「泣かせたのは」
限界は、ある日いきなり音を立てて来るわけじゃない。
少しずつ歪んで、少しずつずれて、それでも表面だけは何とか保っていたものが、ある瞬間に、もう誤魔化せなくなるだけだ。
その日も、朝から特別なことはなかった。
授業を受けて、ノートを取って、当てられれば答える。
休み時間には誰かの視線を感じて、なるべくそれに反応しすぎないようにする。
昼休みには少し早めに席を立って、人の少ない場所へ逃げる。
ここ数日の僕は、それをずっと繰り返していた。
前よりはちゃんと断る。
でも、冷たすぎないように。
余計な隙は残さない。
でも、相手を傷つけすぎないように。
そんな都合のいい調整が、本当にできるのかどうかも分からないまま、とにかくその場ごとに息を止めてやり過ごしていた。
そして、たぶんその無理は、周りから見ればけっこう分かりやすかったのだと思う。
◇
昼休みの終わりが近い時間だった。
教室に戻ると、空気が少しだけおかしかった。
大きな声があるわけじゃない。
誰かが怒鳴っているわけでもない。
でも、いくつかの視線が妙に集まっている。
教室の後ろ。窓際の席の近く。
何があったのかと思いながらそちらを見ると、二人の女子が立っていた。
一人は二年の紗奈先輩。
もう一人は、同じ学年の七海だった。
七海は、少し前まで何度かメッセージをやり取りしていた相手の一人だ。
やわらかくて、いつも僕の返事を待つみたいに少し遠慮がちな子。
その二人が、どちらも妙に張った顔をしている。
僕の足が止まる。
嫌な予感がした。
それも、かなり具体的な種類の。
「…何かあった?」
言った瞬間、二人の視線が一斉にこちらを向いた。
その向き方だけで分かる。
これは僕の外側で起きていたことじゃない。
僕のせいで起きていることだ。
周りの何人かが、気まずそうに視線を逸らす。
でも完全には離れない。
みんな、もう何が起きるのか分かっている顔をしていた。
「何かあった、じゃないよね」
最初に口を開いたのは紗奈先輩の方だった。
怒鳴る声ではない。
むしろ抑えているぶんだけ硬い。
僕は何も言えない。
七海は僕を見て、それから紗奈先輩を見た。
その目がもう、少し赤い。
「…先輩が悪いわけじゃないです」
七海が小さく言う。
「でも、聞いちゃったから」
その言葉で、たぶん周りの何人かも、状況を察したのだと思う。
空気がさらに静かになる。
僕は、喉の奥が急に乾いていくのを感じた。
何を聞いたのか。
たぶん想像できる。
でも、確認したくない。
「何、を」
やっと出た声は、自分でも情けないくらい弱かった。
七海は少しだけ笑った。
笑った、というより、笑おうとして失敗した顔だった。
「私だけじゃなかったんだなって」
その一言で、胸の真ん中に重いものが落ちる。
やっぱりだ、と思う。
でも、やっぱりだと思ったところで、何一つましにはならない。
「七海…」
名前を呼んだ瞬間、それがひどく無神経なことみたいに感じて、すぐに後悔した。
七海は静かに首を振る。
「そういう呼び方、今しないで」
その拒絶は小さいのに、はっきりと胸に刺さった。
教室の空気がさらに冷える。
誰も口を挟まない。
助け船もない。
たぶん、ここはもう僕が自分で立つしかない場所なんだろう。
「…ごめん」
反射みたいに出た言葉だった。
でも、その瞬間、自分で分かった。
これはまた、便利な“ごめん”だ。
相手をなだめたい。
場を静めたい。
自分がこれ以上悪く見えないようにしたい。
そういう気持ちが混ざっている。
七海は、やっぱり少しだけ笑った。
今度はもっと、うまく笑えない顔で。
「それ、ほんと便利だよね」
紗奈先輩に言われたのと、ほとんど同じ意味の言葉だった。
違う相手から、同じことを言われる。
それだけで、もう言い逃れができなくなる。
「…そんなつもりじゃ」
言いかけて、止まる。
この言葉も、もう何度も失敗している。
そんなつもりじゃない。
でも、そんなつもりじゃないことが、何になる。
七海は僕の顔を見て、静かに言った。
「分かってる」
「……」
「わざとじゃないのは分かってるよ」
その声が、泣いているよりきつかった。
「でも、分かってないままやってたなら、それはそれでひどいよ」
僕は何も返せない。
たぶん、その通りだからだ。
紗奈先輩が、少しだけ七海の肩に手を置く。
慰めるためというより、そこにいることを支えるみたいな置き方だった。
七海は一度だけ目を閉じて、それからもう一度僕を見る。
「私、勝手に勘違いしてたんだと思う」
小さい声。
でも、教室は静まり返っていたから、その一言はやけにくっきり聞こえた。
「少しだけ特別なのかなって」
「……」
「私だけに優しいのかなって」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
それはたぶん、七海だけじゃなかった。
紗奈先輩も。
美優も。
もしかしたら、もっといたのかもしれない。
誰にも付き合うと言っていない。
嘘もついていない。
でも、だからといって“何もしていない”ことにはならない。
「…違う、って言ってくれた方がまだよかった」
七海が、ぽつりと言う。
「でも、凪くんはいつも少しだけ優しいから」
そこで、とうとう声が揺れた。
「優しくされると、期待しちゃうよ」
その一言で、何かが完全に逃げられなくなった気がした。
残す。
隙を残す。
優しくしない。
ひよりにも、しずくにも、何度も言われてきた。
でも今、それが“泣きそうな声”になって目の前にある。
「…ごめん」
また出た。
でも今度は、自分でも止められなかった。
七海は首を振る。
「謝ってほしいわけじゃない」
「じゃあ、どうしたら」
言ってから、自分で息が止まりそうになった。
どうしたら。
そんなの、僕が聞くことじゃない。
僕が聞いたところで、相手にまた答えさせるだけだ。
七海も、たぶん同じことを思ったのだろう。
目を伏せて、小さく言った。
「そういうところだよ」
その言葉は、怒鳴り声よりずっときつかった。
そういうところ。
つまり、最後まで自分で引き受けないところ。
相手に気持ちの整理までやらせてしまうところ。
やさしそうに見えて、本当はすごく無責任なところ。
僕は、そこでようやく完全に黙った。
何を言っても軽い。
何を言っても遅い。
そして、その“遅さ”を作ったのはたぶん僕自身だ。
七海は唇を結んで、それから小さく息を吸った。
「もういい」
泣きそうな声なのに、言葉はきっぱりしていた。
「私が勝手に期待してただけだから」
その言い方は、自分を納得させるためのものに近かった。
だからこそ、余計に痛い。
紗奈先輩が「七海」と小さく呼ぶ。
七海は一度だけ頷いて、それから僕を見ずに教室を出ていった。
誰も止めない。
止められない。
僕はその背中を追えなかった。
追えばよかったのかもしれない。
でも、今の僕が追って何を言う。
また便利な“ごめん”を置いて、余計に相手を疲れさせるだけじゃないのか。
教室の空気は、もう取り返しのつかない形で重かった。
紗奈先輩はその場に数秒だけ立っていたけれど、やがて僕に向かって言った。
「…私、凪くんのこと嫌いになりたくなかったんだよ」
その声は怒っていない。
むしろ、怒りより疲れに近かった。
「でも今のままだと、たぶん無理」
それだけ言って、先輩も教室を出ていく。
残されたのは、教室のざわめきと、誰もこちらをまっすぐ見ようとしない空気だった。
僕はそこで立ち尽くしたまま、動けなくなる。
さっきまで普通に存在していた教室が、急にまるごと自分を突き放したみたいに感じた。
そんなつもりじゃなかった。
でも、それはもう何の役にも立たない。
誰も選んでいなかったつもりだった。
でも、その“つもり”のせいで、何人かは自分が少し近い場所にいると思っていた。
その事実が、想像以上に重い。
「…凪くん」
後ろから、ひよりの声がした。
振り返れない。
今、ひよりの顔を見たら、たぶん自分が本当にどれだけひどいことをしてきたのか、もっとはっきりしてしまう気がした。
「…何」
声だけ返す。
ひよりは少し黙ってから言った。
「それが、凪くんのやってきたことだよ」
その言葉は、静かだった。
でも、逃げ道がなかった。
「……」
「誰とも付き合ってない、とか」
「わざとじゃない、とか」
「そういうの全部抜きにして」
ひよりの声は淡々としている。
責めるためじゃない。
ただ、事実だけを置くための声だ。
「いま、泣かせたでしょ」
僕は唇を噛む。
返事はできなかった。
「それが答えだよ」
その一言で、ようやく何かが胸の奥まで落ちた気がした。
答え。
そうか、これが答えなのか。
優しかったかどうか。
悪気があったかなかったか。
そんなことより先に、結果として誰かが泣いた。
それが、僕の曖昧さの答え。
「…ごめん」
ひよりに向かってそう言うと、ひよりは小さく首を振った。
「私に謝っても意味ない」
「分かってる」
「なら、今はちゃんと覚えて」
そこで初めて、少しだけ声が揺れた。
「そんなつもりじゃない、で済むなら誰も泣かない」
僕は、やっと振り返る。
ひよりの顔は怒っていたわけじゃなかった。
ただ、すごく真剣だった。
だから余計に痛かった。
その痛みのまま、僕はゆっくり自分の席に戻る。
鞄を持つ。
教科書の重さが、いつもよりずっと鈍く肩に食い込む。
教室の誰も、もう僕に話しかけてこなかった。
それが当然だと思う。
今の空気の中で、何を言えばいいのか分かる人なんてたぶんいない。
僕自身も分からない。
◇
家に帰ってからも、七海の声が頭から離れなかった。
――優しくされると、期待しちゃうよ。
たった一言。
でも、その一言の中に、今まで僕が軽く扱ってきたものが全部入っていた気がする。
期待。
隙。
曖昧さ。
そして、それを受け取っていた自分。
制服のままベッドに座る。
スマホを見る気にもなれなかった。
通知が来ているかどうかも、今は確認したくない。
静かな部屋の中で、今日の教室の光景だけが何度も蘇る。
七海の赤い目。
無理に笑おうとした口元。
紗奈先輩の、疲れたみたいな声。
ひよりの、逃がさない言葉。
そして、自分の「そんなつもりじゃなかった」。
「…最悪だ」
今日は何度目だろう。
でも、今までのどの“最悪”よりも、今日のこれは重かった。
そんなつもりじゃない。
でも、なった。
泣かせるつもりはなかった。
でも、泣いた。
選んだつもりはなかった。
でも、誰かは“自分だけは少し違う”と思っていた。
じゃあ、僕は何をしていたんだろう。
やさしくしていた?
違う。
傷つけないようにしていた?
違う。
誰も選ばないことで、自分だけが傷つかない場所に立っていただけだ。
そこまで考えて、やっと本当に分かる。
僕は誰も選んでいなかったんじゃない。
誰の想いも引き受けていなかっただけだ。
その事実が、胸のいちばん深いところに落ちる。
静かに泣かれる方が、ずっと痛かった。
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