「誰も選ばないのは優しさじゃない」
夜は静かだった。
静かすぎて、昼間の出来事だけがやけに大きく残る。
家に帰ってから、僕はほとんど何もしていなかった。
鞄を床に置いて、制服のままベッドに座って、途中で一度だけ母さんに「ごはんできてるよ」と呼ばれて、食卓に行って、何を食べたのかもよく覚えていないまま部屋へ戻った。
スマホは一度も見ていない。
見るのが怖かった。
誰から何が来ているのか。
来ていないのか。
どっちにしても、今の僕にはきつい気がした。
机の上には、昨日のプリントとノートが出しっぱなしになっている。
その横に伏せたままのスマホ。
部屋の隅には脱ぎかけのカーディガン。
何も変わっていないはずの部屋なのに、今日だけは全部が少し遠く感じた。
ベッドに腰を下ろして、壁にもたれる。
目を閉じると、七海の顔がすぐに浮かぶ。
怒っていたわけじゃない。
泣き叫んでいたわけでもない。
ただ、静かに分かってしまった顔だった。
――優しくされると、期待しちゃうよ。
あの一言は、今も胸の奥にそのまま刺さっている。
「…そんなつもりじゃなかった、か」
小さく呟く。
今日、あの場で言いかけて止めた言葉。
何度も使ってきた言葉。
でも、たぶんもう使っちゃいけない言葉だ。
そんなつもりじゃない。
それは、僕が楽になるための言葉だ。
相手の気持ちを軽くする言葉じゃない。
うつむいて、自分の手を見る。
この手で、何か特別なことをしたわけじゃない。
誰かに好きだと言ったわけでもない。
付き合うって約束したわけでもない。
でも、何もしていないわけでもなかった。
少し笑って、少し近くで話して、少しだけ相手の気持ちを受け取って、でも最後までは返さない。
そういうことを、ずっと繰り返していた。
その結果が、今日だった。
誰か一人が泣く。
しかも、僕を責める形じゃなくて、ただ自分が勘違いしていたと分かる形で。
あれは、たぶん一番きついやつだ。
相手を悪者にできないから。
怒りに逃げられないから。
僕は両手で顔を覆った。
息が詰まる。
泣きたいわけじゃない。
でも、胸のあたりがずっと苦しい。
「…最悪だ」
また同じ言葉が出る。
でも今の“最悪”は、ただ自分が恥ずかしいとか、軽かったとか、そういう話じゃなかった。
もっとはっきりしている。
僕は人を傷つけた。
曖昧にしたまま、ちゃんと向き合わずにいたことで。
その事実だけが、何度も胸の中で形を変えずに残っている。
スマホが小さく震えた。
反射で顔を上げる。
机の上の光が、暗い部屋で少しだけ浮く。
しばらく見ていた。
でも、手は伸ばせなかった。
今は、見たらたぶんだめだと思った。
返せない。
かといって無視したまま平気でもいられない。
中途半端に苦しくなるだけだ。
そのとき、もう一度スマホが震えた。
今度は続けて二回。
諦めて立ち上がる。
机へ近づいて、画面を見る。
通知はひとつだけだった。
**ひより:今、電話できる?**
短い一文。
七海じゃない。
それだけで、少しだけ呼吸が戻る。
でも、その安堵すらどこか後ろめたい。
ひよりなら話せると思っている自分も、結局また甘えている気がしたからだ。
それでも、今は一人で抱えている方が危ない気がした。
僕は少し迷ってから、
**うん**
とだけ返した。
数秒後、着信が来る。
通話ボタンを押す。
耳に当てる。
「…もしもし」
『もしもし』
ひよりの声は、思ったよりいつも通りだった。
それがありがたかった。
『起きてたんだね』
「いや、まあ…寝られる感じじゃないし」
『だよね』
そこで少しだけ沈黙が落ちる。
沈黙が気まずくないのは、ひよりだからかもしれない。
『凪くん』
「うん」
『大丈夫じゃないでしょ』
その問いかけに、少しだけ笑いそうになる。
笑える内容じゃないのに、こういう聞き方をされると変に力が抜ける。
「…うん。大丈夫じゃない」
『そっか』
「ひよりさんは、正直だね」
『変に“大丈夫?”って聞いたら、たぶん“大丈夫”って言うでしょ』
「言うかも」
『だから先に言っといた』
ひよりらしい。
僕はベッドの端に腰を下ろし直した。
スマホを耳に当てたまま、壁に少しだけ頭を預ける。
「…今日、最悪だった」
『うん』
「うん、なんだ」
『見てたし』
その一言に、少しだけ胸が縮む。
「…どこから」
『七海ちゃんが“私だけじゃなかったんだ”って言ったあたりから』
「最悪じゃん」
『最悪だったね』
否定しない。
でも、その言い方には責める感じがなかった。
事実として受け取っているだけだ。
「僕、何も言えなかった」
『うん』
「いや、言ったけど、全部言葉が軽かった」
『うん』
「“ごめん”も、“そんなつもりじゃ”も、全部」
そこまで言って、少しだけ息を詰まらせる。
「結局、自分が楽になりたいだけだった気がする」
ひよりは少しだけ黙った。
『それは、そうかもね』
やさしくはない。
でも、必要以上に冷たくもない。
そのちょうど真ん中の返しが、今はありがたかった。
「ねえ、ひよりさん」
『うん』
「僕さ」
『うん』
「誰かを選んだら、誰かが傷つくと思ってた」
口にすると、ずっと胸の奥にあったものが少しだけ形になる。
「だから、誰とも決めないでいた方が、まだましだって」
「それなら少なくとも、僕が誰か一人を断ることにはならないし」
『うん』
「でも、違った」
今日、その“違う”を目の前で見た。
「選ばないままでも、ちゃんと傷つくんだね」
ひよりは少しだけ息を吐いたのが分かった。
『うん』
「…もっとひどい形で?」
『場合によってはね』
短い。
でも、その短さが余計に答えみたいだった。
「僕、ずっと勘違いしてたのかも」
『何を?』
「誰も選ばないのは、やさしさだと思ってた」
沈黙。
僕は続ける。
「誰か一人を選んだら、残りの人は違うってことになる」
「だったら最初から誰とも決めない方が、少しはましだって思ってた」
『うん』
「でも、それってたぶん」
言葉が喉に引っかかる。
でも、ここで止まったらまた同じだと思った。
「僕が、悪者になりたくなかっただけだ」
言ってしまうと、想像していたよりずっとみっともなかった。
悪者になりたくない。
嫌われたくない。
がっかりされる顔を見たくない。
だから誰も選ばない。
そのくせ、向けられる好意は惜しい。
そんなの、やさしさでも何でもない。
ひよりは電話の向こうでしばらく何も言わなかった。
その沈黙が長く感じて、少しだけ怖くなる。
「…ひよりさん?」
『うん、いるよ』
「何か言ってよ」
『今、ちゃんと考えてる』
その返しに、少しだけ苦笑する。
ひよりはいつも、適当に慰めない。
だから信用できるのかもしれない。
数秒後、ひよりが静かに言った。
『たぶん、凪くんのその考え方って』
「うん」
『やさしさも少しはあったと思うよ』
意外な言葉だった。
「…あるの?」
『あるでしょ。誰かを傷つけたくないって気持ち自体は本当なんだろうし』
「……」
『でも、それだけじゃなかったんだよね』
「うん」
『たぶん、そこを混ぜたままにしてたから、凪くん自身も“自分はやさしいだけだ”って思いたかったんじゃない?』
それは、今まで誰かに言われてきた言葉たちを、もう一段だけ深くした感じがした。
僕は、やさしい気持ちがゼロだったわけじゃない。
でも、その中に自分が傷つきたくない気持ちや、好かれていたい気持ちも混ざっていた。
それを全部“やさしさ”にまとめていた。
だから、自分でもずっと曖昧だった。
「…最低だな」
『うん、まあ、きれいではないね』
「言い方」
『でもさ』
ひよりの声が、少しだけやわらかくなる。
『そこまで言えるようになったのは、たぶん前よりずっと本気だよ』
「本気?」
『自分で自分のこと、ちゃんと見始めたってこと』
その言葉に、少しだけ息が止まる。
見始めた。
たしかに、そうなのかもしれない。
見たくないところを、ようやく見始めた。
だから苦しい。
「…しんどいよ」
『うん』
「やさしくないし、誠実でもなかったし」
「誰かを傷つけたくないって言いながら、結局一番守ってたの自分だし」
『うん』
「それを今さら分かって、どうすればいいのかも分かんないし」
少し声が掠れる。
「普通に好きになりたいって思ったのに、その普通が何かもまだ全然分からない」
ひよりはすぐには返さなかった。
でも、通話を切る気配はない。
ただそこにいてくれるだけで、少しだけ話しやすい。
『凪くん』
「うん」
『たぶん今、いきなり“普通”にはなれないよ』
「…だろうね」
『だって今までずっと、普通じゃない環境で、普通じゃないやり方してきたんだから』
その言い方は厳しいけれど、変に慰められるよりずっと落ち着いた。
『でも』
「うん」
『誰も選ばないのは、やさしさじゃないって分かったんでしょ』
「…うん」
『じゃあ、次はそこからじゃない?』
「そこから?」
『ちゃんと断るとか、ちゃんと向き合うとか』
『少なくとも、“誰にでも少しずつ”はやめるとか』
僕は壁にもたれたまま、天井を見上げる。
誰にでも少しずつ。
たしかに、それが今までの僕だった。
少しやさしくして、
少し期待を残して、
でも、誰にも本気の責任は負わない。
その中途半端さが、一番だめだった。
「…うん」
小さく答える。
「もう、曖昧にはしたくない」
『うん』
「怖いけど」
『うん』
「嫌われるのも、がっかりされるのも、まだ怖いけど」
『うん』
「でも、だからってまた同じことしたら、たぶんもっとひどい」
それは、今日ちゃんと分かったことだ。
ひよりが電話の向こうで小さく息を吐く。
『それなら、たぶん大丈夫だよ』
「何が」
『次は、少し変われると思う』
その言い方は断定じゃない。
でも、適当な励ましでもない。
少し変われる。
今の僕には、そのくらいの言い方がちょうどよかった。
「…ひよりさん」
『なに』
「ありがとう」
『うん』
「でも、まだたぶん、全然ちゃんとはできない」
『知ってる』
「知ってるんだ」
『知ってるよ』
少しだけ笑った声で、ひよりが言う。
『凪くん、不器用なとこだけは信用してるから』
「それ、褒めてる?」
『半分くらい』
その返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
笑える内容じゃない。
でも、笑えないままだとたぶん今夜は眠れなかった。
「…もう少し考える」
『うん』
「ちゃんと、断るとか、向き合うとか」
『うん』
「誰も選ばないのが正しいって、もう思わないようにする」
言いながら、その言葉が自分の中に少しずつ落ちていくのが分かった。
誰も選ばないのは、やさしさじゃない。
たぶん、ただの逃げだ。
そのことを、ようやく本当の意味で理解したのだと思う。
『じゃあ今日は寝なよ』
ひよりが言う。
『明日も学校なんだから』
「うん」
『スマホ見すぎないでね』
「…見てないよ」
『じゃあそのまま見ない方がいい』
「分かってる」
『ほんとに?』
「たぶん」
『たぶんって言った』
「うるさい」
少しだけ笑って、通話を切る。
部屋はまた静かになる。
でも、さっきまでとは少しだけ違う静けさだった。
何も解決していない。
明日になればまた誰かに話しかけられるかもしれないし、また迷うかもしれない。
それでも、少なくとも今は一つだけはっきりしている。
誰も選ばないのは、やさしさじゃない。
それを知ったまま、前と同じようには戻れない。
僕はゆっくりとスマホを机に置き、ベッドへ横になる。
目を閉じると、まだ七海の顔も、ひよりの声も残っている。
でも、その中に一つだけ、さっきまでなかった言葉があった。
もう曖昧にはしない。
まだ完璧にはできない。
たぶん失敗もする。
それでも、そこからしか始まらないのだと思う。
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