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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第3章

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「雰囲気が変わる」

 


 雰囲気が変わるとき、最初に消えるのは言葉より熱なんだと思う。


 朝のホームルームが終わって、一限が始まる前の短い休み時間。

 教室の中はいつも通り騒がしいはずなのに、その騒がしさの中から、僕の周りにだけ微妙な空間ができていた。


 誰も露骨に避けているわけじゃない。

 挨拶もされる。

 話しかけられないわけでもない。


 でも、前みたいな勢いはない。


「東條くん、これ後ろ回して」


 前の席の女子がプリントを差し出してくる。

 僕は「はい」とだけ返して受け取る。

 それだけのやり取りなのに、相手の方が少しだけ僕の反応を見ていた。


 以前なら、ここで一言二言、軽く会話が続いていたかもしれない。


 ――今日の小テストやばくない?

 ――昨日、先生ちょっと機嫌悪かったよね。

 そんな、何でもない雑談。


 でも今は、そこに続きが生まれない。


 僕が拒絶しているというより、向こうが先に様子を見ている感じだった。


(…ああ)


 心の中で、ぼんやり思う。


 前より、話しかけにくくなっている。


 それはたぶん、僕がそうしたからだ。

 断るようになったから。

 やわらかく濁す代わりに、ちゃんと距離を置くようになったから。


 それ自体は望んだ変化のはずだった。


 誰にでも少し特別みたいな顔をして、隙を残して、結果として期待だけを引っ張る。

 そんなやり方をやめるなら、どこかで“話しかけやすさ”は落ちる。


 それは分かっていた。

 でも、実際に教室の雰囲気としてそれを受け取ると、思っていたよりも少しこたえる。


「ねえ、凪くん」


 右斜め後ろから、小さく声がした。


 振り返ると、同じクラスの女子がノートを持ってこちらを見ていた。

 以前なら、授業の合間に何度か話したことがあるくらいの距離の子。


「この問題、合ってるかだけ見てもらっていい?」


 言い方が慎重だ。


 “見てもらっていい?”の前に、ほんの一拍ためらいがあった。

 無理なら引く準備をしている顔だった。


 僕はそのノートを見る。


 本当にただの確認だろう。

 別に断る理由はない。

 でも同時に、こういう小さなやり取りの積み重ねが、前の僕を作っていたのも事実だ。


 だから今は、一つ一つ少しだけ考える。


「…これなら合ってると思う」


 ノートを指で軽く示しながら返す。


「ほんと?よかった」


 女子は少しほっとした顔をして、でもそこから先は広げなかった。


「ありがとう」


「うん」


 それで終わる。


 前なら、ここでたぶん笑っていた。

「全然大丈夫」とか、「そこ得意なんだ」とか、余計な一言を足していたかもしれない。


 今日は足さない。


 女子は自分の席へ戻る。

 その背中を見ながら、胸の奥に変な感覚が残った。


 少しだけ、寂しい。


 それを認めるのは情けない気もする。

 でも事実だった。


 前みたいな熱っぽい近さはしんどかった。

 期待が重くなるのも苦しかった。

 なのに、それが引いていくと、今度は別の空白が残る。


 人って勝手だなと思う。

 僕が勝手なのかもしれないけど。


 ◇


 二限と三限のあいだの休み時間、今度はもっと分かりやすい変化があった。


「東條くん、あのさ」


 教室の前の方で、二人組の女子に声をかけられる。


 片方は以前にも何度か廊下で話したことがある子で、もう片方はその友達だ。

 どちらも、前の僕なら特に構えず返していた相手だった。


「今度の校外学習の班なんだけど」


 そこまで言って、一人がもう一人の顔を見る。

 視線で確認し合う感じがあった。


「…もし嫌じゃなかったら、一緒でもいいかなって」


 その“もし嫌じゃなかったら”が、今の雰囲気をそのまま表していた。


 前なら、たぶんそんな前置きはなかった。

 もっと軽く、もっと当然みたいに言っていただろう。


 嫌じゃなかったら。

 つまり、嫌かもしれない前提で話している。


 胸の奥が少しだけざわつく。


 嫌じゃない。

 でも、そこで軽く「いいよ」と返していいのかがもう分からない。


 班行動は、距離が近くなる。

 移動中も、会話も、何をしても意味がつきやすい。

 今の僕にとって、それはかなり難しい。


「…ごめん」


 少しだけ間を置いてから言う。


「今回は、なるべくそういうの避けたい」


 二人の表情が、一瞬だけ止まる。


 やっぱり痛い。

 こういう瞬間が一番痛い。


 でも、ここでごまかしたらたぶんまた同じことになる。


「そっか」


 片方の女子が、先に小さく笑った。

 無理に雰囲気を悪くしないようにしてくれているのが分かる。


「ごめんね、変なこと聞いて」


「いや」


「分かった」


 それで終わった。

 終わったはずなのに、心の中は全然終わった感じがしない。


 自分の席へ戻るとき、廊下側の窓に映る自分の顔が少しだけ固かった。


(これでいいんだよな)


 そう思おうとする。

 でも、相手が一瞬見せた表情を思い出すと、胸の奥がきゅっと縮む。


 嫌われたかもしれない。

 少なくとも、前より気軽ではなくなった。


 それは当然の結果だ。

 でも当然だから平気、とはまだならない。


「…凪くん」


 昼休み前、ひよりが机の横に来て言った。


「ちょっと外、行こ」


「なんで」


「雰囲気...変わったから」


 直球だった。


 僕は苦笑しながら立ち上がる。

 そのまま二人で廊下へ出て、人気の少ない窓際で立ち止まった。


 中庭が見える。

 風はあまりなくて、ガラス越しの日差しだけがあたたかい。


「変わったね」


 ひよりが先に言う。


「うん」


「思ったより早かった」


「何が?」


「“前と同じようには話しかけられない人”になってくの」


 僕は壁にもたれた。


「そんなに分かりやすい?」


「分かるよ」


 ひよりは窓の外を見たまま続ける。


「みんな、凪くんが前みたいに何となく感じよく返してくれるとは思ってない」

「だから、聞き方が変わる」

「誘い方も変わる」

「無理ならいいけど、って前置きが増える」


「…さっきも言われた」


「でしょ」


 たった一語の相づちが、少しだけ救いになる。

 誰かに見られていることが、今はむしろ助かる。


「正直」


 ひよりが少しだけ声を落とす。


「前より静かになったと思う」


「楽になった?」


「凪くんは?」


 逆に聞かれて、少しだけ考える。


 楽な部分はある。

 無防備に近づかれて、曖昧なやり取りのままどんどん意味が膨らんでいく感じは、前より少ない。


 でも、その分だけ距離も冷える。


「…楽なとこもある」


「うん」


「でも、前より遠い」


「うん」


「話しかけられなくなるのって、こんな感じなんだって思った」


 口にしてから、自分で少しだけ変な気分になる。


 ずっと話しかけられる側にいて、その熱さに困っていた。

 なのに今は、話しかけにくくなることの冷たさに戸惑っている。


 ひよりは少しだけ笑った。


「めんどくさいね、凪くん」


「自分でも思う」


「でも、普通そこ両方あると思うよ」


 ひよりはようやく窓から視線を外して僕を見た。


「前のままだと苦しい」

「でも、断ったら断ったで距離はできる」


「うん」


「それが“ちゃんと断る”ってことなんじゃない?」


 その言葉は、やっぱり静かに刺さる。


 ちゃんと断る。

 その結果として、前みたいな気軽さが消える。

 それは、たぶん避けられない。


「…雰囲気の代金みたい」


 ぼそっとそう言うと、ひよりが少しだけ目を丸くした。


「何それ」


「いや、何か」

「自由に断れるようになったぶん、雰囲気が変わる代金払ってる感じ」


 ひよりは数秒考えてから、小さく頷いた。


「うまいこと言うね」


「うれしくない」


「でもそうかも」


 そう言ってから、少しだけやわらかく笑う。


「断る自由には、雰囲気の代金がついてくるんだよ」


 自分で言ったくせに、ひよりに繰り返されると妙に本当っぽく聞こえる。


 僕は窓の外を見る。


 中庭を歩いている生徒たちは、遠目にはみんな普通だ。

 でも、その一人一人にもたぶん、近づきやすさとか近づきにくさとか、そういう見えない線があるのだろう。


 今の僕は、その線を前よりずっとはっきり引こうとしている。

 だからそのぶん、前みたいな熱は引いていく。


「…前の方が楽だったのかな」


 ふと、そんな言葉が出る。


 ひよりはすぐには答えなかった。

 数秒置いてから、静かに言う。


「その場だけなら、前の方が楽だったと思うよ」


「その場だけ」


「うん」


「でもその楽さって、あとで誰かが払うやつでしょ」


 僕は黙る。


 七海の顔が浮かぶ。

 たぶん、あれがその答えなんだろう。


「だから」


 ひよりが続ける。


「今しんどいのは、前より悪くなったっていうより」

「やっと自分で払ってるってことなんじゃない?」


 その言い方は、厳しいのに不思議と落ち着いた。


 僕は壁から背を離し、小さく息を吐く。


「ほんと、厳しいね」


「今さら?」


「今さらだね」


 ひよりは少しだけ肩をすくめた。


「でもさ」


「うん」


「前よりちゃんと“自分がやってること”を分かってる顔してるよ」


 その一言で、胸の中のざわつきが少しだけ静まる。


 楽にはなっていない。

 でも、無自覚ではない。

 それだけでも、たしかに前とは違うのかもしれない。


 チャイムが鳴る。


 次の授業が始まる合図に、僕たちは一度だけ顔を見合わせて、それから教室へ戻るために歩き出した。


 廊下を歩きながら、僕は自分の手を軽く握る。


 前より静かになった。

 でも、そのぶん距離が残った。


 それが、今の僕の選んでいるものなんだろう。


 断る自由には、ちゃんと雰囲気の代金がついてくる。


 そしてたぶん、それを払わずに済ませようとしてきたのが、今までの僕だった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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