「水無月ひよりは、選ばれたくない」
次の日の放課後、ひよりに呼び止められたのは、教室の人がだいぶ減ってからだった。
最後のホームルームが終わって、クラスの半分以上がもういない。
残っているのは、部活へ行く準備をしている数人と、なんとなく帰るタイミングをずらしている数人だけだ。
僕は机の中に残っていたプリントを雑にまとめて鞄へ押し込みながら、早く帰ろうと思っていた。
ここ数日ずっと、放課後という時間そのものに警戒している気がする。
昼よりも空気がやわらかくて、
朝よりも人が少なくて、
そのぶん、一対一の意味が強くなる。
そういう時間帯に誰かと話すのが、今の僕には少しこわかった。
「凪くん」
名前を呼ばれて、手が止まる。
顔を上げると、ひよりが前の席に手を置いて立っていた。
いつもの、少しだけ考えてから声をかけたみたいな顔だ。
「…何?」
「少しだけ話せる?」
少しだけ。
またその言葉だ、と思いかけて、すぐにやめる。
ひよりの“少しだけ”は、ほかの子のそれとは少し違う。
逃げ道を残すためじゃなくて、こちらが構えすぎないようにしてくれているのが分かるからだ。
「…うん」
「帰り急いでる?」
「別に」
「じゃあ、ちょっとだけ付き合って」
ひよりはそう言って先に歩き出した。
ついていく。
教室を出て、廊下を曲がって、渡り廊下の先にある中庭の見えるスペースまで来る。
ベンチが並んでいて、放課後はわりと静かな場所だ。
今日は風が少しある。
植え込みの葉がこすれる音が、話し声のない空間にやけにきれいに響いていた。
ひよりはベンチの端に座る。
僕は少し間を空けて、その隣に腰を下ろした。
少しの沈黙。
こういうとき、先に口を開くのはたいていひよりの方だ。
「最近さ」
「うん」
「すごい疲れてるよね」
いきなり核心だった。
僕は苦笑する。
「見て分かる?」
「分かるよ」
「そんなに?」
「そんなに」
即答だった。
ひよりは脚の先で地面を軽くこすりながら続ける。
「ちゃんとしようとしてるのも分かる」
「でも、それでずっと緊張してる感じ」
「…まあ」
否定できない。
緊張している。
何を言っても意味になる気がして、何を返しても間違う気がして、気を抜ける場面がほとんどない。
「昨日、しずくさんと話した」
「へえ」
「意外そうだね」
「ちょっとね」
ひよりは正直にそう言って、少し笑った。
「で、何言われたの?」
「いろいろ」
「雑」
「ざっくりとしか言えない」
「そっか」
ひよりはそこで無理に深掘りしなかった。
その代わり、少しだけ視線を前に向けたまま言う。
「私ね」
「うん」
「凪くんに、一個だけずっと言ってないことがあった」
その言い方に、少しだけ背筋が伸びる。
ひよりの声は落ち着いていた。
でも、軽い話ではないのが分かる。
「何」
「たぶんさ、凪くんって」
「“選ばれる”ことに慣れるの、早すぎたんだと思う」
思ってもいなかった角度から来て、すぐには意味が飲み込めなかった。
「…どういうこと?」
「そのまま」
ひよりは僕を見ないまま、静かに言う。
「この世界だと、凪くんみたいな男子って、どうしたって見られるじゃん」
「話しかけられるし、気にされるし、少し感じよくしただけですぐ特別みたいになるし」
「うん」
「それって、普通に生きてたらけっこう強いでしょ」
強い。
その言い方は少し意外だった。
「強い、かな」
「強いよ」
ひよりはやっぱり即答する。
「だって、選ばれる側って、選ぶ側よりずっと気持ちいいときあるから」
その言葉に、胸のどこかが小さく動く。
たぶんそれは、図星だった。
選ばれる。
必要とされる。
名前を呼ばれて、待たれて、会いたいと言われる。
そういうものが気持ちよかったのは、もうごまかせない。
「…否定はしない」
僕がそう言うと、ひよりはようやく少しだけこっちを見た。
「うん。しなくていいと思う」
「責めないんだ」
「責めるっていうか」
ひよりは少しだけ考えてから言う。
「そこが気持ちいいのは、別におかしくないから」
その言い方は、しずくの最後の一言と少し似ていた。
好かれるのが嬉しいのは、恥じゃない。
それを言い訳にするのがだめなだけ。
たぶん、みんな少しずつ違う場所から、同じところへ僕を連れていこうとしている。
「でも」
ひよりが続ける。
「凪くんって、その“選ばれる気持ちよさ”の中にいるわりに、たぶん本気で誰かを選ぶ準備は全然してなかったよね」
その言葉は静かだった。
でも、だからこそ逃げにくい。
僕は少し俯く。
「…してなかったと思う」
「うん」
「っていうか、怖かったんだと思う」
「何が?」
「誰か一人を選ぶのが」
口にすると、思っていたよりもすんなり出た。
「一人を選んだら、他の人は違うってことになるし」
「期待させてたぶんだけ、傷つくし」
「それなら、誰とも決めない方が、ましな気がしてた」
そこまで言ってから、自分で少しだけ苦くなる。
ましな気がしてた。
でも実際には、それで余計に広く傷つけていた。
ひよりは黙って聞いていた。
その黙り方が、ちゃんと最後まで言わせようとしてくれているのが分かる。
「それに」
「うん」
「誰か一人を選んで、その人からちゃんと好かれなかったらって考えると」
そこで少しだけ喉が詰まる。
「たぶん、その方が怖かった」
ひよりが、ほんの少しだけ目を見開いた気がした。
でも、驚いたのは一瞬だけで、すぐにやわらかい顔に戻る。
「そっか」
それだけだった。
でも、その“そっか”には変な慰めがなかった。
ただ、本当に受け取った音だった。
「凪くんってさ」
「うん」
「誰かに選ばれるのは好きだけど、自分が選ぶのは怖いんだね」
「…たぶん」
「うん。分かる気もする」
そこまで言って、ひよりは少しだけ笑う。
「分かりたくないけど」
「何それ」
「だって、ちょっと情けないもん」
「ひどいな」
「事実でしょ」
軽く返されたけれど、そこに悪意はなかった。
むしろ、そのくらいの軽さで言ってくれた方が少し助かる。
しばらく風の音だけがあいだを通った。
僕はベンチの端に手を置いて、少しだけ視線を落とす。
「…ひよりさんは」
「うん?」
「怖くないの」
「何が?」
「誰かを選ぶの」
ひよりは少しだけ首を傾けた。
「怖いよ」
その答えが意外で、思わず顔を上げる。
「でも」
ひよりは前を向いたまま続ける。
「私、凪くんに選ばれたいわけじゃないから」
その一言は、思っていたよりも深く入ってきた。
「…どういう意味?」
「そのままだよ」
ひよりは笑わなかった。
「一番になりたいとか、勝ちたいとか、そういうのじゃないの」
「……」
「私はただ、ちゃんと見てほしいだけ」
風が少し強くなる。
ひよりの前髪が揺れる。
「私を“その他大勢の中の一人”じゃなくて、水無月ひよりって一人として見てほしい」
「選ばれたいんじゃなくて、ちゃんと向き合われたいの」
その言葉は、今まで僕が聞いてきたどの好意とも少し違っていた。
欲しい、でも。
そばにいて、でも。
私だけ見て、でもない。
ただ、ちゃんと見てほしい。
「…それでいいの?」
気づけばそう聞いていた。
ひよりは少しだけ眉をひそめる。
「“それでいい”って言い方、ちょっと失礼」
「あ、ごめん」
「別にいいけど」
そこで、ほんの少しだけ苦笑した。
「でも、そういう言い方しちゃうのが、たぶん今の凪くんなんだと思う」
「…何が」
「選ばれる、選ばれないって基準でずっと見てると」
「“ちゃんと見てほしいだけ”って感覚が、逆に変に見えるんだよ」
その説明に、妙に納得してしまう。
たしかに僕は最近ずっと、
好かれているか、
期待されているか、
どう断るか、
どう意味がつくか、
そういう軸でばかり考えていた。
だから、ただ一人として見る・見られる、という発想自体が少し遠くなっていたのかもしれない。
「…ひよりさんって、変わってるね」
「よく言われる」
「でも、ちょっと羨ましい」
その本音は、意外なくらい素直に出た。
ひよりがゆっくりこっちを見る。
「羨ましい?」
「うん」
「何が?」
「そういうふうに、ちゃんと一人として見てほしいって言えるの」
僕は自分の手元を見ながら続ける。
「僕、たぶん今まで、そういうの分かってなかった」
「好かれるかどうかとか、特別かどうかとか、そういう方ばっかり気にしてた」
「うん」
「でも、本当に欲しかったのって、たぶんそういうのじゃないのかもしれない」
そこまで言うと、ひよりは少しだけ息を吐いた。
「やっとそこまで来たかって感じ」
「何その言い方」
「だって、遅いもん」
「厳しいな」
「今さら優しくしないよ」
でも、その声は少しだけやわらかかった。
僕は中庭の植え込みを眺めながら、ひよりの言葉を頭の中で繰り返す。
選ばれたいわけじゃない。
ちゃんと見てほしいだけ。
その感覚が、どうしてこんなに胸に残るんだろう。
それはたぶん、今まで僕がやっていたことの真逆だからだ。
僕は、ちゃんと見ていなかった。
誰か一人としてではなく、
好いてくれるかもしれない相手として、
自分を気持ちよくしてくれる存在として、
どこかでまとめて見ていた部分がある。
だから、向こうから返ってくるものばかり気にして、
本当にその人自身を見るところまで行っていなかった。
そこまで考えて、胸の奥が少しだけ痛くなる。
「…僕、だめだな」
ぽつりと漏らすと、ひよりはすぐには否定しなかった。
「だめっていうか」
「うん」
「まだ、全然うまくない」
その言い方が、ひよりらしかった。
完全に切り捨てない。
でも、甘くもない。
「…それでもさ」
ひよりは少しだけ視線を落として言う。
「今みたいにちゃんと考えるようになったのは、前よりずっといいと思うよ」
「前よりは、ばっかりだな」
「だって本当にそうなんだもん」
僕は少しだけ笑って、すぐに真顔に戻る。
「でも、考えるようになったぶん、余計に分かんなくなってきた」
「うん」
「誰かを傷つけたくないし、でも曖昧なのもだめだし」
「好かれるのが嬉しいのも本当だし、でもそれで待たせるのも違うし」
「うん」
「どうしたらいいんだろう」
ひよりはそこで少しだけ黙った。
それから、ものすごく当たり前のことみたいに言った。
「ちゃんと好きになるしかないんじゃない?」
その一言で、息が止まりそうになる。
ちゃんと好きになる。
ずっと欲しかったはずのもの。
でも、ずっと避けてきたもの。
「…簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
ひよりは首を振る。
「でも、誰にでも少しずつ向けてるから変になるんでしょ」
「だったら、ちゃんと一人を見るしかないじゃん」
その通りだ。
たぶん、ひどくその通りだった。
でも、その“ちゃんと一人を見る”が、今の僕にはいちばん難しい。
誰かを選ぶこと。
選んで、向き合って、返すこと。
そこまで行くには、まだ自分が曖昧すぎる。
「…今すぐは無理だよ」
「うん、知ってる」
「じゃあ」
「でも、そうなりたいとは思ったんでしょ?」
僕は言葉に詰まる。
昨日、夜に一人で思ったことが、そのままそこにあった。
普通に好きになりたい。
求められることを惜しむんじゃなくて。
誰か一人をちゃんと好きになって、その人にもちゃんと向き合いたい。
その願いだけは、たしかに本当だ。
「…うん」
小さく頷く。
ひよりはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、それでいいよ。今は」
「それでいい?」
「うん。少なくとも、“誰にでも少しずつ”よりはずっといい」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
答えが出たわけじゃない。
何かが解決したわけでもない。
でも、自分がどこへ向かいたいのかだけは、少し見えた気がした。
選ばれたいんじゃない。
ちゃんと見たいし、見られたい。
その感覚を、僕は今まで知らなかったのかもしれない。
「…ありがとう」
僕が言うと、ひよりは小さく肩をすくめた。
「どういたしまして」
それから少しだけ間を置いて、付け足す。
「でも、私をその練習台みたいにしないでよ」
「そんなことしないよ」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんって何」
そこでようやく、二人で少しだけ笑った。
笑いながらも、胸の奥にはひよりの言葉がちゃんと残っている。
ちゃんと好きになるしかない。
それはたぶん、簡単にできることじゃない。
でも、今の僕が進むべき方向としては、これ以上なく正しかった。
ベンチから立ち上がる。
空はもうだいぶ暗い。
中庭の向こうで校舎の窓が光っている。
僕はその明かりを見ながら、少しだけ思った。
誰かに選ばれることより、
誰か一人をちゃんと好きになることの方が、
たぶんずっと怖い。
でも、ずっと欲しかったのは、きっとそういうことなんだ。
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