「比良坂しずくは、言葉にする」
神代玲那と別れたあと、しばらくのあいだ廊下を歩く足が妙に重かった。
校舎の外はもう夕方というより夜に近い。
ガラスに映る自分の姿も、窓の向こうの暗さに混ざって少しぼやけている。
それなのに、頭の中に残る言葉だけは妙にくっきりしていた。
――安いのは価値じゃない。使い方。
――欲しがる側は、曖昧な人間を待ってくれない。
――中途半端な態度は、いつか誰かを傷つける。
言い方は最悪だと思う。
思うのに、反論が浮かばない。
むしろ腹が立つのは、玲那の言葉がしずくやひよりやひとえの言っていたことと、根っこのところで同じだったから。
僕は、自分がどれだけ見られているかを分かっていない。
分かっていないふりをして、都合よく動いている。
そしてその曖昧さが、誰かにとってはちゃんと意味になる。
そこまで、もう何人にも言われている。
(じゃあ何なんだよ、ほんとに)
心の中だけで、そう吐き捨てる。
誰にでもやさしくするな。
曖昧にするな。
ちゃんと断れ。
ちゃんと選べ。
みんな正しいことを言う。
でも、その“ちゃんと”が今の僕にはまだ遠い。
昇降口まで来たところで、スマホが短く震えた。
またか、と思いながらポケットから取り出す。
画面には短い通知が出ていた。
**比良坂:今どこ**
それだけ。
句点も、絵文字も、余計な前置きもない。
しずくらしいと言えば、すごくしずくらしい。
僕は小さく息を吐いた。
正直、今日はもう誰とも話したくなかった。
特に、しずくみたいに容赦なく言葉にしてくる相手とは。
でも同時に、たぶん今の僕にいちばん必要なのも、ああいう“逃がしてくれない言葉”なんだろうと、どこかで分かっている。
それがまた、腹立たしい。
少し迷ってから、短く返した。
**昇降口**
送った三十秒後には、既読がついていた。
その速さに少しだけ嫌な予感がして顔を上げる。
すると、本当にすぐ近く、昇降口のガラス扉の横に見慣れた制服姿が立っていた。
比良坂しずく。
最初からそこにいたのか、それとも僕がメッセージを打っているあいだに来たのか分からない。
でも、どちらにしてもこの人はそういう“気づいたときにはもう視界にいる”感じがある。
「…いたなら最初から言ってよ」
思わずそう言うと、しずくは小さく首を傾げた。
「メッセージの方が静かだから」
それが答えになっているような、なっていないような返しだった。
「帰るの?」
「そのつもり」
「少しだけいい?」
少しだけ。
またその言葉かと思う。
でも、しずくが言うと妙に軽く聞こえない。
“少しだけ”の中に、ちゃんと目的がありそうだからだろうか。
「…長い?」
「長くはしない」
「じゃあ、少しなら」
まただ。
自分でも笑いたくなる。
少しだけなら。
少しだけならいい。
僕は本当に、その言葉の中にばかり逃げている。
しずくはそれに何も言わず、ただ「こっち」と短く言って歩き出した。
ついていく。
向かった先は、校舎と支援棟をつなぐ渡り廊下の途中にある小さな休憩スペースだった。
ベンチが二つ置いてあるだけの、半分外みたいな場所。
夕方の風が細く通り抜けていて、人の気配はほとんどない。
しずくは片方のベンチの前で立ち止まり、僕を見る。
「座る?」
「…立ってる」
「そう」
自分は腰を下ろした。
そのあたりの無理のなさが、逆にこの人らしい。
しばらく沈黙が落ちる。
沈黙に耐えられなくなったのは、僕の方だった。
「で、何」
しずくはすぐには答えなかった。
僕の顔を少し見る。
それから、静かに言った。
「今日、神代玲那と話したでしょ」
一瞬、息が止まりそうになる。
「…何で知ってるの」
「見たから」
「見てたの?」
「途中から」
この人までそれか。
でも、しずくなら不思議ではなかった。
というより、この人はそういうところに自然にいる。
「何か言われた?」
「いろいろ」
「ざっくり言うと?」
「自分の価値を安売りしてるって」
そう口に出すと、あらためて嫌な言葉だと思う。
でもしずくは驚きもしなかった。
「まあ、だいたい合ってる」
「…合ってるんだ」
「うん」
即答だった。
その迷いのなさに、少しだけむっとする。
「しずくさんまでそう言うわけ」
「言う」
短い。
「東條、思ってた以上に分かりやすいから」
「何が」
「誰にも本気じゃないのに、誰からも好意だけ受け取りたいところ」
その一言で、胸の奥がひやりとした。
玲那の“安売り”もきつかったけれど、しずくの言い方はまた別の角度でくる。
やさしさの仮面すら被せない。
欲しいものは何かを、そのまま指差してくる。
「…言い方、最低だな」
「知ってる」
まったく揺れない。
「でも、たぶん今の東條にはそのくらいでちょうどいい」
その言い方が、妙に冷たくて、妙に正しい。
僕は立ったまま、視線を渡り廊下の外へ逃がした。
空はもう暗く、街の明かりが少しずつ浮き始めている。
「そんなに分かりやすいかな」
「うん」
しずくは続ける。
「東條って、たぶん誰かに本気で嫌われたことがあんまりないでしょ」
その質問が予想外で、思わずそちらを見る。
「…何それ」
「そのまま」
「嫌われたことくらいあるよ」
「もちろんゼロじゃないだろうけど」
しずくは膝の上で指を組みながら言った。
「でも、“はっきり断って、明確に相手をがっかりさせる”みたいな経験は少ないはず」
「……」
「だから、最後に隙を残す」
僕は口を閉じる。
最後で残す。
またその表現だ。
でも、本当にその通りだった。
相手の顔色が変わる瞬間。
期待が消える瞬間。
その決定的なところまで行くのが怖い。
だから手前で少しだけやわらかくする。
「東條」
しずくが僕の名前を呼ぶ。
「それって、やさしさじゃないから」
「…分かってる」
「分かってるならいいけど」
「分かってるよ」
少しだけ声が強くなった。
「分かってるし、今日もいろいろ言われたし、もう十分なくらい刺さってる」
しずくは少しだけ黙った。
それから、いつもよりわずかにやわらいだ声で言う。
「うん。だから今日はその確認」
「確認?」
「東條が、本当にそこを自覚してるかどうか」
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
責めるためだけじゃないのかもしれないと思ったからだ。
でも、しずくはやっぱりやさしいわけではない。
「そのうえで、もう一個言う」
「…何」
「東條は、たぶん“優しい男”でいたいんじゃなくて、“自分が気持ちいい男”でいたいんだと思う」
その一言は、今日いちばん静かで、いちばん深く刺さった。
自分が気持ちいい男。
耳慣れない言い方なのに、意味だけは嫌になるほど分かる。
誰かに笑われて、求められて、必要そうにされて、少しだけ特別な顔を向けられて。
そういう感覚が、自分を満たす。
だから、それを手放したくない。
優しさをしたいんじゃなくて、優しさを向けたときに返ってくるものが欲しい。
そんなふうに言われた気がした。
「…そこまで言う?」
やっと出た言葉がそれだった。
しずくは表情を変えない。
「言う。今の東條に必要なのは、そこだから」
「僕だって別に、そんな」
「そんなつもりじゃない?」
先回りして言われる。
僕はそこで口をつぐんだ。
今日だけでもう、その言葉は何度も空振りしている。
しずくは淡々と続ける。
「わざとじゃないのは知ってる」
「……」
「でも、わざとじゃないから何」
返せない。
「無自覚なら許される?」
「……」
「東條、自分が何をしてるのか、まだちゃんと認めてないだけ」
風が吹いて、渡り廊下の柵が小さく鳴る。
僕はゆっくり息を吐いた。
「…好かれるのは、嬉しいよ」
気づけば、口にしていた。
しずくは何も言わない。
ただ、続きを待っている。
「求められるのも、たぶん嫌じゃない」
「うん」
「なくしたくないって思うのも、たぶん本当」
「うん」
短い相づちだけが返る。
否定しない。
慰めもしない。
でも、逃がさない。
「でも」
そこで言葉が詰まる。
「でも、だからって、誰かを適当に待たせるのがいいわけじゃないのも分かってる」
しずくが、ほんの少しだけ目を細めた。
「うん」
「分かってるんだけど」
「怖い?」
その問いが、あまりにもまっすぐだった。
怖い。
たぶん、その一言でかなりのことが説明できる。
嫌われるのも。
期待を潰すのも。
明確に拒絶して、自分が“選ばれなかった側にとって嫌な男”になることも。
その全部が、怖い。
「…うん」
観念して頷く。
「怖い」
「そうだろうね」
しずくはあっさり言った。
「東條、たぶん今までそこからずっと逃げてたから」
その通りだと思う。
逃げていた。
やわらかい言葉で。
少しの好意で。
少しの余白で。
「でも」
しずくはそこで少しだけ声を落とした。
「怖いままでも、やらないとたぶん次はもっとひどいことになる」
その言い方には脅しみたいな強さはない。
ただ、本当にそうなると分かって言っている感じがあった。
僕はベンチの背に手を置いて、少しだけ俯く。
「…じゃあどうすればいいの」
今日は何度この質問をしただろう。
でも、しずくの返事はこれまでの誰より短かった。
「まず、自分が欲しいものに名前をつける」
「名前?」
「うん」
「好意」
「…うん」
「承認」
「……」
「特別扱い」
一つずつ並べられるたびに、胸のどこかがずきっと痛む。
「それを欲しいって認める」
しずくは続ける。
「そのうえで、それをもらうために人を曖昧に待たせない」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないよ」
初めて、しずくがそこで少しだけやわらかく言った。
「でも、名前もつけないまま欲しがる方がずっと危ない」
その言い方は、しずくらしいままだった。
やさしさより、整理。
慰めより、定義づけ。
でも今の僕には、その順番の方がありがたいのかもしれないと思う。
自分が何を欲しいのか。
そこがぼやけたままだと、僕はまた同じように曖昧になる。
「…しずくさんって」
「何」
「ほんとに全部言葉にするね」
「そういう役だから」
「誰が決めたの」
「私」
少しだけ笑いそうになる。
でも、その笑いは途中で息に変わった。
「…疲れる」
「知ってる」
「言われる方も」
「言う方も」
意外な返しだったので、思わず顔を上げる。
しずくはいつもと同じ顔をしていた。
でも、ほんの少しだけ目元の力が抜けている。
「別に好きで嫌なこと言ってるわけじゃないから」
その一言が、ひどく小さく響いた。
しずくは、ただ冷たいわけじゃない。
分かっていたつもりだったけれど、今の言葉で少しだけはっきりした。
「…ありがと」
気づけば、そう言っていた。
しずくは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく首を振る。
「お礼を言うとこじゃない」
「厳しいな」
「まだ何も終わってないから」
その通りだ。
理解しただけじゃ足りない。
分かっただけでも足りない。
次に変えられるかどうかが問題だ。
しずくは立ち上がった。
「今日は帰りなよ」
「うん」
「あと」
「何」
「好かれるのが嬉しいのは別に恥じゃない」
不意にそう言われて、僕は少しだけ驚く。
しずくは視線を逸らしたまま続けた。
「それを言い訳にするのがだめなだけ」
その言葉は、今日ここで聞いたどの台詞より静かで、どの台詞より少しだけ救いがあった。
僕は何も言えないまま、ただ頷いた。
しずくはそれ以上振り返らずに歩き出す。
渡り廊下の向こうへ消えていく背中は、いつも通りすっきりしていて、迷いがない。
一人残された僕は、しばらくその場に立ったまま夜の風を受けていた。
好意。
承認。
特別扱い。
自分が受け取りたかったものに、名前がつく。
それだけで急に、今までの曖昧さの形が少し見えた気がした。
僕は、ただやさしい男になりたかったんじゃない。
やさしい男として好かれたかったのだ。
その違いは、小さいようで決定的だった。
そして、それを自覚したまま同じことを続けたら、たぶんもう“無自覚だった”とは言えない。
「…ほんと、逃げられないな」
小さく呟いて、僕はようやく歩き出した。
渡り廊下の先には、夜の校舎の明かりが細長く伸びている。
その光の中を進みながら、僕はしずくの最後の言葉を何度も思い返していた。
好かれるのが嬉しいのは、恥じゃない。
それを言い訳にするのが、だめなだけ。
その気持ちを、僕はこれからちゃんと見分けなければいけない。
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