「神代玲那は、価値を知っている」
九条澪の部屋を出たときには、空はもうかなり暗くなっていた。
校舎の窓に灯った明かりが、夕方と夜のあいだみたいな色をしている。
部活の声もだいぶ遠くなっていて、昼間よりずっと世界が薄い。
少しだけ呼吸が楽になっていた。
何かが解決したわけじゃない。
考えなくていい時間をもらっただけだ。
それでも、あのまま一人で帰るよりはましだったと思う。
支援棟の階段を下り、靴音を響かせながら廊下を抜ける。
校舎を出れば、そのまま駅へ向かうだけだ。
今日はもう、誰とも話したくなかった。
そう思っていたのに。
「やっと出てきた」
昇降口の手前で、不意に声が落ちてきた。
足が止まる。
聞いたことのない声だった。
でも、その一言だけで分かる。
この人は最初から、こちらを待っていた。
顔を上げる。
数メートル先、窓際に寄りかかるように立っていたのは、一人の女子だった。
長い髪。
少しだけ吊り気味の目元。
整いすぎていて、逆に近寄りがたい顔立ち。
制服の着方も崩れていないのに、きっちりしすぎている感じでもない。
ただ、立っているだけで“見られる側”の空気を持っている。
僕はすぐに分かった。
この人は、普通の女子生徒じゃない。
「…誰ですか」
できるだけ平たく聞く。
女子は、僕の問いを面白がるみたいに少しだけ口元を上げた。
「神代玲那」
それだけ言う。
名乗り方まで短い。
でも、その名前には聞き覚えがあった。
学園内で何度か噂を聞いたことがある。
成績がいいとか、家がすごいとか、顔が綺麗とか、そういう話をまとめて一人に押し込んだみたいな名前だった。
「…で?」
思ったより冷たい言い方になった。
でも今は、それを整える気力もなかった。
玲那は僕をじっと見る。
探るようでもなく、値踏みするようでもなく、もっと露骨な見方だった。
「思ったより、ちゃんと軽そうね」
開口一番、それだった。
意味が分からなくて、一瞬遅れる。
「…は?」
「もっと分かりやすく慌ててるかと思った」
玲那は窓から背を離した。
一歩、こちらに近づく。
歩幅は大きくないのに、妙に距離が縮まった気がした。
「でも違う。疲れてはいるけど、まだ自分がどう見えてるか半分も分かってない顔」
僕は眉を寄せる。
「何言ってるんですか」
「そのまま」
玲那の声にはためらいがなかった。
「あなた、自分の価値を適当に使いすぎ」
胸の奥が、ひやりと冷える。
“価値”という言葉は、今日もう聞いた。
会議室で。
数字と区分で。
でも今ここで、同年代の女子の口から聞くと、制度よりずっと生々しかった。
「…またそれですか」
「また?」
「価値があるとか、希少だとか、そういうの」
「そういうのじゃない」
玲那は即座に切る。
「事実」
その言い方に、少しだけ腹が立つ。
「勝手に決めないでください」
「決めてないわよ。見てるだけ」
「見てるだけでそんなこと分かるんですか」
「分かる」
迷いがない。
「誰にでも同じように笑って、同じように隙を残して、でも本気の責任は持たない」
「……」
「高いものを、まるで安売りみたいにばらまいてる」
言葉の一つ一つが、嫌になるくらいはっきりしていた。
安売り。
ばらまく。
その表現が下品すぎて、逆に本質に近い気がする。
「僕は別に、売り物じゃないんですけど」
そう返すと、玲那は少しだけ首を傾けた。
「売り物だなんて言ってない」
「じゃあ何ですか」
「希少資源」
その一言は、思っていたよりずっと静かに刺さった。
会議室で霧島さんが似たようなことを言ったときは、半分は制度の言葉として受け止めていた。
でも玲那は、それを個人の感覚で口にしている。
つまり、この人にとって僕は、本当にそういうものとして見えているのだ。
「…最低ですね」
思わずそう言うと、玲那は少しも気分を害した様子を見せなかった。
「そうかもね」
さらりと受け流す。
「でも、最低かどうかと、正しく見えてるかどうかは別よ」
その返しに、言葉が詰まる。
「あなた、自分が欲しがられてることだけ受け取って、その重さは見ないようにしてるでしょう」
「見ないようにしてるわけじゃ」
「してる」
ぴしゃりと遮られる。
「じゃなきゃ、あんなふうに誰にでも同じ顔しない」
また同じだ。
ひよりにも、しずくにも、似たことを言われた。
誰にでも同じ顔。
隙を残す。
責任は持たない。
ここまで重なると、さすがにもう“相手がそう思っただけ”では済ませられない。
玲那はさらに続ける。
「あなた、自分が高いものだって分かってないわけじゃないでしょう」
「分かってませんよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、少し笑えば相手が喜ぶのも、少し引けば追ってくるのも、全部たまたまだと思ってたの?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
たまたまじゃないことくらい、本当は知っている。
いや、知っていたというより、感じていた。
それを都合よく“考えない”ままにしてきただけだ。
玲那はその沈黙を見て、小さく笑う。
「ほら」
「……」
「分かってるじゃない」
声が低くなる。
「分かってるくせに、“そんなつもりじゃない”で逃げてるのが一番たちが悪いのよ」
腹が立つ。
立つのに、反論できない。
それがまた腹立たしい。
「…何なんですか、本当に」
僕は息を吐きながら言った。
「説教しに来たんですか」
「半分はね」
「もう半分は?」
玲那はそこで、初めて少しだけ楽しそうに笑った。
「興味」
その一言に、背中が薄く冷える。
興味。
それは軽い言葉のはずなのに、玲那が言うとひどく重かった。
「あなたみたいなの、珍しいから」
「珍しいのは男全般でしょう」
「違う」
玲那ははっきり言う。
「珍しい男は多いけど、珍しいまま無防備に歩いてる男は少ない」
ぞっとする言い方だった。
「しかも、自分がどれだけ見られてるかも分からないまま、誰にでも愛想を振りまく」
「振ってません」
「振ってるわよ」
即答だった。
「言葉で。態度で。温度で」
その一つ一つが、あまりにも具体的で苦しい。
僕がしてきたのは、たしかにそういうことなのかもしれない。
物理的に何かしたわけじゃない。
でも、距離感や返事や目線で、相手の感情に近づいていた。
「…そんなつもりじゃ」
「だから、その言い訳はもう飽きた」
玲那はため息まじりに言った。
「そんなつもりじゃないなら、最初から安売りしないで」
安売り。
またその言葉だ。
「値段が安いのはあなたじゃない」
玲那が続ける。
「あなたの価値の使い方」
その言い方は、しずくの“優しさの顔をした欲”よりも、もっと露骨で容赦がなかった。
でも、だからこそ妙に分かりやすい。
僕は、自分の価値そのものじゃなく、その扱い方を間違っている。
それはたぶん、今の僕にいちばん必要な認識だった。
「…じゃあ、どうしろって言うんですか」
疲れが混じった声でそう聞くと、玲那は少しだけ目を細める。
「簡単よ」
「簡単には聞こえませんけど」
「誰にも同じ顔をしないこと」
短い答えだった。
「欲しくない相手には、最初から期待を持たせない」
「欲しい相手がいるなら、ちゃんと選ぶ」
「選ばないなら、誰にも近づかない」
言葉が綺麗すぎるくらいに整理されている。
でも、実際にやるとなると全然簡単じゃない。
「無茶言いますね」
「無茶じゃない」
玲那は首を横に振る。
「価値の高い人間には、それ相応の扱い方があるだけ」
「その“価値”って言い方が嫌なんです」
僕がそう言うと、玲那は一瞬だけ黙った。
そして少しだけ声を落として言う。
「嫌でもなくならないわよ」
「……」
「むしろ、嫌がってるあいだに他人が勝手に決めていく」
その一言には、会議室で言われたことと同じ種類の重みがあった。
自分がどう思うかとは別に、この世界は僕をそう扱う。
それはもう、何度も突きつけられている。
「だから、せめて自分の価値を知りなさい」
「価値」
「ええ」
玲那はまっすぐ僕を見る。
「自分がどれだけ高いか、どれだけ壊れやすいか、どれだけ欲しがられるか」
そこでほんの少しだけ、口元を上げる。
「そして、自分がどれだけ危ないか」
その笑い方は、楽しんでいるようにも、警告しているようにも見えた。
たぶん両方なのだろう。
僕は無意識に、一歩だけ距離を取りたくなっていた。
でも、ここで露骨に下がるのも変に見えそうで、足は動かない。
玲那はそんな僕の反応を見て、ふっと細く息を吐いた。
「まあ、今日のところはそれでいいわ」
「今日のところは?」
「今のあなたに一度で全部分かれなんて期待してないもの」
その言い方が妙に癪だった。
「…期待してるようにしか聞こえませんけど」
「してるわよ」
あっさり認める。
「東條凪っていう男が、どこまで自分を自覚できるのか」
そう言って、玲那は一歩引いた。
「興味あるもの」
やっぱりその言葉だ。
好意とも違う。
でも、無関心では絶対にない。
そういう、玲那だけの温度。
僕はその温度に、本能的な危険を感じていた。
「…僕は、観察対象じゃないんですけど」
「知ってる」
玲那は小さく笑う。
「でも、そういうことにしたくなるくらい面白いのよ、あなた」
その言い方は、少しも嬉しくなかった。
むしろ、今まで受けてきたどの好意よりも扱いづらい。
「じゃあ」
玲那は踵を返しかけて、ふと思い出したように振り返る。
「最後に一つだけ」
「何ですか」
「欲しがる側は、曖昧な態度の人間を待ってくれない」
その言葉に、背筋が少し冷たくなる。
「中途半端な態度は、いつか誰かを傷つけるわよ」
それだけ言って、玲那は今度こそ歩き出した。
足音が廊下の向こうへ消えていく。
僕はその場に残されたまま、しばらく動けなかった。
中途半端な態度。
それは、たぶん今までの僕そのものだ。
完全には拒まない。
完全には受け入れない。
少しだけ開けたまま、誰にも閉じさせないようにしている。
でも、玲那の言う通り、そのままでいられる保証なんてどこにもない。
「…最悪だ」
また小さく呟く。
でも今回は、その言葉の意味が少し違っていた。
自分がひどい、というだけじゃない。
このままだと本当にまずい、という意味の“最悪”だった。
玲那の言い方は嫌いだ。
価値だの、値段だの、希少だの。
そういうものの言い方は今でも気持ち悪い。
でも、その中身に僕が何一つ反論できなかったこともまた事実だった。
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