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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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15/50

「比良坂しずくは、言葉にする」

 


 神代玲那と別れたあと、しばらくのあいだ廊下を歩く足が妙に重かった。


 校舎の外はもう夕方というより夜に近い。

 ガラスに映る自分の姿も、窓の向こうの暗さに混ざって少しぼやけている。


 それなのに、頭の中に残る言葉だけは妙にくっきりしていた。


 ――安いのは価値じゃない。使い方。

 ――欲しがる側は、曖昧な人間を待ってくれない。

 ――中途半端な態度は、いつか誰かを傷つける。


 言い方は最悪だと思う。

 思うのに、反論が浮かばない。


 むしろ腹が立つのは、玲那の言葉がしずくやひよりやひとえの言っていたことと、根っこのところで同じだったから。


 僕は、自分がどれだけ見られているかを分かっていない。

 分かっていないふりをして、都合よく動いている。

 そしてその曖昧さが、誰かにとってはちゃんと意味になる。


 そこまで、もう何人にも言われている。


(じゃあ何なんだよ、ほんとに)


 心の中だけで、そう吐き捨てる。


 誰にでもやさしくするな。

 曖昧にするな。

 ちゃんと断れ。

 ちゃんと選べ。


 みんな正しいことを言う。

 でも、その“ちゃんと”が今の僕にはまだ遠い。


 昇降口まで来たところで、スマホが短く震えた。


 またか、と思いながらポケットから取り出す。


 画面には短い通知が出ていた。


 **比良坂:今どこ**


 それだけ。


 句点も、絵文字も、余計な前置きもない。

 しずくらしいと言えば、すごくしずくらしい。


 僕は小さく息を吐いた。


 正直、今日はもう誰とも話したくなかった。

 特に、しずくみたいに容赦なく言葉にしてくる相手とは。


 でも同時に、たぶん今の僕にいちばん必要なのも、ああいう“逃がしてくれない言葉”なんだろうと、どこかで分かっている。


 それがまた、腹立たしい。


 少し迷ってから、短く返した。


 **昇降口**


 送った三十秒後には、既読がついていた。


 その速さに少しだけ嫌な予感がして顔を上げる。

 すると、本当にすぐ近く、昇降口のガラス扉の横に見慣れた制服姿が立っていた。


 比良坂しずく。


 最初からそこにいたのか、それとも僕がメッセージを打っているあいだに来たのか分からない。

 でも、どちらにしてもこの人はそういう“気づいたときにはもう視界にいる”感じがある。


「…いたなら最初から言ってよ」


 思わずそう言うと、しずくは小さく首を傾げた。


「メッセージの方が静かだから」


 それが答えになっているような、なっていないような返しだった。


「帰るの?」


「そのつもり」


「少しだけいい?」


 少しだけ。

 またその言葉かと思う。


 でも、しずくが言うと妙に軽く聞こえない。

 “少しだけ”の中に、ちゃんと目的がありそうだからだろうか。


「…長い?」


「長くはしない」


「じゃあ、少しなら」


 まただ。

 自分でも笑いたくなる。


 少しだけなら。

 少しだけならいい。

 僕は本当に、その言葉の中にばかり逃げている。


 しずくはそれに何も言わず、ただ「こっち」と短く言って歩き出した。


 ついていく。


 向かった先は、校舎と支援棟をつなぐ渡り廊下の途中にある小さな休憩スペースだった。

 ベンチが二つ置いてあるだけの、半分外みたいな場所。

 夕方の風が細く通り抜けていて、人の気配はほとんどない。


 しずくは片方のベンチの前で立ち止まり、僕を見る。


「座る?」


「…立ってる」


「そう」


 自分は腰を下ろした。

 そのあたりの無理のなさが、逆にこの人らしい。


 しばらく沈黙が落ちる。

 沈黙に耐えられなくなったのは、僕の方だった。


「で、何」


 しずくはすぐには答えなかった。

 僕の顔を少し見る。

 それから、静かに言った。


「今日、神代玲那と話したでしょ」


 一瞬、息が止まりそうになる。


「…何で知ってるの」


「見たから」


「見てたの?」


「途中から」


 この人までそれか。


 でも、しずくなら不思議ではなかった。

 というより、この人はそういうところに自然にいる。


「何か言われた?」


「いろいろ」


「ざっくり言うと?」


「自分の価値を安売りしてるって」


 そう口に出すと、あらためて嫌な言葉だと思う。


 でもしずくは驚きもしなかった。


「まあ、だいたい合ってる」


「…合ってるんだ」


「うん」


 即答だった。


 その迷いのなさに、少しだけむっとする。


「しずくさんまでそう言うわけ」


「言う」


 短い。


「東條、思ってた以上に分かりやすいから」


「何が」


「誰にも本気じゃないのに、誰からも好意だけ受け取りたいところ」


 その一言で、胸の奥がひやりとした。


 玲那の“安売り”もきつかったけれど、しずくの言い方はまた別の角度でくる。

 やさしさの仮面すら被せない。

 欲しいものは何かを、そのまま指差してくる。


「…言い方、最低だな」


「知ってる」


 まったく揺れない。


「でも、たぶん今の東條にはそのくらいでちょうどいい」


 その言い方が、妙に冷たくて、妙に正しい。


 僕は立ったまま、視線を渡り廊下の外へ逃がした。

 空はもう暗く、街の明かりが少しずつ浮き始めている。


「そんなに分かりやすいかな」


「うん」


 しずくは続ける。


「東條って、たぶん誰かに本気で嫌われたことがあんまりないでしょ」


 その質問が予想外で、思わずそちらを見る。


「…何それ」


「そのまま」


「嫌われたことくらいあるよ」


「もちろんゼロじゃないだろうけど」


 しずくは膝の上で指を組みながら言った。


「でも、“はっきり断って、明確に相手をがっかりさせる”みたいな経験は少ないはず」


「……」


「だから、最後に隙を残す」


 僕は口を閉じる。


 最後で残す。

 またその表現だ。

 でも、本当にその通りだった。


 相手の顔色が変わる瞬間。

 期待が消える瞬間。

 その決定的なところまで行くのが怖い。

 だから手前で少しだけやわらかくする。


「東條」


 しずくが僕の名前を呼ぶ。


「それって、やさしさじゃないから」


「…分かってる」


「分かってるならいいけど」


「分かってるよ」


 少しだけ声が強くなった。


「分かってるし、今日もいろいろ言われたし、もう十分なくらい刺さってる」


 しずくは少しだけ黙った。

 それから、いつもよりわずかにやわらいだ声で言う。


「うん。だから今日はその確認」


「確認?」


「東條が、本当にそこを自覚してるかどうか」


 その言葉に、少しだけ力が抜ける。

 責めるためだけじゃないのかもしれないと思ったからだ。


 でも、しずくはやっぱりやさしいわけではない。


「そのうえで、もう一個言う」


「…何」


「東條は、たぶん“優しい男”でいたいんじゃなくて、“自分が気持ちいい男”でいたいんだと思う」


 その一言は、今日いちばん静かで、いちばん深く刺さった。


 自分が気持ちいい男。


 耳慣れない言い方なのに、意味だけは嫌になるほど分かる。


 誰かに笑われて、求められて、必要そうにされて、少しだけ特別な顔を向けられて。


 そういう感覚が、自分を満たす。

 だから、それを手放したくない。


 優しさをしたいんじゃなくて、優しさを向けたときに返ってくるものが欲しい。


 そんなふうに言われた気がした。


「…そこまで言う?」


 やっと出た言葉がそれだった。


 しずくは表情を変えない。


「言う。今の東條に必要なのは、そこだから」


「僕だって別に、そんな」


「そんなつもりじゃない?」


 先回りして言われる。


 僕はそこで口をつぐんだ。

 今日だけでもう、その言葉は何度も空振りしている。


 しずくは淡々と続ける。


「わざとじゃないのは知ってる」


「……」


「でも、わざとじゃないから何」


 返せない。


「無自覚なら許される?」


「……」


「東條、自分が何をしてるのか、まだちゃんと認めてないだけ」


 風が吹いて、渡り廊下の柵が小さく鳴る。


 僕はゆっくり息を吐いた。


「…好かれるのは、嬉しいよ」


 気づけば、口にしていた。


 しずくは何も言わない。

 ただ、続きを待っている。


「求められるのも、たぶん嫌じゃない」


「うん」


「なくしたくないって思うのも、たぶん本当」


「うん」


 短い相づちだけが返る。

 否定しない。

 慰めもしない。

 でも、逃がさない。


「でも」


 そこで言葉が詰まる。


「でも、だからって、誰かを適当に待たせるのがいいわけじゃないのも分かってる」


 しずくが、ほんの少しだけ目を細めた。


「うん」


「分かってるんだけど」


「怖い?」


 その問いが、あまりにもまっすぐだった。


 怖い。

 たぶん、その一言でかなりのことが説明できる。


 嫌われるのも。

 期待を潰すのも。

 明確に拒絶して、自分が“選ばれなかった側にとって嫌な男”になることも。


 その全部が、怖い。


「…うん」


 観念して頷く。


「怖い」


「そうだろうね」


 しずくはあっさり言った。


「東條、たぶん今までそこからずっと逃げてたから」


 その通りだと思う。


 逃げていた。

 やわらかい言葉で。

 少しの好意で。

 少しの余白で。


「でも」


 しずくはそこで少しだけ声を落とした。


「怖いままでも、やらないとたぶん次はもっとひどいことになる」


 その言い方には脅しみたいな強さはない。

 ただ、本当にそうなると分かって言っている感じがあった。


 僕はベンチの背に手を置いて、少しだけ俯く。


「…じゃあどうすればいいの」


 今日は何度この質問をしただろう。


 でも、しずくの返事はこれまでの誰より短かった。


「まず、自分が欲しいものに名前をつける」


「名前?」


「うん」


「好意」


「…うん」


「承認」


「……」


「特別扱い」


 一つずつ並べられるたびに、胸のどこかがずきっと痛む。


「それを欲しいって認める」


 しずくは続ける。


「そのうえで、それをもらうために人を曖昧に待たせない」


「そんな簡単に」


「簡単じゃないよ」


 初めて、しずくがそこで少しだけやわらかく言った。


「でも、名前もつけないまま欲しがる方がずっと危ない」


 その言い方は、しずくらしいままだった。

 やさしさより、整理。

 慰めより、定義づけ。


 でも今の僕には、その順番の方がありがたいのかもしれないと思う。


 自分が何を欲しいのか。

 そこがぼやけたままだと、僕はまた同じように曖昧になる。


「…しずくさんって」


「何」


「ほんとに全部言葉にするね」


「そういう役だから」


「誰が決めたの」


「私」


 少しだけ笑いそうになる。

 でも、その笑いは途中で息に変わった。


「…疲れる」


「知ってる」


「言われる方も」


「言う方も」


 意外な返しだったので、思わず顔を上げる。


 しずくはいつもと同じ顔をしていた。

 でも、ほんの少しだけ目元の力が抜けている。


「別に好きで嫌なこと言ってるわけじゃないから」


 その一言が、ひどく小さく響いた。


 しずくは、ただ冷たいわけじゃない。

 分かっていたつもりだったけれど、今の言葉で少しだけはっきりした。


「…ありがと」


 気づけば、そう言っていた。


 しずくは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく首を振る。


「お礼を言うとこじゃない」


「厳しいな」


「まだ何も終わってないから」


 その通りだ。

 理解しただけじゃ足りない。

 分かっただけでも足りない。

 次に変えられるかどうかが問題だ。


 しずくは立ち上がった。


「今日は帰りなよ」


「うん」


「あと」


「何」


「好かれるのが嬉しいのは別に恥じゃない」


 不意にそう言われて、僕は少しだけ驚く。


 しずくは視線を逸らしたまま続けた。


「それを言い訳にするのがだめなだけ」


 その言葉は、今日ここで聞いたどの台詞より静かで、どの台詞より少しだけ救いがあった。


 僕は何も言えないまま、ただ頷いた。


 しずくはそれ以上振り返らずに歩き出す。

 渡り廊下の向こうへ消えていく背中は、いつも通りすっきりしていて、迷いがない。


 一人残された僕は、しばらくその場に立ったまま夜の風を受けていた。


 好意。

 承認。

 特別扱い。


 自分が受け取りたかったものに、名前がつく。


 それだけで急に、今までの曖昧さの形が少し見えた気がした。


 僕は、ただやさしい男になりたかったんじゃない。

 やさしい男として好かれたかったのだ。


 その違いは、小さいようで決定的だった。


 そして、それを自覚したまま同じことを続けたら、たぶんもう“無自覚だった”とは言えない。


「…ほんと、逃げられないな」


 小さく呟いて、僕はようやく歩き出した。


 渡り廊下の先には、夜の校舎の明かりが細長く伸びている。

 その光の中を進みながら、僕はしずくの最後の言葉を何度も思い返していた。


 好かれるのが嬉しいのは、恥じゃない。

 それを言い訳にするのが、だめなだけ。


 その気持ちを、僕はこれからちゃんと見分けなければいけない。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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