「九条澪は、待っている」
断るのは、思っていたよりずっと疲れた。
誰かに大声で責められたわけじゃない。
何かを失ったとその場ではっきり分かるわけでもない。
ただ、小さく表情が変わる。
少しだけ雰囲気が冷える。
そして、その変化を自分の目で見たあとも、平気な顔で次の授業を受けなければならない。
それが、じわじわと削ってくる。
その日の放課後も、最後の授業が終わった瞬間にはもう、頭の芯が少し重かった。
教科書を鞄にしまう。
ノートを閉じる。
椅子を引く音が教室のあちこちで重なって、放課後独特のざわめきが広がっていく。
僕はなるべく誰とも目を合わせないようにしながら、静かに立ち上がった。
今日はもう、まっすぐ帰ろう。
誰にも話しかけられないうちに、学校を出てしまおう。
そう思っていたのに、教室を出てすぐの廊下でスマホが震えた。
反射的に立ち止まる。
画面を見る。
短い通知だった。
**九条:今日は来る?**
たったそれだけ。
誘うでもなく、決めつけるでもなく、来るかどうかをこっちに渡している書き方。
その“待ち方”が、澪さんらしい。
そして、僕が弱っているときほど、そのやり方はよく効く。
行かない方がいいかもしれない、と一瞬だけ思う。
最近、澪さんの部屋へ行く回数が少し増えている。
そこに行けば、やさしくされる。
何も急がされない。
無理に答えを出さなくていい。
それは救いだ。
でも、救いであることと、頼りすぎていいことはたぶん同じじゃない。
頭では分かっている。
分かっているのに、指は止まらなかった。
**少しだけ**
送ってから、またこの言葉かと思う。
少しだけ。
少しなら。
今だけなら。
僕は本当に、その言葉の中でしか呼吸できない人間みたいだった。
◇
支援棟へ向かう廊下は、放課後になると本校舎より少し静かだ。
部活へ向かう足音も届く。
遠くで誰かが笑う声もする。
でも、それが全部一枚薄い膜の向こう側みたいに遠い。
九条澪の部屋の前まで来て、ノックをする。
「どうぞ」
すぐに返ってきた声は、今日も変わらずやわらかかった。
ドアを開ける。
部屋の中はいつもと同じだ。
白い壁。
きちんと整えられた棚。
机の上の薄い資料の束。
窓際の観葉植物。
角の丸いソファ。
そして、その中央でこちらを見た澪さんが、小さく笑う。
「いらっしゃい」
その一言で、肩のあたりの力が少し抜けそうになる。
よくない、と思う。
思うのに、体の方はもう安心しかけている。
「…お邪魔します」
「うん」
澪さんは立ち上がって、机の上を軽く整えた。
「今日はあったかいのと冷たいの、どっちがいい?」
「…あったかい方で」
「了解」
ケトルに水を足す音。
カップを取り出す小さな音。
その一つ一つが、やけに静かに響く。
僕はソファに腰を下ろした。
体が沈む。
その沈み方が、今日みたいな日には少し危ない。
「顔、疲れてるね」
背中越しに、澪さんがそう言う。
「そんなに分かりますか」
「うん。だいぶ」
否定せず、でも大げさにも言わない。
その距離感が、いつも絶妙だと思う。
「今日は何があったの?」
お湯を沸かしながらの問いかけ。
“話したくなかったら話さなくていい”という逃げ道を残した声。
僕はすぐには答えなかった。
何があった、なんて一言では言えない。
でも、全部を整理して説明する気力もなかった。
「…雰囲気が変わった感じがして」
ようやく出たのは、それくらいだった。
「うん」
「前より、みんなちゃんと距離を測ってくるっていうか」
「話しかけ方が慎重になるし」
「こっちも、どう返すか毎回考えるし」
自分で言いながら、思っていたより疲れているのが分かった。
言葉が全部少し重い。
「で、断ると」
「うん」
「ちゃんと冷える」
その一言だけで、今日一日のいくつかの場面が一気に思い出される。
ちょっとだけ止まる表情。
笑顔の端が少し落ちる瞬間。
“そっか”と言う声の温度。
澪さんはお湯を注ぎながら、静かに頷いた。
「痛いよね」
「…はい」
肯定されたことで、逆に少しだけ喉が詰まる。
痛い。
そうだ。
僕が感じているのはたぶん、それだ。
罪悪感だけじゃない。
嫌われるかもしれない不安だけでもない。
断るたびに、何か小さく痛む。
澪さんはマグカップを二つ持ってきて、片方を僕の前に置いた。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
両手で包むと、少しだけほっとする。
手が冷えていたことに、そこで初めて気づいた。
澪さんは斜め向かいに腰を下ろした。
すぐには何も言わない。
その沈黙の置き方も、やっぱりうまい。
「ちゃんと断れてる?」
やがて、静かに聞かれる。
「…前よりは」
「うん」
「でも、まだたぶん下手です」
「うん」
「言い方が硬かったり」
「逆に少し優しくしすぎたり」
「あと、終わったあとにすごい疲れる」
澪さんが少しだけ笑う。
「最後の、すごく大事そう」
「大事ですよ」
思ったよりすぐ言い返してしまって、自分で少し驚く。
でも、澪さんは気を悪くした様子もなく、むしろ少しだけ目元をやわらげた。
「うん。そうだね」
「断るときも疲れるけど、そのあとがもっと疲れるんです」
「これでよかったのかなって毎回考えるし」
「冷たかったかな、とか」
「感じ悪かったかな、とか」
そこまで言ってから、小さく息を吐く。
「前より正しいはずなのに、前よりずっとしんどい」
その言葉は、今の自分の中ではかなり本音に近かった。
曖昧だった頃の方が、その場は楽だった。
感じよくしていれば、とりあえず丸く収まった。
でもその楽さは、あとで誰かにしわ寄せがいく。
今は違う。
その場で自分が痛い。
でも、その痛みの方がたぶん本当だ。
「…ちゃんと向き合ってるからじゃない?」
澪さんが、マグカップを持ったまま言う。
「向き合う?」
「うん」
「前はその場を丸くする方に向いてたでしょ」
「今は、ちゃんと終わらせる方に向いてる」
その整理の仕方は、しっくりきた。
その場を丸くする。
ちゃんと終わらせる。
たしかに、前の僕はずっと前者だった。
その場の雰囲気。
相手の顔色。
自分の感じのよさ。
そういうものばかり優先してきた。
「…でも、向き合うってこんな疲れるんですね」
「疲れるよ」
澪さんはあっさり言う。
「だって今まで、あんまりしてこなかったことを急にやってるんだから」
「ひどい言い方」
「事実でしょ」
少しだけ笑われて、僕も思わず息を漏らす。
こういう返し方ができるのも、澪さんの部屋だからかもしれない。
教室や廊下では、こんなふうに少しだけ気を抜いた言葉はなかなか出てこない。
「ねえ」
澪さんがカップを置きながら言う。
「無理に今日、全部整理しなくていいよ」
その言葉に、やっぱり少しだけ体がゆるむ。
「でも」
「うん」
「ここでそうやって楽になるの、ちょっと危ないなって思ってます」
言ってから、自分でも少し驚く。
前なら、そう思っても口にしなかった。
言ったら、この場所まで失う気がして。
でも今は、そこも含めて言わないとまた曖昧になる気がした。
澪さんはすぐには答えなかった。
少し考えてから、ゆっくり頷く。
「そっか」
「…はい」
「危ないって思うのは、どういう意味?」
「ここに来ると、決めなくていい気がするんです」
言葉にすると、思ったよりはっきりしている。
「断るのもしんどいし」
「雰囲気が変わるのもしんどいし」
「そういうの全部、ここにいる間はちょっと遠くなる」
「うん」
「それが助かる反面」
「このまま、決めなくていい方に流れそうで」
そこまで言うと、部屋の中が少し静かになった。
澪さんは視線を落とし、しばらく何も言わなかった。
やがて、やわらかい声で返す。
「それ、ちゃんと分かってるなら、まだ大丈夫だと思う」
「そうですか」
「うん」
「分かんなくなったら危ないけど」
「今は、ここが“逃げ道”になりうるって自覚してるんでしょ?」
「…たぶん」
「なら、少なくとも全部預けちゃってるわけじゃない」
その言い方は、少しだけ救いになる。
でも同時に、今の状態が境目の近くにあるとも思わせる。
「私は」
澪さんが少しだけ視線を上げる。
「東條くんが来るの、嫌じゃないよ」
「……」
「待つこともできるし、休ませることもできる」
「でも、ここで全部決めなくて済むようにしたいわけではない」
その言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。
そうか。
澪さんはやさしいけど、何もかもを曖昧にしていたいわけじゃない。
ただ、今は疲れている僕に休む場所をくれているだけだ。
「…ごめんなさい」
思わずそう言うと、澪さんは首を振る。
「謝ることじゃないよ」
「でも、何か」
「勝手に、ここを楽な方に使おうとしてる感じがして」
「それも別に、悪いことじゃない」
澪さんは静かに言う。
「疲れたときに楽な方へ行きたくなるのは普通」
「普通、ですか」
「うん。むしろ自然」
そこで少しだけ笑う。
「問題は、そこから出なくなるとき」
その言葉は、やわらかいのに妙に重かった。
出なくなる。
たぶんそれが一番まずい。
ここに来て休む。
そのこと自体はいい。
でも、ここにいれば決めなくていい、ここなら拒絶しなくていい、そこに落ち着いてしまったら、また別の形で止まる。
「…僕、たぶんまだ弱いですね」
ぽつりと言うと、澪さんは少しだけ首を傾げた。
「弱いというより、疲れてるだけじゃない?」
「同じようなものでは」
「違うよ」
きっぱり返ってくる。
「疲れてるときに“自分は弱いからだ”ってまとめると、あとで余計しんどいから」
その言い方が、何だか少しだけしずくに似ていた。
言葉にすることで、ごまかさない。
でも、澪さんの方がもっとやわらかい。
「今日は、休んでいいと思う」
「うん」
「ただし」
そこでほんの少しだけ、声が真面目になる。
「“ここにいるから今日は考えなくていい”と、“ここにいるからもう考えなくていい”は違うからね」
その区切り方に、背筋が少し伸びる。
今日は考えなくていい。
でも、もう考えなくていいわけではない。
たったそれだけの違いなのに、意味は大きい。
「…分かりました」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんか~」
少しだけ笑われる。
でも、その笑い方は責めるものではなくて、ただ今の僕のぎりぎりを受け止めている感じだった。
しばらく、そのまま沈黙が続く。
窓の外では、もうほとんど日が落ちていた。
部屋の中の明かりが少しずつ濃くなっていく。
ケトルの保温ランプだけが、机の隅で小さく点いている。
「…ここに来ると」
僕はぽつりと言う。
「少しだけ、気持ちが軽くなるんです」
「うん」
「だから来ちゃうんだと思う」
「うん」
「それが、ありがたいです」
澪さんは少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は何も言わない。
その返し方も、やっぱり澪さんらしいと思う。
“ありがたい”と言ったからといって、そこで感情を大きく返さない。
ただ、受け取る。
だからたぶん、僕はここで話しやすいのだ。
でもその受け取り方は、同時に危うくもある。
ここにいると、拒絶しなくていい。
決めなくていい。
嫌われるかもしれない痛みを、一時的に外へ置いておける。
それが救いであることと、そのまま沈んでいけそうなことは、たぶん紙一重だ。
「少し休んだら、帰ろうか」
澪さんが静かに言う。
「…はい」
僕はそう答えて、マグカップを両手で持ち直した。
温度がまだ少し残っている。
そのぬくもりが、今だけはありがたかった。
待ってくれる人は、たいてい一番やさしい顔をしている。
そしてそのやさしさは、ときどき、断ることよりずっと抗いにくい。
そんなことをぼんやり思いながら、僕はしばらく何も言わずにその部屋の静けさに身を置いていた。
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