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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第3章

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「九条澪は、待っている」

 


 断るのは、思っていたよりずっと疲れた。


 誰かに大声で責められたわけじゃない。

 何かを失ったとその場ではっきり分かるわけでもない。

 ただ、小さく表情が変わる。

 少しだけ雰囲気が冷える。

 そして、その変化を自分の目で見たあとも、平気な顔で次の授業を受けなければならない。


 それが、じわじわと削ってくる。


 その日の放課後も、最後の授業が終わった瞬間にはもう、頭の芯が少し重かった。


 教科書を鞄にしまう。

 ノートを閉じる。

 椅子を引く音が教室のあちこちで重なって、放課後独特のざわめきが広がっていく。


 僕はなるべく誰とも目を合わせないようにしながら、静かに立ち上がった。


 今日はもう、まっすぐ帰ろう。

 誰にも話しかけられないうちに、学校を出てしまおう。


 そう思っていたのに、教室を出てすぐの廊下でスマホが震えた。


 反射的に立ち止まる。


 画面を見る。

 短い通知だった。


 **九条:今日は来る?**


 たったそれだけ。


 誘うでもなく、決めつけるでもなく、来るかどうかをこっちに渡している書き方。

 その“待ち方”が、澪さんらしい。


 そして、僕が弱っているときほど、そのやり方はよく効く。


 行かない方がいいかもしれない、と一瞬だけ思う。


 最近、澪さんの部屋へ行く回数が少し増えている。

 そこに行けば、やさしくされる。

 何も急がされない。

 無理に答えを出さなくていい。


 それは救いだ。

 でも、救いであることと、頼りすぎていいことはたぶん同じじゃない。


 頭では分かっている。


 分かっているのに、指は止まらなかった。


 **少しだけ**


 送ってから、またこの言葉かと思う。


 少しだけ。

 少しなら。

 今だけなら。


 僕は本当に、その言葉の中でしか呼吸できない人間みたいだった。


 ◇


 支援棟へ向かう廊下は、放課後になると本校舎より少し静かだ。


 部活へ向かう足音も届く。

 遠くで誰かが笑う声もする。

 でも、それが全部一枚薄い膜の向こう側みたいに遠い。


 九条澪の部屋の前まで来て、ノックをする。


「どうぞ」


 すぐに返ってきた声は、今日も変わらずやわらかかった。


 ドアを開ける。


 部屋の中はいつもと同じだ。

 白い壁。

 きちんと整えられた棚。

 机の上の薄い資料の束。

 窓際の観葉植物。

 角の丸いソファ。


 そして、その中央でこちらを見た澪さんが、小さく笑う。


「いらっしゃい」


 その一言で、肩のあたりの力が少し抜けそうになる。


 よくない、と思う。

 思うのに、体の方はもう安心しかけている。


「…お邪魔します」


「うん」


 澪さんは立ち上がって、机の上を軽く整えた。


「今日はあったかいのと冷たいの、どっちがいい?」


「…あったかい方で」


「了解」


 ケトルに水を足す音。

 カップを取り出す小さな音。

 その一つ一つが、やけに静かに響く。


 僕はソファに腰を下ろした。

 体が沈む。

 その沈み方が、今日みたいな日には少し危ない。


「顔、疲れてるね」


 背中越しに、澪さんがそう言う。


「そんなに分かりますか」


「うん。だいぶ」


 否定せず、でも大げさにも言わない。

 その距離感が、いつも絶妙だと思う。


「今日は何があったの?」


 お湯を沸かしながらの問いかけ。

 “話したくなかったら話さなくていい”という逃げ道を残した声。


 僕はすぐには答えなかった。


 何があった、なんて一言では言えない。

 でも、全部を整理して説明する気力もなかった。


「…雰囲気が変わった感じがして」


 ようやく出たのは、それくらいだった。


「うん」


「前より、みんなちゃんと距離を測ってくるっていうか」

「話しかけ方が慎重になるし」

「こっちも、どう返すか毎回考えるし」


 自分で言いながら、思っていたより疲れているのが分かった。

 言葉が全部少し重い。


「で、断ると」


「うん」


「ちゃんと冷える」


 その一言だけで、今日一日のいくつかの場面が一気に思い出される。


 ちょっとだけ止まる表情。

 笑顔の端が少し落ちる瞬間。

 “そっか”と言う声の温度。


 澪さんはお湯を注ぎながら、静かに頷いた。


「痛いよね」


「…はい」


 肯定されたことで、逆に少しだけ喉が詰まる。


 痛い。

 そうだ。

 僕が感じているのはたぶん、それだ。


 罪悪感だけじゃない。

 嫌われるかもしれない不安だけでもない。

 断るたびに、何か小さく痛む。


 澪さんはマグカップを二つ持ってきて、片方を僕の前に置いた。


「熱いから気をつけて」


「ありがとうございます」


 両手で包むと、少しだけほっとする。

 手が冷えていたことに、そこで初めて気づいた。


 澪さんは斜め向かいに腰を下ろした。

 すぐには何も言わない。

 その沈黙の置き方も、やっぱりうまい。


「ちゃんと断れてる?」


 やがて、静かに聞かれる。


「…前よりは」


「うん」


「でも、まだたぶん下手です」


「うん」


「言い方が硬かったり」

「逆に少し優しくしすぎたり」

「あと、終わったあとにすごい疲れる」


 澪さんが少しだけ笑う。


「最後の、すごく大事そう」


「大事ですよ」


 思ったよりすぐ言い返してしまって、自分で少し驚く。

 でも、澪さんは気を悪くした様子もなく、むしろ少しだけ目元をやわらげた。


「うん。そうだね」


「断るときも疲れるけど、そのあとがもっと疲れるんです」

「これでよかったのかなって毎回考えるし」

「冷たかったかな、とか」

「感じ悪かったかな、とか」


 そこまで言ってから、小さく息を吐く。


「前より正しいはずなのに、前よりずっとしんどい」


 その言葉は、今の自分の中ではかなり本音に近かった。


 曖昧だった頃の方が、その場は楽だった。

 感じよくしていれば、とりあえず丸く収まった。

 でもその楽さは、あとで誰かにしわ寄せがいく。


 今は違う。

 その場で自分が痛い。

 でも、その痛みの方がたぶん本当だ。


「…ちゃんと向き合ってるからじゃない?」


 澪さんが、マグカップを持ったまま言う。


「向き合う?」


「うん」


「前はその場を丸くする方に向いてたでしょ」

「今は、ちゃんと終わらせる方に向いてる」


 その整理の仕方は、しっくりきた。

 その場を丸くする。

 ちゃんと終わらせる。


 たしかに、前の僕はずっと前者だった。

 その場の雰囲気。

 相手の顔色。

 自分の感じのよさ。


 そういうものばかり優先してきた。


「…でも、向き合うってこんな疲れるんですね」


「疲れるよ」


 澪さんはあっさり言う。


「だって今まで、あんまりしてこなかったことを急にやってるんだから」


「ひどい言い方」


「事実でしょ」


 少しだけ笑われて、僕も思わず息を漏らす。


 こういう返し方ができるのも、澪さんの部屋だからかもしれない。

 教室や廊下では、こんなふうに少しだけ気を抜いた言葉はなかなか出てこない。


「ねえ」


 澪さんがカップを置きながら言う。


「無理に今日、全部整理しなくていいよ」


 その言葉に、やっぱり少しだけ体がゆるむ。


「でも」


「うん」


「ここでそうやって楽になるの、ちょっと危ないなって思ってます」


 言ってから、自分でも少し驚く。

 前なら、そう思っても口にしなかった。

 言ったら、この場所まで失う気がして。


 でも今は、そこも含めて言わないとまた曖昧になる気がした。


 澪さんはすぐには答えなかった。

 少し考えてから、ゆっくり頷く。


「そっか」


「…はい」


「危ないって思うのは、どういう意味?」


「ここに来ると、決めなくていい気がするんです」


 言葉にすると、思ったよりはっきりしている。


「断るのもしんどいし」

「雰囲気が変わるのもしんどいし」

「そういうの全部、ここにいる間はちょっと遠くなる」


「うん」


「それが助かる反面」

「このまま、決めなくていい方に流れそうで」


 そこまで言うと、部屋の中が少し静かになった。


 澪さんは視線を落とし、しばらく何も言わなかった。

 やがて、やわらかい声で返す。


「それ、ちゃんと分かってるなら、まだ大丈夫だと思う」


「そうですか」


「うん」


「分かんなくなったら危ないけど」

「今は、ここが“逃げ道”になりうるって自覚してるんでしょ?」


「…たぶん」


「なら、少なくとも全部預けちゃってるわけじゃない」


 その言い方は、少しだけ救いになる。

 でも同時に、今の状態が境目の近くにあるとも思わせる。


「私は」


 澪さんが少しだけ視線を上げる。


「東條くんが来るの、嫌じゃないよ」


「……」


「待つこともできるし、休ませることもできる」

「でも、ここで全部決めなくて済むようにしたいわけではない」


 その言葉に、僕は少しだけ目を見開いた。


 そうか。

 澪さんはやさしいけど、何もかもを曖昧にしていたいわけじゃない。


 ただ、今は疲れている僕に休む場所をくれているだけだ。


「…ごめんなさい」


 思わずそう言うと、澪さんは首を振る。


「謝ることじゃないよ」


「でも、何か」

「勝手に、ここを楽な方に使おうとしてる感じがして」


「それも別に、悪いことじゃない」


 澪さんは静かに言う。


「疲れたときに楽な方へ行きたくなるのは普通」


「普通、ですか」


「うん。むしろ自然」


 そこで少しだけ笑う。


「問題は、そこから出なくなるとき」


 その言葉は、やわらかいのに妙に重かった。


 出なくなる。

 たぶんそれが一番まずい。


 ここに来て休む。

 そのこと自体はいい。

 でも、ここにいれば決めなくていい、ここなら拒絶しなくていい、そこに落ち着いてしまったら、また別の形で止まる。


「…僕、たぶんまだ弱いですね」


 ぽつりと言うと、澪さんは少しだけ首を傾げた。


「弱いというより、疲れてるだけじゃない?」


「同じようなものでは」


「違うよ」


 きっぱり返ってくる。


「疲れてるときに“自分は弱いからだ”ってまとめると、あとで余計しんどいから」


 その言い方が、何だか少しだけしずくに似ていた。

 言葉にすることで、ごまかさない。

 でも、澪さんの方がもっとやわらかい。


「今日は、休んでいいと思う」


「うん」


「ただし」


 そこでほんの少しだけ、声が真面目になる。


「“ここにいるから今日は考えなくていい”と、“ここにいるからもう考えなくていい”は違うからね」


 その区切り方に、背筋が少し伸びる。


 今日は考えなくていい。

 でも、もう考えなくていいわけではない。


 たったそれだけの違いなのに、意味は大きい。


「…分かりました」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんか~」


 少しだけ笑われる。


 でも、その笑い方は責めるものではなくて、ただ今の僕のぎりぎりを受け止めている感じだった。


 しばらく、そのまま沈黙が続く。


 窓の外では、もうほとんど日が落ちていた。

 部屋の中の明かりが少しずつ濃くなっていく。

 ケトルの保温ランプだけが、机の隅で小さく点いている。


「…ここに来ると」


 僕はぽつりと言う。


「少しだけ、気持ちが軽くなるんです」


「うん」


「だから来ちゃうんだと思う」


「うん」


「それが、ありがたいです」


 澪さんは少しだけ目を細めた。


「そっか」


 それ以上は何も言わない。


 その返し方も、やっぱり澪さんらしいと思う。

 “ありがたい”と言ったからといって、そこで感情を大きく返さない。

 ただ、受け取る。


 だからたぶん、僕はここで話しやすいのだ。


 でもその受け取り方は、同時に危うくもある。

 ここにいると、拒絶しなくていい。

 決めなくていい。

 嫌われるかもしれない痛みを、一時的に外へ置いておける。


 それが救いであることと、そのまま沈んでいけそうなことは、たぶん紙一重だ。


「少し休んだら、帰ろうか」


 澪さんが静かに言う。


「…はい」


 僕はそう答えて、マグカップを両手で持ち直した。


 温度がまだ少し残っている。

 そのぬくもりが、今だけはありがたかった。


 待ってくれる人は、たいてい一番やさしい顔をしている。


 そしてそのやさしさは、ときどき、断ることよりずっと抗いにくい。


 そんなことをぼんやり思いながら、僕はしばらく何も言わずにその部屋の静けさに身を置いていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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