「九条澪は、休ませる」
その日の放課後、僕はまっすぐ帰るつもりでいた。
昼休みのあとからずっと、頭の奥が重かった。
授業の内容は半分も入っていない。
ノートは取っていたし、当てられればそれなりに答えたけれど、自分が本当に教室にいたのか少し怪しいくらい、意識は別のところに引っ張られていた。
紗奈先輩の言葉。
ひよりの言葉。
そして、そのどれにもちゃんと反論できなかった自分。
胸のあたりに、重くて鈍いものがずっと残っている。
こんな日は誰とも話さない方がいい。
そう思って、最後のホームルームが終わると同時に鞄を持ち上げた。
けれど、教室を出る前にスマホが震えた。
短い通知だった。
**九条澪:時間あるなら、少し寄っていく?**
それだけ。
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけゆるむのが分かった。
それが、まずいとも思う。
澪さんの部屋は、今の僕にとって“楽な場所”になりつつある。
やさしくされて、急かされなくて、何も決めなくてよくて、少しだけちゃんとしていなくても許される場所。
そんなところにばかり行っていたら、たぶん自分で立つ力が鈍る。
頭では分かっている。
分かっているのに、指はすぐに返信を打っていた。
**少しだけなら**
送信したあとで、少しだけ自己嫌悪が戻る。
“少しだけ”ばかりだ。
僕は本当に、その言葉が好きなんだと思う。
◇
支援棟の二階にある澪さんの部屋は、今日も静かだった。
ドアを開ける前から、なぜだか少し安心してしまう。
その時点で、やっぱり危ない。
ノックをすると、すぐにやわらかい声が返ってくる。
「どうぞ」
ドアを開ける。
白い壁、低い棚、窓際の観葉植物。
机の隅の電気ケトルと、きれいに重ねられたマグカップ。
昨日と同じはずなのに、ここだけは学校の中でも少し違う時間が流れている気がした。
「いらっしゃい」
澪さんは椅子から立ち上がって、小さく笑った。
「顔、疲れてるね」
その一言で、妙に力が抜けそうになる。
「…そんなに分かりますか」
「うん。今日は特にね」
そう言いながら、澪さんは机の上を片づける。
仕事中だったのかもしれない。
でも、その動作にも“急に来た迷惑”みたいなものは一切にじまない。
「座って」
促されて、僕は昨日と同じソファに腰を下ろした。
体が沈む。
その柔らかさだけで、少し息がつきやすくなる。
「飲み物、昨日と同じでいい?」
「…お願いします」
「了~解」
澪さんはケトルに水を足しながら、ちらりとこちらを見た。
「今日は何があった?」
問いかけは軽い。
でも、答えを急がせない隙がある。
僕はすぐには返事をしなかった。
何があった、なんて、たぶん一言じゃ済まない。
でも、その全部を順番に話す気力もなかった。
「…ちょっと」
「うん」
「前よりは、ちゃんとしようと思ったんです」
自分でも曖昧な言い方だと思う。
でも澪さんは頷いた。
「うん」
「でも、やろうとすると余計変になるっていうか」
「うん」
「断ったつもりでも、結局また隙を残して」
そこまで言ってから、小さく息を吐く。
「それでまた、期待させてるかもしれなくて」
ケトルが小さく鳴る。
澪さんはお湯を注ぎながら、静かに聞いていた。
「まっすぐ断れば傷つけるし」
「うん」
「やわらかくすると、また曖昧になるし」
「うん」
「何やってもだめな気がしてきました」
言い終わると、部屋の中が一瞬だけ静かになる。
澪さんは二つのマグカップを持ってこちらへ来た。
ひとつを僕の前に置き、自分も斜め向かいに腰を下ろす。
「はい。熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
マグカップを両手で包む。
それだけで、少しだけ手の震えが落ち着く気がした。
「ねえ」
澪さんが、カップの縁に指を添えながら言う。
「東條くんって、“ちゃんとしよう”の基準がちょっと高すぎるんじゃないかな」
「高すぎる?」
「うん」
澪さんは少し考えるみたいに目を伏せる。
「昨日までずっと曖昧な態度だった人が、今日からいきなりきれいにスパッと断れるわけないでしょ」
その言い方は、ひよりの言っていたことにも少し似ていた。
でも、ひよりよりずっとやわらかい。
「…でも、できないからって、そのままにしたらまた」
「そうだね」
澪さんはすぐに頷く。
「そのままはよくないと思う」
そこでちゃんと同意するのが、ずるい。
全部を甘やかしてくれるわけじゃない。
でも、責めもしない。
「じゃあどうしたら」
「今日は、そこまで考えなくていいよ」
即答だった。
僕は思わず顔を上げた。
「でも」
「今、頭の中ぐちゃぐちゃでしょう」
「…まあ」
「その状態で正解探しても、たぶん余計しんどいよ」
澪さんはそう言って、少しだけ笑う。
「東條くんって、真面目だから」
その言葉に、少しだけ違和感があった。
真面目。
そんなもの、今日一日の僕には似合わない気がしたからだ。
「真面目じゃないですよ」
「そう?」
「だって、結局、自分が嫌われたくないだけだし」
思ったよりすんなり本音が出た。
「ちゃんとしたいっていうのも、本当に相手のためか分からないし」
澪さんは否定しなかった。
ただ、静かに聞いている。
「好かれるのが嬉しいのも本当です」
「うん」
「なくしたくないのも、たぶん本当で」
「うん」
「それなのに、ちゃんとしなきゃとも思ってて」
マグカップの中の湯気を見る。
細くのぼって、すぐに見えなくなる。
「都合いいですよね」
小さくそう言うと、澪さんは少しだけ首を傾けた。
「都合がいいというより、まだ自分の中で整理がついてないんだと思う」
「同じようなものじゃないですか」
「違うよ」
その否定はやわらかかったけれど、はっきりしていた。
「東條くん、自分がずるいって思うことで、少し安心してるところあるでしょう?」
その言葉に、息が止まりそうになる。
「…安心?」
「うん」
「“自分はずるいだけだ”って言い切れたら、それ以上細かく考えなくて済むから」
僕は何も返せなかった。
そんなふうに考えたことはなかった。
でも、言われてみると確かに似たようなことをしている気がする。
自分は最低だ。
ずるい。
未熟だ。
そうやって大きなラベルを貼ってしまえば、その中身を一つずつ考えなくて済む。
どこで期待させたのか。
どこで逃げたのか。
どこに嬉しさが混ざっていたのか。
そういう細かいところを見ないままでいられる。
「…なんか」
やっと声を出す。
「ほんと、ずるいですね。澪さんも」
「私が?」
「やさしいこと言うのに、結局ちゃんと痛いところつくから」
そう言うと、澪さんは少しだけ笑った。
「全部やさしいだけじゃ、たぶん意味がないから」
その返し方も、やっぱりずるい。
しずくみたいに鋭く切るわけじゃない。
ひよりみたいにまっすぐ怒るわけでもない。
でも、気づいたら逃げ道が少しずつ減っている。
僕は背もたれに少しだけ体を預けた。
「…疲れました」
「うん」
「ちゃんとしようとするの、思ったよりずっと疲れる」
「そうだろうね」
「前は、そんなこと考えなくてよかったから」
「うん」
「曖昧でも、感じよくしてれば、その場は何とかなったし」
「うん」
「今は、何言ってもその先の意味を考えちゃうから」
そこでようやく、疲れの正体が少しだけ言葉になった気がした。
何かを言うたびに、その先を想像する。
相手がどう受け取るか。
期待になるか、拒絶になるか。
曖昧さになるか。
それを毎回考えていたら、そりゃ疲れる。
澪さんはしばらく黙ってから、静かに言った。
「でも、疲れるってことは、前よりちゃんと見てるってことでもあるよ」
「…そうなんですかね」
「うん」
その“うん”は、今日何度も聞いた。
でも、ひよりの“うん”とも、しずくの“うん”とも違う。
責めない。
でも軽くもしない。
ただ、そこで止まって一緒に持ってくれる感じがある。
「東條くん」
「はい」
「今日は、ちゃんと休んだ方がいい」
「……」
「疲れてるときに頑張り続けると、たぶん、次はもっと適当になる」
その言葉に、少しだけぞっとする。
適当になる。
たしかに、ありえる気がした。
疲れて、考えるのをやめて、また前みたいに少し感じよく返してしまう。
その方が楽だから。
その場では摩擦が少ないから。
でも、それはたぶん一番戻っちゃいけないところだ。
「…じゃあ、どう休めばいいんですか」
自分でも妙な質問だと思った。
でも今の僕には、本当にそれが分からなかった。
ただ一人でいると、考えすぎる。
誰かといると、また意味を考える。
何が休みになるのか、うまく分からない。
澪さんは少し考えてから言った。
「今、この部屋にいるみたいにすればいいよ」
「この部屋にいるみたいに?」
「うん。答えを出さない時間を持つの」
その言い方に、また少しだけ気持ちがゆるむ。
「何も決めなくていいってことですか」
「今はね」
「でも、ずっとじゃだめですよね」
「もちろん」
澪さんは笑った。
「でも、ずっとじゃないならいいでしょ」
それが、ひどく魅力的に聞こえる。
ずっとじゃないなら。
今だけなら。
少し休むだけなら。
そうやって人は、たぶん楽な方へ沈んでいく。
分かっている。
分かっているのに、今の僕にはその“今だけ”がとてもありがたかった。
「…少しだけなら」
まただ、と思いながら口にする。
少しだけ。
僕は本当に、この言葉から離れられない。
澪さんはそれを責めなかった。
ただ穏やかに頷く。
「うん。少しだけでいいよ」
それからしばらく、僕たちはほとんど何も話さなかった。
カップの中身が少しずつ減っていく。
窓の外の光が、ゆっくり夕方に変わっていく。
部屋の時計が、一定の速さで進んでいる。
何も決めない時間。
何も解決しない時間。
でも、それでも確かに、呼吸が少しずつ楽になっていく時間だった。
僕はソファに沈み込みながら、ぼんやりと思う。
ここに来ると、決めなくていい。
向き合わなくていいわけじゃない。
でも、今すぐ答えを出さなくていい。
それは、今の僕にはひどくありがたい。
だからこそ、危ない。
この部屋にいれば、僕は少しだけ“ちゃんとしていなくていい人”になれる。
それが救いであることと、そこに甘えたくなることは、たぶん同じ意味じゃない。
でも今はまだ、その違いをきれいに分けられなかった。
「少し、顔色戻ったね」
しばらくして、澪さんが言った。
「そうですか」
「うん。最初よりずっとましだよ」
僕はカップの中の残りを見下ろす。
「…ここ、楽です」
「うん」
「それが、ちょっと怖いです」
正直に言うと、澪さんはほんの少しだけ目を細めた。
「怖いって思えてるなら、大丈夫だよ」
「そういうものですか」
「たぶんね」
それきり、また静かになる。
僕はその静けさに体を預けながら、少しだけ目を閉じた。
沈んでいける場所は、たいてい優しい顔をしている。
昨日か今日、誰かに言われたような気がする。
誰だったかは思い出せない。
でも、今ならその意味だけは少し分かる。
この部屋は、たしかに優しい。
そして、その優しさに救われている自分もいる。
けれど、救われることと、頼りきってしまうことの間には、たぶん思っているより細い線しかない。
その線を越えたらどうなるのか。
そこまではまだ考えたくなかった。
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