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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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「泣かせたのは」



限界は、ある日いきなり音を立てて来るわけじゃない。


少しずつ歪んで、少しずつずれて、それでも表面だけは何とか保っていたものが、ある瞬間に、もう誤魔化せなくなるだけだ。


その日も、朝から特別なことはなかった。


授業を受けて、ノートを取って、当てられれば答える。

休み時間には誰かの視線を感じて、なるべくそれに反応しすぎないようにする。

昼休みには少し早めに席を立って、人の少ない場所へ逃げる。


ここ数日の僕は、それをずっと繰り返していた。


前よりはちゃんと断る。

でも、冷たすぎないように。

余計な隙は残さない。

でも、相手を傷つけすぎないように。


そんな都合のいい調整が、本当にできるのかどうかも分からないまま、とにかくその場ごとに息を止めてやり過ごしていた。


そして、たぶんその無理は、周りから見ればけっこう分かりやすかったのだと思う。



昼休みの終わりが近い時間だった。


教室に戻ると、空気が少しだけおかしかった。


大きな声があるわけじゃない。

誰かが怒鳴っているわけでもない。

でも、いくつかの視線が妙に集まっている。


教室の後ろ。窓際の席の近く。


何があったのかと思いながらそちらを見ると、二人の女子が立っていた。


一人は二年の紗奈先輩。

もう一人は、同じ学年の七海だった。


七海は、少し前まで何度かメッセージをやり取りしていた相手の一人だ。

やわらかくて、いつも僕の返事を待つみたいに少し遠慮がちな子。


その二人が、どちらも妙に張った顔をしている。


僕の足が止まる。


嫌な予感がした。

それも、かなり具体的な種類の。


「…何かあった?」


言った瞬間、二人の視線が一斉にこちらを向いた。


その向き方だけで分かる。

これは僕の外側で起きていたことじゃない。

僕のせいで起きていることだ。


周りの何人かが、気まずそうに視線を逸らす。

でも完全には離れない。

みんな、もう何が起きるのか分かっている顔をしていた。


「何かあった、じゃないよね」


最初に口を開いたのは紗奈先輩の方だった。

怒鳴る声ではない。

むしろ抑えているぶんだけ硬い。


僕は何も言えない。


七海は僕を見て、それから紗奈先輩を見た。

その目がもう、少し赤い。


「…先輩が悪いわけじゃないです」


七海が小さく言う。


「でも、聞いちゃったから」


その言葉で、たぶん周りの何人かも、状況を察したのだと思う。

空気がさらに静かになる。


僕は、喉の奥が急に乾いていくのを感じた。


何を聞いたのか。

たぶん想像できる。

でも、確認したくない。


「何、を」


やっと出た声は、自分でも情けないくらい弱かった。


七海は少しだけ笑った。

笑った、というより、笑おうとして失敗した顔だった。


「私だけじゃなかったんだなって」


その一言で、胸の真ん中に重いものが落ちる。


やっぱりだ、と思う。

でも、やっぱりだと思ったところで、何一つましにはならない。


「七海…」


名前を呼んだ瞬間、それがひどく無神経なことみたいに感じて、すぐに後悔した。


七海は静かに首を振る。


「そういう呼び方、今しないで」


その拒絶は小さいのに、はっきりと胸に刺さった。


教室の空気がさらに冷える。

誰も口を挟まない。

助け船もない。

たぶん、ここはもう僕が自分で立つしかない場所なんだろう。


「…ごめん」


反射みたいに出た言葉だった。


でも、その瞬間、自分で分かった。

これはまた、便利な“ごめん”だ。


相手をなだめたい。

場を静めたい。

自分がこれ以上悪く見えないようにしたい。


そういう気持ちが混ざっている。


七海は、やっぱり少しだけ笑った。

今度はもっと、うまく笑えない顔で。


「それ、ほんと便利だよね」


紗奈先輩に言われたのと、ほとんど同じ意味の言葉だった。


違う相手から、同じことを言われる。

それだけで、もう言い逃れができなくなる。


「…そんなつもりじゃ」


言いかけて、止まる。


この言葉も、もう何度も失敗している。


そんなつもりじゃない。

でも、そんなつもりじゃないことが、何になる。


七海は僕の顔を見て、静かに言った。


「分かってる」


「……」


「わざとじゃないのは分かってるよ」


その声が、泣いているよりきつかった。


「でも、分かってないままやってたなら、それはそれでひどいよ」


僕は何も返せない。


たぶん、その通りだからだ。


紗奈先輩が、少しだけ七海の肩に手を置く。

慰めるためというより、そこにいることを支えるみたいな置き方だった。


七海は一度だけ目を閉じて、それからもう一度僕を見る。


「私、勝手に勘違いしてたんだと思う」


小さい声。

でも、教室は静まり返っていたから、その一言はやけにくっきり聞こえた。


「少しだけ特別なのかなって」


「……」


「私だけに優しいのかなって」


胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。


それはたぶん、七海だけじゃなかった。

紗奈先輩も。

美優も。

もしかしたら、もっといたのかもしれない。


誰にも付き合うと言っていない。

嘘もついていない。

でも、だからといって“何もしていない”ことにはならない。


「…違う、って言ってくれた方がまだよかった」


七海が、ぽつりと言う。


「でも、凪くんはいつも少しだけ優しいから」


そこで、とうとう声が揺れた。


「優しくされると、期待しちゃうよ」


その一言で、何かが完全に逃げられなくなった気がした。


残す。

隙を残す。

優しくしない。


ひよりにも、しずくにも、何度も言われてきた。

でも今、それが“泣きそうな声”になって目の前にある。


「…ごめん」


また出た。

でも今度は、自分でも止められなかった。


七海は首を振る。


「謝ってほしいわけじゃない」


「じゃあ、どうしたら」


言ってから、自分で息が止まりそうになった。


どうしたら。

そんなの、僕が聞くことじゃない。

僕が聞いたところで、相手にまた答えさせるだけだ。


七海も、たぶん同じことを思ったのだろう。

目を伏せて、小さく言った。


「そういうところだよ」


その言葉は、怒鳴り声よりずっときつかった。


そういうところ。

つまり、最後まで自分で引き受けないところ。

相手に気持ちの整理までやらせてしまうところ。

やさしそうに見えて、本当はすごく無責任なところ。


僕は、そこでようやく完全に黙った。


何を言っても軽い。

何を言っても遅い。

そして、その“遅さ”を作ったのはたぶん僕自身だ。


七海は唇を結んで、それから小さく息を吸った。


「もういい」


泣きそうな声なのに、言葉はきっぱりしていた。


「私が勝手に期待してただけだから」


その言い方は、自分を納得させるためのものに近かった。

だからこそ、余計に痛い。


紗奈先輩が「七海」と小さく呼ぶ。

七海は一度だけ頷いて、それから僕を見ずに教室を出ていった。


誰も止めない。

止められない。


僕はその背中を追えなかった。


追えばよかったのかもしれない。

でも、今の僕が追って何を言う。

また便利な“ごめん”を置いて、余計に相手を疲れさせるだけじゃないのか。


教室の空気は、もう取り返しのつかない形で重かった。


紗奈先輩はその場に数秒だけ立っていたけれど、やがて僕に向かって言った。


「…私、凪くんのこと嫌いになりたくなかったんだよ」


その声は怒っていない。

むしろ、怒りより疲れに近かった。


「でも今のままだと、たぶん無理」


それだけ言って、先輩も教室を出ていく。


残されたのは、教室のざわめきと、誰もこちらをまっすぐ見ようとしない空気だった。


僕はそこで立ち尽くしたまま、動けなくなる。


さっきまで普通に存在していた教室が、急にまるごと自分を突き放したみたいに感じた。


そんなつもりじゃなかった。

でも、それはもう何の役にも立たない。


誰も選んでいなかったつもりだった。

でも、その“つもり”のせいで、何人かは自分が少し近い場所にいると思っていた。


その事実が、想像以上に重い。


「…凪くん」


後ろから、ひよりの声がした。


振り返れない。

今、ひよりの顔を見たら、たぶん自分が本当にどれだけひどいことをしてきたのか、もっとはっきりしてしまう気がした。


「…何」


声だけ返す。


ひよりは少し黙ってから言った。


「それが、凪くんのやってきたことだよ」


その言葉は、静かだった。

でも、逃げ道がなかった。


「……」


「誰とも付き合ってない、とか」

「わざとじゃない、とか」

「そういうの全部抜きにして」


ひよりの声は淡々としている。

責めるためじゃない。

ただ、事実だけを置くための声だ。


「いま、泣かせたでしょ」


僕は唇を噛む。

返事はできなかった。


「それが答えだよ」


その一言で、ようやく何かが胸の奥まで落ちた気がした。


答え。

そうか、これが答えなのか。


優しかったかどうか。

悪気があったかなかったか。

そんなことより先に、結果として誰かが泣いた。

それが、僕の曖昧さの答え。


「…ごめん」


ひよりに向かってそう言うと、ひよりは小さく首を振った。


「私に謝っても意味ない」


「分かってる」


「なら、今はちゃんと覚えて」


そこで初めて、少しだけ声が揺れた。


「そんなつもりじゃない、で済むなら誰も泣かない」


僕は、やっと振り返る。


ひよりの顔は怒っていたわけじゃなかった。

ただ、すごく真剣だった。


だから余計に痛かった。


その痛みのまま、僕はゆっくり自分の席に戻る。

鞄を持つ。

教科書の重さが、いつもよりずっと鈍く肩に食い込む。


教室の誰も、もう僕に話しかけてこなかった。


それが当然だと思う。

今の空気の中で、何を言えばいいのか分かる人なんてたぶんいない。


僕自身も分からない。



家に帰ってからも、七海の声が頭から離れなかった。


――優しくされると、期待しちゃうよ。


たった一言。

でも、その一言の中に、今まで僕が軽く扱ってきたものが全部入っていた気がする。


期待。

隙。

曖昧さ。

そして、それを受け取っていた自分。


制服のままベッドに座る。

スマホを見る気にもなれなかった。

通知が来ているかどうかも、今は確認したくない。


静かな部屋の中で、今日の教室の光景だけが何度も蘇る。


七海の赤い目。

無理に笑おうとした口元。

紗奈先輩の、疲れたみたいな声。

ひよりの、逃がさない言葉。


そして、自分の「そんなつもりじゃなかった」。


「…最悪だ」


今日は何度目だろう。

でも、今までのどの“最悪”よりも、今日のこれは重かった。


そんなつもりじゃない。

でも、なった。


泣かせるつもりはなかった。

でも、泣いた。


選んだつもりはなかった。

でも、誰かは“自分だけは少し違う”と思っていた。


じゃあ、僕は何をしていたんだろう。


やさしくしていた?

違う。


傷つけないようにしていた?

違う。


誰も選ばないことで、自分だけが傷つかない場所に立っていただけだ。


そこまで考えて、やっと本当に分かる。


僕は誰も選んでいなかったんじゃない。

誰の想いも引き受けていなかっただけだ。


その事実が、胸のいちばん深いところに落ちる。


静かに泣かれる方が、ずっと痛かった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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