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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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18/50

「誰も選ばないのは優しさじゃない」

 


 夜は静かだった。


 静かすぎて、昼間の出来事だけがやけに大きく残る。


 家に帰ってから、僕はほとんど何もしていなかった。

 鞄を床に置いて、制服のままベッドに座って、途中で一度だけ母さんに「ごはんできてるよ」と呼ばれて、食卓に行って、何を食べたのかもよく覚えていないまま部屋へ戻った。


 スマホは一度も見ていない。


 見るのが怖かった。

 誰から何が来ているのか。

 来ていないのか。

 どっちにしても、今の僕にはきつい気がした。


 机の上には、昨日のプリントとノートが出しっぱなしになっている。

 その横に伏せたままのスマホ。

 部屋の隅には脱ぎかけのカーディガン。

 何も変わっていないはずの部屋なのに、今日だけは全部が少し遠く感じた。


 ベッドに腰を下ろして、壁にもたれる。

 目を閉じると、七海の顔がすぐに浮かぶ。


 怒っていたわけじゃない。

 泣き叫んでいたわけでもない。

 ただ、静かに分かってしまった顔だった。


 ――優しくされると、期待しちゃうよ。


 あの一言は、今も胸の奥にそのまま刺さっている。


「…そんなつもりじゃなかった、か」


 小さく呟く。


 今日、あの場で言いかけて止めた言葉。

 何度も使ってきた言葉。

 でも、たぶんもう使っちゃいけない言葉だ。


 そんなつもりじゃない。

 それは、僕が楽になるための言葉だ。

 相手の気持ちを軽くする言葉じゃない。


 うつむいて、自分の手を見る。


 この手で、何か特別なことをしたわけじゃない。

 誰かに好きだと言ったわけでもない。

 付き合うって約束したわけでもない。

 でも、何もしていないわけでもなかった。


 少し笑って、少し近くで話して、少しだけ相手の気持ちを受け取って、でも最後までは返さない。


 そういうことを、ずっと繰り返していた。


 その結果が、今日だった。


 誰か一人が泣く。

 しかも、僕を責める形じゃなくて、ただ自分が勘違いしていたと分かる形で。


 あれは、たぶん一番きついやつだ。

 相手を悪者にできないから。

 怒りに逃げられないから。


 僕は両手で顔を覆った。


 息が詰まる。

 泣きたいわけじゃない。

 でも、胸のあたりがずっと苦しい。


「…最悪だ」


 また同じ言葉が出る。


 でも今の“最悪”は、ただ自分が恥ずかしいとか、軽かったとか、そういう話じゃなかった。

 もっとはっきりしている。


 僕は人を傷つけた。

 曖昧にしたまま、ちゃんと向き合わずにいたことで。


 その事実だけが、何度も胸の中で形を変えずに残っている。


 スマホが小さく震えた。


 反射で顔を上げる。

 机の上の光が、暗い部屋で少しだけ浮く。


 しばらく見ていた。

 でも、手は伸ばせなかった。


 今は、見たらたぶんだめだと思った。

 返せない。

 かといって無視したまま平気でもいられない。


 中途半端に苦しくなるだけだ。


 そのとき、もう一度スマホが震えた。

 今度は続けて二回。


 諦めて立ち上がる。

 机へ近づいて、画面を見る。


 通知はひとつだけだった。


 **ひより:今、電話できる?**


 短い一文。


 七海じゃない。

 それだけで、少しだけ呼吸が戻る。


 でも、その安堵すらどこか後ろめたい。

 ひよりなら話せると思っている自分も、結局また甘えている気がしたからだ。


 それでも、今は一人で抱えている方が危ない気がした。


 僕は少し迷ってから、


 **うん**


 とだけ返した。


 数秒後、着信が来る。


 通話ボタンを押す。

 耳に当てる。


「…もしもし」


『もしもし』


 ひよりの声は、思ったよりいつも通りだった。

 それがありがたかった。


『起きてたんだね』


「いや、まあ…寝られる感じじゃないし」


『だよね』


 そこで少しだけ沈黙が落ちる。

 沈黙が気まずくないのは、ひよりだからかもしれない。


『凪くん』


「うん」


『大丈夫じゃないでしょ』


 その問いかけに、少しだけ笑いそうになる。

 笑える内容じゃないのに、こういう聞き方をされると変に力が抜ける。


「…うん。大丈夫じゃない」


『そっか』


「ひよりさんは、正直だね」


『変に“大丈夫?”って聞いたら、たぶん“大丈夫”って言うでしょ』


「言うかも」


『だから先に言っといた』


 ひよりらしい。


 僕はベッドの端に腰を下ろし直した。

 スマホを耳に当てたまま、壁に少しだけ頭を預ける。


「…今日、最悪だった」


『うん』


「うん、なんだ」


『見てたし』


 その一言に、少しだけ胸が縮む。


「…どこから」


『七海ちゃんが“私だけじゃなかったんだ”って言ったあたりから』


「最悪じゃん」


『最悪だったね』


 否定しない。


 でも、その言い方には責める感じがなかった。

 事実として受け取っているだけだ。


「僕、何も言えなかった」


『うん』


「いや、言ったけど、全部言葉が軽かった」


『うん』


「“ごめん”も、“そんなつもりじゃ”も、全部」


 そこまで言って、少しだけ息を詰まらせる。


「結局、自分が楽になりたいだけだった気がする」


 ひよりは少しだけ黙った。


『それは、そうかもね』


 やさしくはない。

 でも、必要以上に冷たくもない。

 そのちょうど真ん中の返しが、今はありがたかった。


「ねえ、ひよりさん」


『うん』


「僕さ」


『うん』


「誰かを選んだら、誰かが傷つくと思ってた」


 口にすると、ずっと胸の奥にあったものが少しだけ形になる。


「だから、誰とも決めないでいた方が、まだましだって」

「それなら少なくとも、僕が誰か一人を断ることにはならないし」


『うん』


「でも、違った」


 今日、その“違う”を目の前で見た。


「選ばないままでも、ちゃんと傷つくんだね」


 ひよりは少しだけ息を吐いたのが分かった。


『うん』


「…もっとひどい形で?」


『場合によってはね』


 短い。

 でも、その短さが余計に答えみたいだった。


「僕、ずっと勘違いしてたのかも」


『何を?』


「誰も選ばないのは、やさしさだと思ってた」


 沈黙。


 僕は続ける。


「誰か一人を選んだら、残りの人は違うってことになる」

「だったら最初から誰とも決めない方が、少しはましだって思ってた」


『うん』


「でも、それってたぶん」


 言葉が喉に引っかかる。

 でも、ここで止まったらまた同じだと思った。


「僕が、悪者になりたくなかっただけだ」


 言ってしまうと、想像していたよりずっとみっともなかった。


 悪者になりたくない。

 嫌われたくない。

 がっかりされる顔を見たくない。


 だから誰も選ばない。

 そのくせ、向けられる好意は惜しい。


 そんなの、やさしさでも何でもない。


 ひよりは電話の向こうでしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が長く感じて、少しだけ怖くなる。


「…ひよりさん?」


『うん、いるよ』


「何か言ってよ」


『今、ちゃんと考えてる』


 その返しに、少しだけ苦笑する。


 ひよりはいつも、適当に慰めない。

 だから信用できるのかもしれない。


 数秒後、ひよりが静かに言った。


『たぶん、凪くんのその考え方って』


「うん」


『やさしさも少しはあったと思うよ』


 意外な言葉だった。


「…あるの?」


『あるでしょ。誰かを傷つけたくないって気持ち自体は本当なんだろうし』


「……」


『でも、それだけじゃなかったんだよね』


「うん」


『たぶん、そこを混ぜたままにしてたから、凪くん自身も“自分はやさしいだけだ”って思いたかったんじゃない?』


 それは、今まで誰かに言われてきた言葉たちを、もう一段だけ深くした感じがした。


 僕は、やさしい気持ちがゼロだったわけじゃない。

 でも、その中に自分が傷つきたくない気持ちや、好かれていたい気持ちも混ざっていた。


 それを全部“やさしさ”にまとめていた。

 だから、自分でもずっと曖昧だった。


「…最低だな」


『うん、まあ、きれいではないね』


「言い方」


『でもさ』


 ひよりの声が、少しだけやわらかくなる。


『そこまで言えるようになったのは、たぶん前よりずっと本気だよ』


「本気?」


『自分で自分のこと、ちゃんと見始めたってこと』


 その言葉に、少しだけ息が止まる。


 見始めた。

 たしかに、そうなのかもしれない。


 見たくないところを、ようやく見始めた。

 だから苦しい。


「…しんどいよ」


『うん』


「やさしくないし、誠実でもなかったし」

「誰かを傷つけたくないって言いながら、結局一番守ってたの自分だし」


『うん』


「それを今さら分かって、どうすればいいのかも分かんないし」


 少し声が掠れる。


「普通に好きになりたいって思ったのに、その普通が何かもまだ全然分からない」


 ひよりはすぐには返さなかった。

 でも、通話を切る気配はない。

 ただそこにいてくれるだけで、少しだけ話しやすい。


『凪くん』


「うん」


『たぶん今、いきなり“普通”にはなれないよ』


「…だろうね」


『だって今までずっと、普通じゃない環境で、普通じゃないやり方してきたんだから』


 その言い方は厳しいけれど、変に慰められるよりずっと落ち着いた。


『でも』


「うん」


『誰も選ばないのは、やさしさじゃないって分かったんでしょ』


「…うん」


『じゃあ、次はそこからじゃない?』


「そこから?」


『ちゃんと断るとか、ちゃんと向き合うとか』

『少なくとも、“誰にでも少しずつ”はやめるとか』


 僕は壁にもたれたまま、天井を見上げる。


 誰にでも少しずつ。

 たしかに、それが今までの僕だった。


 少しやさしくして、

 少し期待を残して、

 でも、誰にも本気の責任は負わない。


 その中途半端さが、一番だめだった。


「…うん」


 小さく答える。


「もう、曖昧にはしたくない」


『うん』


「怖いけど」


『うん』


「嫌われるのも、がっかりされるのも、まだ怖いけど」


『うん』


「でも、だからってまた同じことしたら、たぶんもっとひどい」


 それは、今日ちゃんと分かったことだ。


 ひよりが電話の向こうで小さく息を吐く。


『それなら、たぶん大丈夫だよ』


「何が」


『次は、少し変われると思う』


 その言い方は断定じゃない。

 でも、適当な励ましでもない。


 少し変われる。

 今の僕には、そのくらいの言い方がちょうどよかった。


「…ひよりさん」


『なに』


「ありがとう」


『うん』


「でも、まだたぶん、全然ちゃんとはできない」


『知ってる』


「知ってるんだ」


『知ってるよ』


 少しだけ笑った声で、ひよりが言う。


『凪くん、不器用なとこだけは信用してるから』


「それ、褒めてる?」


『半分くらい』


 その返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。


 笑える内容じゃない。

 でも、笑えないままだとたぶん今夜は眠れなかった。


「…もう少し考える」


『うん』


「ちゃんと、断るとか、向き合うとか」


『うん』


「誰も選ばないのが正しいって、もう思わないようにする」


 言いながら、その言葉が自分の中に少しずつ落ちていくのが分かった。


 誰も選ばないのは、やさしさじゃない。

 たぶん、ただの逃げだ。


 そのことを、ようやく本当の意味で理解したのだと思う。


『じゃあ今日は寝なよ』


 ひよりが言う。


『明日も学校なんだから』


「うん」


『スマホ見すぎないでね』


「…見てないよ」


『じゃあそのまま見ない方がいい』


「分かってる」


『ほんとに?』


「たぶん」


『たぶんって言った』


「うるさい」


 少しだけ笑って、通話を切る。


 部屋はまた静かになる。

 でも、さっきまでとは少しだけ違う静けさだった。


 何も解決していない。

 明日になればまた誰かに話しかけられるかもしれないし、また迷うかもしれない。

 それでも、少なくとも今は一つだけはっきりしている。


 誰も選ばないのは、やさしさじゃない。


 それを知ったまま、前と同じようには戻れない。


 僕はゆっくりとスマホを机に置き、ベッドへ横になる。

 目を閉じると、まだ七海の顔も、ひよりの声も残っている。


 でも、その中に一つだけ、さっきまでなかった言葉があった。


 もう曖昧にはしない。


 まだ完璧にはできない。

 たぶん失敗もする。

 それでも、そこからしか始まらないのだと思う。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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