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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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13/50

「九条澪は、休ませる」

 


 その日の放課後、僕はまっすぐ帰るつもりでいた。


 昼休みのあとからずっと、頭の奥が重かった。

 授業の内容は半分も入っていない。

 ノートは取っていたし、当てられればそれなりに答えたけれど、自分が本当に教室にいたのか少し怪しいくらい、意識は別のところに引っ張られていた。


 紗奈先輩の言葉。

 ひよりの言葉。

 そして、そのどれにもちゃんと反論できなかった自分。


 胸のあたりに、重くて鈍いものがずっと残っている。


 こんな日は誰とも話さない方がいい。

 そう思って、最後のホームルームが終わると同時に鞄を持ち上げた。


 けれど、教室を出る前にスマホが震えた。


 短い通知だった。


 **九条澪:時間あるなら、少し寄っていく?**


 それだけ。


 その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけゆるむのが分かった。

 それが、まずいとも思う。


 澪さんの部屋は、今の僕にとって“楽な場所”になりつつある。

 やさしくされて、急かされなくて、何も決めなくてよくて、少しだけちゃんとしていなくても許される場所。


 そんなところにばかり行っていたら、たぶん自分で立つ力が鈍る。


 頭では分かっている。

 分かっているのに、指はすぐに返信を打っていた。


 **少しだけなら**


 送信したあとで、少しだけ自己嫌悪が戻る。

 “少しだけ”ばかりだ。

 僕は本当に、その言葉が好きなんだと思う。


 ◇


 支援棟の二階にある澪さんの部屋は、今日も静かだった。


 ドアを開ける前から、なぜだか少し安心してしまう。

 その時点で、やっぱり危ない。


 ノックをすると、すぐにやわらかい声が返ってくる。


「どうぞ」


 ドアを開ける。


 白い壁、低い棚、窓際の観葉植物。

 机の隅の電気ケトルと、きれいに重ねられたマグカップ。

 昨日と同じはずなのに、ここだけは学校の中でも少し違う時間が流れている気がした。


「いらっしゃい」


 澪さんは椅子から立ち上がって、小さく笑った。


「顔、疲れてるね」


 その一言で、妙に力が抜けそうになる。


「…そんなに分かりますか」


「うん。今日は特にね」


 そう言いながら、澪さんは机の上を片づける。

 仕事中だったのかもしれない。

 でも、その動作にも“急に来た迷惑”みたいなものは一切にじまない。


「座って」


 促されて、僕は昨日と同じソファに腰を下ろした。

 体が沈む。

 その柔らかさだけで、少し息がつきやすくなる。


「飲み物、昨日と同じでいい?」


「…お願いします」


「了~解」


 澪さんはケトルに水を足しながら、ちらりとこちらを見た。


「今日は何があった?」


 問いかけは軽い。

 でも、答えを急がせない隙がある。


 僕はすぐには返事をしなかった。

 何があった、なんて、たぶん一言じゃ済まない。

 でも、その全部を順番に話す気力もなかった。


「…ちょっと」


「うん」


「前よりは、ちゃんとしようと思ったんです」


 自分でも曖昧な言い方だと思う。

 でも澪さんは頷いた。


「うん」


「でも、やろうとすると余計変になるっていうか」


「うん」


「断ったつもりでも、結局また隙を残して」


 そこまで言ってから、小さく息を吐く。


「それでまた、期待させてるかもしれなくて」


 ケトルが小さく鳴る。

 澪さんはお湯を注ぎながら、静かに聞いていた。


「まっすぐ断れば傷つけるし」


「うん」


「やわらかくすると、また曖昧になるし」


「うん」


「何やってもだめな気がしてきました」


 言い終わると、部屋の中が一瞬だけ静かになる。


 澪さんは二つのマグカップを持ってこちらへ来た。

 ひとつを僕の前に置き、自分も斜め向かいに腰を下ろす。


「はい。熱いから気をつけて」


「ありがとうございます」


 マグカップを両手で包む。

 それだけで、少しだけ手の震えが落ち着く気がした。


「ねえ」


 澪さんが、カップの縁に指を添えながら言う。


「東條くんって、“ちゃんとしよう”の基準がちょっと高すぎるんじゃないかな」


「高すぎる?」


「うん」


 澪さんは少し考えるみたいに目を伏せる。


「昨日までずっと曖昧な態度だった人が、今日からいきなりきれいにスパッと断れるわけないでしょ」


 その言い方は、ひよりの言っていたことにも少し似ていた。

 でも、ひよりよりずっとやわらかい。


「…でも、できないからって、そのままにしたらまた」


「そうだね」


 澪さんはすぐに頷く。


「そのままはよくないと思う」


 そこでちゃんと同意するのが、ずるい。

 全部を甘やかしてくれるわけじゃない。

 でも、責めもしない。


「じゃあどうしたら」


「今日は、そこまで考えなくていいよ」


 即答だった。


 僕は思わず顔を上げた。


「でも」


「今、頭の中ぐちゃぐちゃでしょう」


「…まあ」


「その状態で正解探しても、たぶん余計しんどいよ」


 澪さんはそう言って、少しだけ笑う。


「東條くんって、真面目だから」


 その言葉に、少しだけ違和感があった。

 真面目。

 そんなもの、今日一日の僕には似合わない気がしたからだ。


「真面目じゃないですよ」


「そう?」


「だって、結局、自分が嫌われたくないだけだし」


 思ったよりすんなり本音が出た。


「ちゃんとしたいっていうのも、本当に相手のためか分からないし」


 澪さんは否定しなかった。

 ただ、静かに聞いている。


「好かれるのが嬉しいのも本当です」


「うん」


「なくしたくないのも、たぶん本当で」


「うん」


「それなのに、ちゃんとしなきゃとも思ってて」


 マグカップの中の湯気を見る。

 細くのぼって、すぐに見えなくなる。


「都合いいですよね」


 小さくそう言うと、澪さんは少しだけ首を傾けた。


「都合がいいというより、まだ自分の中で整理がついてないんだと思う」


「同じようなものじゃないですか」


「違うよ」


 その否定はやわらかかったけれど、はっきりしていた。


「東條くん、自分がずるいって思うことで、少し安心してるところあるでしょう?」


 その言葉に、息が止まりそうになる。


「…安心?」


「うん」


「“自分はずるいだけだ”って言い切れたら、それ以上細かく考えなくて済むから」


 僕は何も返せなかった。


 そんなふうに考えたことはなかった。

 でも、言われてみると確かに似たようなことをしている気がする。


 自分は最低だ。

 ずるい。

 未熟だ。


 そうやって大きなラベルを貼ってしまえば、その中身を一つずつ考えなくて済む。

 どこで期待させたのか。

 どこで逃げたのか。

 どこに嬉しさが混ざっていたのか。


 そういう細かいところを見ないままでいられる。


「…なんか」


 やっと声を出す。


「ほんと、ずるいですね。澪さんも」


「私が?」


「やさしいこと言うのに、結局ちゃんと痛いところつくから」


 そう言うと、澪さんは少しだけ笑った。


「全部やさしいだけじゃ、たぶん意味がないから」


 その返し方も、やっぱりずるい。


 しずくみたいに鋭く切るわけじゃない。

 ひよりみたいにまっすぐ怒るわけでもない。

 でも、気づいたら逃げ道が少しずつ減っている。


 僕は背もたれに少しだけ体を預けた。


「…疲れました」


「うん」


「ちゃんとしようとするの、思ったよりずっと疲れる」


「そうだろうね」


「前は、そんなこと考えなくてよかったから」


「うん」


「曖昧でも、感じよくしてれば、その場は何とかなったし」


「うん」


「今は、何言ってもその先の意味を考えちゃうから」


 そこでようやく、疲れの正体が少しだけ言葉になった気がした。


 何かを言うたびに、その先を想像する。

 相手がどう受け取るか。

 期待になるか、拒絶になるか。

 曖昧さになるか。


 それを毎回考えていたら、そりゃ疲れる。


 澪さんはしばらく黙ってから、静かに言った。


「でも、疲れるってことは、前よりちゃんと見てるってことでもあるよ」


「…そうなんですかね」


「うん」


 その“うん”は、今日何度も聞いた。

 でも、ひよりの“うん”とも、しずくの“うん”とも違う。


 責めない。

 でも軽くもしない。

 ただ、そこで止まって一緒に持ってくれる感じがある。


「東條くん」


「はい」


「今日は、ちゃんと休んだ方がいい」


「……」


「疲れてるときに頑張り続けると、たぶん、次はもっと適当になる」


 その言葉に、少しだけぞっとする。


 適当になる。

 たしかに、ありえる気がした。


 疲れて、考えるのをやめて、また前みたいに少し感じよく返してしまう。

 その方が楽だから。

 その場では摩擦が少ないから。


 でも、それはたぶん一番戻っちゃいけないところだ。


「…じゃあ、どう休めばいいんですか」


 自分でも妙な質問だと思った。

 でも今の僕には、本当にそれが分からなかった。


 ただ一人でいると、考えすぎる。

 誰かといると、また意味を考える。

 何が休みになるのか、うまく分からない。


 澪さんは少し考えてから言った。


「今、この部屋にいるみたいにすればいいよ」


「この部屋にいるみたいに?」


「うん。答えを出さない時間を持つの」


 その言い方に、また少しだけ気持ちがゆるむ。


「何も決めなくていいってことですか」


「今はね」


「でも、ずっとじゃだめですよね」


「もちろん」


 澪さんは笑った。


「でも、ずっとじゃないならいいでしょ」


 それが、ひどく魅力的に聞こえる。


 ずっとじゃないなら。

 今だけなら。

 少し休むだけなら。


 そうやって人は、たぶん楽な方へ沈んでいく。


 分かっている。

 分かっているのに、今の僕にはその“今だけ”がとてもありがたかった。


「…少しだけなら」


 まただ、と思いながら口にする。


 少しだけ。

 僕は本当に、この言葉から離れられない。


 澪さんはそれを責めなかった。

 ただ穏やかに頷く。


「うん。少しだけでいいよ」


 それからしばらく、僕たちはほとんど何も話さなかった。


 カップの中身が少しずつ減っていく。

 窓の外の光が、ゆっくり夕方に変わっていく。

 部屋の時計が、一定の速さで進んでいる。


 何も決めない時間。

 何も解決しない時間。

 でも、それでも確かに、呼吸が少しずつ楽になっていく時間だった。


 僕はソファに沈み込みながら、ぼんやりと思う。


 ここに来ると、決めなくていい。

 向き合わなくていいわけじゃない。

 でも、今すぐ答えを出さなくていい。


 それは、今の僕にはひどくありがたい。


 だからこそ、危ない。


 この部屋にいれば、僕は少しだけ“ちゃんとしていなくていい人”になれる。

 それが救いであることと、そこに甘えたくなることは、たぶん同じ意味じゃない。


 でも今はまだ、その違いをきれいに分けられなかった。


「少し、顔色戻ったね」


 しばらくして、澪さんが言った。


「そうですか」


「うん。最初よりずっとましだよ」


 僕はカップの中の残りを見下ろす。


「…ここ、楽です」


「うん」


「それが、ちょっと怖いです」


 正直に言うと、澪さんはほんの少しだけ目を細めた。


「怖いって思えてるなら、大丈夫だよ」


「そういうものですか」


「たぶんね」


 それきり、また静かになる。


 僕はその静けさに体を預けながら、少しだけ目を閉じた。


 沈んでいける場所は、たいてい優しい顔をしている。


 昨日か今日、誰かに言われたような気がする。

 誰だったかは思い出せない。

 でも、今ならその意味だけは少し分かる。


 この部屋は、たしかに優しい。

 そして、その優しさに救われている自分もいる。


 けれど、救われることと、頼りきってしまうことの間には、たぶん思っているより細い線しかない。


 その線を越えたらどうなるのか。

 そこまではまだ考えたくなかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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