「神代玲那は、奪いに来る」
九条澪の部屋を出たあと、外の空気は思っていたより冷えていた。
夕方から夜へ変わる途中の空気は薄くて、息を吸うたびに胸の奥が少しだけ冴える。
頭の中に残っていた重さも、澪さんの部屋に入る前よりはましになっていた。
完全に楽になったわけじゃない。
でも少なくとも、さっきまでみたいに全部を抱えたまま沈み続ける感じは薄れている。
階段を下りて、支援棟から本校舎側へ続く渡り廊下を歩く。
校庭の方からはまだ部活の声が聞こえていた。
何人かの生徒とすれ違う。
そのたびに無意識に少しだけ肩が固くなるけれど、今日はもう誰とも話さずに帰れる気がしていた。
その“帰れる気がしていた”は、最近の僕の中ではかなり大きな油断だった。
「またそこから出てきたのね」
声が落ちてきたのは、渡り廊下を渡り切ったところだった。
足が止まる。
聞き覚えのある声。
というより、一度聞いたら忘れにくい声だった。
顔を上げると、廊下の窓際に神代玲那が立っていた。
寄りかかるでもなく、待ちくたびれた様子もなく、ただ当然みたいにそこにいる。
細い指先でスマホを持っているけれど、視線は最初からまっすぐ僕に向いていた。
たぶん、かなり前からいたのだろう。
「…何でいるんですか」
思ったよりすぐ声が出た。
疲れているときほど、この人には変に弱さを見せたくない。
玲那は小さく肩をすくめる。
「待ってたから」
「何を」
「あなたが出てくるのを」
その答えがあまりにもそのままで、一瞬言葉が詰まる。
「…それ、普通に怖いんですけど」
「知ってる」
あっさり返される。
知っててやっているのか、と思うと余計にたちが悪い。
玲那は窓から背を離し、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
近づく速度は遅いのに、距離だけが妙に詰まる。
「前より少しましな顔になったじゃない」
「何ですか、それ」
「拒絶を覚えた顔」
また、その言い方だ。
玲那は何でも、まるで商品や獣でも見るみたいに言う。
それがひどく不快なのに、どこかで妙に本質を突いているから腹が立つ。
「別に、覚えたとかじゃないです」
「そう?」
「ただ、前よりはちゃんと断ろうとしてるだけです」
その返しに、玲那は少しだけ目を細めた。
面白がるような、試すような目だった。
「うん。それが前よりましって言ってるの」
「…褒められてる感じしませんけど」
「褒めてるつもりはないもの」
ひどく正直だ。
玲那は僕のすぐ目の前までは来ず、手が届かないくらいの位置で止まった。
その距離感が逆に計算されていて嫌だった。
「でも、前よりは価値が上がった」
「またそれですか」
「またそれよ」
玲那はためらいなく言う。
「前のあなたは、誰にでも少しずつ優しくしてた」
「今のあなたは、ちゃんと拒絶できている」
「…だから?」
「だから欲しくなるの」
その一言が、ぞっとするくらいまっすぐだった。
冗談でもない。
比喩でもない。
本当に、欲しいと思っている人間の声だった。
「やめてください」
思わず即答する。
「そういう言い方、本当に嫌いです」
「嫌いでもいいわよ」
玲那は平然としている。
「でも、そう思う側がいることまでは消えない」
「僕は物じゃない」
「知ってる」
「知ってるように見えません」
「そういう意味では扱ってないわ」
そこで少しだけ首を傾ける。
「むしろ人として見てるから、欲しいのよ」
言い換えただけで何も良くなっていない。
それどころか、前よりずっと厄介だった。
「欲しいとか、そういうの」
僕は息を吐きながら言う。
「そうやって一方的に言われるの、迷惑です」
玲那は少しだけ笑った。
「前なら、そこまではっきり言わなかったでしょうね」
「……」
「だから前よりましだって言ってるの」
褒めていないと言いながら、断ること自体は評価している。
その感覚が、本当にこの人らしくて嫌だ。
「用がないなら帰ります」
「あるから止めたの」
すぐ返ってくる。
「何ですか」
「確認」
「何を」
玲那は、一拍だけ間を置いた。
「あなたが、本当に前みたいな曖昧な態度に戻らないつもりかどうか」
その問いに、少しだけ胸が詰まる。
戻らないつもり。
そうだ。
たぶん僕はもう、前のやり方には戻れない。
戻ったらまた誰かが泣く。
それが分かってしまったから。
「…戻りません」
言い切る。
少しだけ喉が固かったけれど、声自体は思ったよりぶれなかった。
玲那はその答えを聞いて、ほんの少しだけ口元を上げた。
「そう」
「何ですか、その反応」
「思ったより本気なんだなって」
「本気じゃなきゃ困るんですけど」
「そうね」
玲那は頷く。
「でもね、東條」
「本気で断るなら、それ相応の覚悟がいる」
「…分かってます」
「分かってない」
即答だった。
その言い方に、少しだけ苛立つ。
「何でそう言い切れるんですか」
「あなた、自分が断ったら相手がどうなるか、まだ“傷つく”くらいにしか考えてないでしょ」
「それ以上あるんですか」
「ある」
玲那は静かに言う。
「傷ついて終わる相手ばかりじゃない」
「……」
「怒る人もいる」
「執着する人もいる」
「諦めずにもっと取りに来る人もいる」
その一つ一つが、まるで玲那自身のことを言っているみたいだった。
いや、たぶん実際そうなのだろう。
「断ったら終わるって思ってるなら甘い」
玲那の視線が、少しだけ細くなる。
「拒絶は、終わりじゃなくて火種になることもある」
その言葉は、今まで聞いてきた“断ることは大事”という話とはまた別の怖さを持っていた。
確かにそうかもしれない。
断れば終わる人もいる。
でも、断ることで逆に執着を強める人間だって、きっといる。
僕は、そこまでまだ考えていなかった。
「…それを脅しみたいに言うの、性格悪いですね」
そう返すと、玲那は少しだけ笑う。
「脅しじゃないわ。実演に近いだけ」
心臓が一瞬だけ強く鳴る。
「は?」
「私がそうだから」
あまりにも平然としていて、逆に一瞬意味が分からなくなる。
「あなたが曖昧な態度だった頃より、今の方が欲しい」
玲那は続ける。
「前は、誰にでも少しずつ優しいだけの、価値の低い希少男子だった」
「今は違う」
「ちゃんと拒絶できている」
「だから、手に入れたくなる」
その表現に、ぞっとする。
「やめてください」
今度の声は、少しだけ鋭くなった。
「ほんとに、そういうの嫌です」
「うん」
「面白がって近づかれるのも」
「試されるのも」
「勝手に価値をつけられるのも全部」
玲那は黙って聞いていた。
その沈黙が、逆に僕の言葉を最後まで出させる。
「僕は、誰かのものになるつもりもないし」
「あなたに決められるつもりもない」
そこまで言って、少しだけ息を整える。
「そういうの、望んでません」
玲那の目が、ほんの少しだけ変わった。
傷ついた、とは違う。
でも、明らかに“驚いた”顔だった。
その変化に、胸の奥が少しだけ縮む。
怖い。
でも、ここでやわらかくするのは違うと思う。
今のは、かなり本気の拒絶だ。
だからこそ、言い直したら意味がなくなる。
数秒の沈黙のあと、玲那はゆっくりと息を吐いた。
「へえ」
短い相づち。
「やっとそこまで言うんだ」
口元には、ほんの少しだけ笑みが残っている。
でも、その笑みの奥に何があるのかは読めない。
「…何ですか、その反応」
「思ってたより、ちゃんと嫌がるのねって」
「嫌がりますよ」
「そうでしょうね」
玲那は少しだけ視線を逸らしてから、また僕を見る。
「でも、だから欲しくなる」
「最悪ですね」
「よく言われる」
悪びれない。
「断られて諦めるなら、その程度だったってことよ」
「でも私は、その程度じゃないみたい」
その言葉は冗談みたいに軽いのに、中身はまったく軽くなかった。
僕は本能的に、一歩だけ下がりたくなる。
でもここで露骨に引くと、それすらまた何かの意味にされそうで嫌だった。
「…だったらなおさら、近づかないでください」
「無理」
即答だった。
「どうして」
「欲しいから」
この人は本当に、そこをごまかさない。
普通なら隠すはずの欲を、そのまま持ってくる。
だから危ないし、だから余計に厄介だ。
「あなたがちゃんと拒絶できるようになったなら」
玲那は少しだけ声を落とす。
「今度は、欲しい側がどう動くかも覚えた方がいい」
「何なんですか、それ」
「現実よ」
短い。
「曖昧な態度の男は、追えば手に入る」
「でも、ちゃんと拒絶できる男は、取りに行かないと手に入らない」
その言い方に、吐き気に近い嫌悪感がこみ上げる。
手に入る。
取りに行く。
どこまで行っても、この人の中で僕はそういう言葉の中に置かれている。
「…僕は、あなたのそういう考え方を受け入れるつもりはありません」
今度は少しだけゆっくり、はっきり言う。
「それでいいわ」
玲那はあっさり頷く。
「受け入れられたいわけじゃないもの」
「じゃあ何なんですか」
「欲しいだけ」
またそこへ戻る。
もう疲れる。
正しさとか誠実さとか、そういう話をしているはずなのに、この人が入ると全部が“欲しいかどうか”に引きずられる。
僕は小さく息を吐いた。
「…帰ります」
「うん」
玲那はそれを止めなかった。
でも、すれ違う直前に小さく言う。
「東條」
足が止まる。
振り返らないまま、待つ。
「ちゃんと拒絶できるようになるのは、いいことよ」
「……」
「でも、拒絶された側が簡単に引いてくれるとは限らない」
その声には、さっきまでの面白がる感じが少し薄れていた。
警告。
あるいは、忠告。
「あなたが思ってるより、欲しがる側は遠慮しない」
それだけ言って、今度こそ玲那は離れていく。
足音は静かだった。
でも、その言葉だけがやけに大きく残る。
ちゃんと断れるようになった。
それはたぶん前進だ。
でも、断れば終わると思っていたのは、たしかに少し甘かったのかもしれない。
欲しがる側は遠慮しない。
玲那の背中を見送りながら、僕はようやく一つ理解する。
断ることは、始まりでもあるのだ。
曖昧なままなら流れていったはずのものが、拒絶した瞬間に輪郭を持つ。
傷つきとして。
怒りとして。
あるいは、執着として。
「…ほんと、面倒だな」
誰にともなく呟く。
でも、そこでまた一つ思う。
面倒だからといって、曖昧な方へ戻るわけにはいかない。
その面倒の中を進むしかない。
玲那みたいな相手がいるならなおさらだった。
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