しずくと別れたあと、しばらくのあいだ僕は一人で中庭を歩いた。
昼休みの終わりが近い。
ベンチにはまばらに人がいて、木陰では何人かが小さな声で話している。
グラウンドの方からは運動部のかけ声が遠く聞こえて、空はよく晴れていた。
こんなに普通の昼なのに、頭の中だけがずっと落ち着かない。
**断るのは、相手に冷たくすることじゃない。相手を待たせないこと。**
しずくの言葉が、まだきれいに残っている。
それはたぶん正しい。
正しいのだけれど、その“正しさ”を自分の会話の中でちゃんと使えるのかは、まだ別の話だった。
僕は今までずっと、好かれていることを惜しみながら、でも責任は引き受けず、その場しのぎのやさしさみたいなもので距離をつないできた。
それをやめる。
やめたい。
でも、やめた先に何があるのかは、まだはっきり見えていない。
「凪くん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
中庭の端、購買の方からひよりが歩いてきていた。
紙パックの飲み物を持っていて、いつものように大げさな感じはない。
でも、こっちを見つけた瞬間に少しだけ表情がやわらいだ。
「…珍しいね、外」
「しずくさんと話してた」
「ああ、なるほどね」
それだけで通じる顔をする。
ひよりのそういうところは、妙に助かる。
「何それ、すっごい疲れた顔してる」
「今の話の流れで言う?」
「だってしてるし」
僕は苦笑する。
「まあ、疲れたよ」
「だろうね」
ひよりは僕の隣まで来て、少しだけ視線を上げる。
「今から教室戻る?」
「そのつもり」
「少しだけ座る?」
ベンチの方を顎で示される。
少しだけ。
またその言葉だと思う。
でも、ひよりの“少しだけ”はやっぱり嫌じゃなかった。
「…うん」
二人で中庭の端のベンチへ向かう。
すでに誰も座っていない場所を選んで、少し間を空けて腰を下ろした。
風が弱く吹いて、ひよりの前髪が少しだけ揺れる。
「で、しずくさんに何言われたの?」
紙パックのストローをくわえながら、ひよりが聞く。
「断り方が下手だって」
「それはそう」
「即答だね」
「だってそうでしょ」
ひよりは悪びれない。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
「うん」
僕は一度だけ空を見上げてから言う。
「やさしさと隙を混同してるって」
ひよりは小さく目を細めた。
「…それ、しずくさんっぽい」
「うん。すごく」
「で、図星だった?」
「かなり」
ひよりはそこで少しだけ笑う。
笑うけれど、ばかにしている感じではない。
「凪くんって、ちゃんと刺さる言葉は分かりやすく刺さるよね」
「うれしくない」
「だろうね」
しばらく、何も言わずに中庭を眺める。
こういう沈黙が持つのも、ひよりといるときの不思議なところだった。
誰かといて黙ると、前の僕なら何か話題を足したくなっていた。
場が止まるのが怖かったからだ。
でもひよりといると、止まってもそのままでいられる。
それが少しだけ、僕には心地よい。
「ねえ」
ひよりが先に口を開いた。
「凪くんってさ」
「うん」
「本当は、どういうのがいいの?」
その問いかけは、思ったよりまっすぐだった。
「どういうの、って?」
「恋愛とか、好きになるとか、そのへん」
僕は少しだけ言葉に詰まる。
今までなら、こういう質問をされた時点で少しやわらかく笑って逃がしていたかもしれない。
でも今は、それをしたくなかった。
「…普通のがいい」
答えながら、自分でその言葉のあいまいさに気づく。
ひよりもたぶん同じことを思ったのだろう。
すぐに聞き返してきた。
「普通って何」
「それが、よく分かんないんだけど」
「うん」
「でも、少なくとも」
「誰かに好かれてるかどうかとか」
「誰が一番近いかとか」
「そういうのでずっと雰囲気が動くのは、違う気がする」
ひよりは黙って聞いていた。
その聞き方が、やっぱり少しうれしい。
「もっと…」
言葉を探す。
「もっと、静かなやつ」
「静かなやつ」
「うん」
「雑だなあ」
「分かってるよ」
僕は少し苦笑する。
「でも、何か」
「好かれてるとか、取られるとか、そういう感じじゃなくて」
「ちゃんと一人を見て、その人とだけ向き合うみたいな」
そこまで言ってから、妙に気恥ずかしくなる。
口にすると幼い理想みたいにも聞こえる。
でも、それでもたぶん本音だった。
ひよりは紙パックのストローを指先でいじりながら、少し考えるみたいに俯いた。
「…それって、別に変なことじゃないと思う」
「そうかな」
「うん。むしろ普通」
その“普通”という言い方が、今の僕には少し眩しい。
普通。
そんなふうに軽く言えるものが、この世界では案外一番遠い。
「ひよりさんは?」
「何が?」
「どういうのがいいの」
聞き返すと、ひよりは少しだけ目を瞬かせた。
「私?」
「うん」
「…普通の」
「雑」
「人のこと言えないでしょ」
たしかにそうだ。
少しだけ笑う。
ひよりは笑い返したあと、視線を前に戻して静かに言った。
「でも本当に、普通のがいいよ」
「例えば?」
ひよりは少しだけ考えてから言葉を選ぶ。
「勝ち負けにならないやつ」
その一言は、思っていたより強く残った。
「勝ち負け」
「うん」
「誰かより上とか、誰が一番とか」
「そういうのじゃなくて」
「ただ普通に話して、普通に好きになって、普通に付き合うみたいな」
僕はその横顔を見ながら、少しだけ息を止める。
ひよりの言う“普通”は、たぶん僕がぼんやり思っていたものより、もっと具体的で、もっとちゃんとしていた。
「私は別に」
ひよりは続ける。
「誰かに勝って選ばれたいわけじゃないの」
「“一番”って言われたいんじゃなくて、ちゃんと好きになられたいだけ」
その言葉は、前に聞いた「選ばれたいわけじゃない」に、もう一歩意味が足された感じがした。
ちゃんと好きになられたい。
それは、ただ好意を向けられることとはまるで違う。
少し特別みたいに扱われることとも違う。
もっとまっすぐで、もっとごまかしがきかない感じがする。
「…それ、すごいな」
思わずそう言うと、ひよりが少し眉をひそめる。
「何が?」
「ちゃんとそう言えるの」
「言えるよ、別に」
「僕、たぶん今までそういうの分かってなかった」
ひよりは少しだけこっちを見る。
「分かってなかったって?」
「誰かに好かれるとか」
「ちょっと特別扱いされるとか」
「そういうのばっかり見てた気がする」
「うん」
「でも、それって結局、自分が気持ちいいかどうかの話なんだよね」
そこまで言うと、ひよりは何も言わずに待ってくれた。
「ちゃんと好きになるとか」
「ちゃんと一人を見るとか」
「たぶん、そういう方がずっと怖い」
ひよりが小さく息を吐く。
「怖いだろうね」
「うん」
「だって、それは誤魔化せないから」
その一言に、僕は少しだけ目を上げた。
誤魔化せない。
たしかにそうだ。
誰にでも少しずつ向けていれば、どこかで逃げられる。
でも、一人をちゃんと見るとなると、もう逃げ道が減る。
好きじゃないなら好きじゃない。
好きなら好き。
その人以外には違うと言うことにもなる。
だから、怖い。
「…それでも」
ひよりが少しだけ声をやわらげる。
「たぶん、そっちの方がちゃんとした恋愛なんだと思う」
僕は返事ができなかった。
ちゃんとした恋愛。
その言葉は、今の僕には少し重い。
でも、重いからこそ、本当に欲しいものの名前に近い気もした。
「ひよりさんって」
「うん?」
「競いたくないんだね」
そう言うと、ひよりは少しだけ口元をゆるめた。
「うん。嫌い」
「意外かも」
「何で」
「もっと普通の子って、そういうの気にするのかと思ってた」
「普通の子、って言い方もだいぶ雑」
「ごめん」
「まあいいけど」
ひよりは足元の影を見ながら続ける。
「でもさ、競って勝って、その結果“選ばれた側”になっても」
「それって、なんか違うじゃん」
「違う、かな」
「違うよ」
ひよりはきっぱり言う。
「だってそれ、好きになられたんじゃなくて、残っただけかもしれないし」
その言葉は、妙に静かで、妙に強かった。
勝ち残る。
誰かより上に行く。
最後に選ばれる。
それは一見、恋愛の成功みたいに見える。
でも、たしかにそこには“ちゃんとその人だけを好きだった”とは別のものが混ざる。
「私はそういうの嫌」
ひよりは少しだけ顔をしかめる。
「ちゃんと私を見て、ちゃんと好きになってくれる人がいい」
「じゃないと、たぶん意味ない」
僕はその横顔から目を離せなくなった。
ひよりは特別きれいなことを言っているわけじゃない。
理想論を叫んでいるわけでもない。
でも、その言葉にはちゃんと地面がある感じがする。
だから、余計に強い。
「…羨ましい」
思わずそう言うと、ひよりが少しだけ驚いた顔をする。
「羨ましい?」
「うん」
「何が」
「そういうふうに、普通がちゃんと見えてるの」
言いながら、自分の中に少しだけ痛みが走る。
「僕、たぶん今まで」
「普通に好きになるってこと、全然分かってなかった」
「好かれるのは嬉しいのに、好きになるのは怖くて」
「そのあいだでずっと曖昧にしてた」
ひよりは静かに聞いていた。
口を挟まない。
でも、ちゃんと全部受け取っているのが分かる。
「…でも、今は少しだけ分かるかも」
「何が?」
「欲しかったのは、たぶんこういう感じなんだろうなって」
「こういう感じ?」
「勝ち負けじゃなくて」
「ちゃんと一人を見る感じ」
ひよりは一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「やっとそこまで来た?」
「何その言い方」
「だって、遅いし」
「厳しいなあ」
「今さら優しくしないよ」
そう言いながらも、ひよりの声は少しだけやわらかかった。
僕はベンチの背に体を預けて、空を見上げる。
白い雲がゆっくり流れていく。
その下で、自分が今ようやく“普通”の入り口みたいなものを見つけた気がしていた。
もちろん、まだ全然届いていない。
誰か一人をちゃんと好きになるなんて、たぶん今の僕にはまだ難しい。
好かれていることを惜しむ気持ちも、完全には消えていない。
それでも。
少なくとも、どこへ向かいたいのかは少し見えた。
「…ひよりさん」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「でも、まだ全然ちゃんとできる気しない」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「うん」
ひよりは少しだけ肩をすくめる。
「でも、方向が見えたなら前よりずっといいよ」
その言葉は、しずくの“型”とも、澪の“待つ優しさ”とも違う、ひよりらしい肯定だった。
完璧じゃなくていい。
でも、向かう方向だけは間違えるな。
たぶん、そういう意味なんだろう。
昼休み終了の予鈴が鳴る。
僕たちは顔を見合わせて、同時に立ち上がった。
教室へ戻る短い廊下を歩きながら、僕は思う。
好かれることより、ちゃんと好きになることの方が、ずっと怖い。
でもたぶん、僕が欲しかったのはそっちだ。
そのことが分かっただけでも、前の自分からは少し進めた気がした。
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