「誰にでも優しいのは、やっぱり一番ずるい」
その日の昼休み、僕は教室で弁当を開く気になれなかった。
朝のやりとりを引きずっているのもある。
視線の多い場所でまた誰かに話しかけられて、同じように迷って、同じように中途半端な返事をする気がした。
それが嫌で、チャイムが鳴るより少し早く席を立つ。
「どこ行くの?」
ひよりに聞かれて、僕は鞄から弁当を出しながら答えた。
「…屋上の下の踊り場」
「また微妙な場所選ぶね」
「人少ないし」
「まあね」
ひよりはそれ以上ついてこようとしなかった。
その距離感に、少しだけ助かる。
教室を出る。
廊下にはもう昼休みの空気が流れ始めていた。
友達同士で連れ立つ声。階段を上っていく足音。購買へ走る気配。
その流れから少し外れて、僕は人気の少ない階段の踊り場へ向かった。
窓が一つあるだけの狭い場所。
古い校舎特有の、少し乾いた埃の匂い。
昼の光が斜めに差し込んで、床に白い四角を作っている。
ここなら、少なくとも今すぐ誰かに囲まれることはない。
そう思って壁にもたれ、弁当箱を開いたところで、足音が近づいてきた。
思わず顔を上げる。
胸の奥が、もう反射みたいに少し強張る。
「…やっぱりここだった」
聞き覚えのある声だった。
現れたのは、二年の女子生徒だった。
名前は知っている。三枝紗奈。
何度か一緒に帰ったことがあって、放課後にメッセージのやり取りもした。
少し前までなら、僕の中では“気軽に話せる相手”の一人だった。
でも今、その“気軽に”という言葉がひどく危うく思える。
「…何か用?」
できるだけ平たく聞く。
紗奈先輩は、僕の反応を見て少しだけ眉を上げた。
前ならもっと自然に笑いかけていたのに、今の僕はたぶん少し硬い。
「用っていうか」
先輩は手すりに軽く指を置いたまま、僕を見た。
「最近、ちょっと冷たいなって思って」
その言い方は責めるほど強くない。
でも、軽くもなかった。
僕は弁当箱を見下ろし、卵焼きを箸でつつく。
どう返せばいいのか分からない。
「…そうですか」
「そうだよ」
すぐに返ってくる。
「前はもう少し、普通に話してくれたじゃん」
普通に。
その一言が、妙に重かった。
前の僕にとっては、それが普通だった。
相手に笑って、話を聞いて、やわらかく返して、気が向けば少し長くメッセージを続ける。
誰か一人に決めることもしないし、でも誰も露骨には切らない。
それが、普通だと思っていた。
でも今は、その“普通”の中に何が混ざっていたのかを、少しずつ知らされている。
「…前が、ちょっと曖昧すぎたのかも」
慎重にそう言うと、紗奈先輩は少しだけ目を細めた。
「曖昧?」
「はい」
「私とのことが?」
その“私とのこと”という言い方に、思わず言葉が止まる。
そうか。
僕にとっては“何人かのうちの一人”でも、向こうにとってはちゃんと“私とのこと”として存在していたのだ。
「…そういう言い方されると」
僕が口ごもると、先輩は短く笑った。
でも、それは楽しそうな笑いじゃなかった。
「でしょ?」
「……」
「凪くんって、たぶんそういうとこだよ」
名前を呼ばれて、胸がわずかにざわつく。
前なら嬉しかったはずの呼ばれ方が、今はまるで別の意味に聞こえる。
先輩は続ける。
「自分では軽く言ってるつもりでも、こっちはちゃんと受け取るんだよ」
「そんなつもりじゃ」
言いかけて、止まる。
またその言葉か、と自分でも思う。
そんなつもりじゃない。
でも、そのつもりじゃなかったことが、免罪符にならないところまで来ている。
紗奈先輩は、僕が途中で黙ったことに少しだけ驚いたようだった。
たぶん前なら、ここで何かやわらかい言い訳をしていた。
「…変わったね」
先輩がぽつりと言う。
「そうですか」
「うん。前はもっと、感じよく誤魔化してくれた」
その言い方に、胸の奥がずきっとした。
感じよく誤魔化す。
それはまさに、今までの僕のことだった。
「でも、それも分かりやすかったよ」
「分かりやすい…?」
「うん」
先輩は窓の外へ一瞬だけ視線を流し、それからまた僕を見る。
「凪くんって、誰にも悪く思われたくないんだなって」
その一言が、静かに刺さる。
悪く思われたくない。
たぶん、その通りだった。
「私だけじゃないと思うよ」
先輩は言う。
「何人か、たぶん同じように思ってた」
「…同じようにって」
「自分だけは少し特別って」
風が入る。
窓の隙間が小さく鳴る。
僕は、急に目の前の弁当がひどく味気なく見えた。
何人か。
同じように。
自分だけは少し近い。
それを、僕はどこまで分かっていただろう。
たぶん、薄くは気づいていた。
でも、本気では考えないようにしていた。
考えたら、どこかでちゃんと答えを出さなきゃいけなくなるから。
「…ごめんなさい」
ようやく出た言葉は、それだった。
先輩は少しだけ口元をゆるめる。
でも、それは許した笑いではなかった。
「今の“ごめん”も、便利だよね」
僕は思わず顔を上げた。
紗奈先輩は責めるでもなく、ただ事実を確認するような顔をしていた。
「謝れば少し気持ちがやわらぐでしょ?」
「そんなつもりじゃ」
「うん、分かってる」
でも、と続く。
「そういうとこなんだよ」
言葉が出ない。
謝ることすら、今の僕には逃げに見えるのか。
いや、見えるのではなく、たぶん実際そういう面もある。
相手をなだめたい。
自分がひどい人になりきりたくない。
だから“ごめん”を置く。
それはたしかに、便利だった。
「…凪くんってさ」
先輩が少しだけ声を落とす。
「誰にでも優しいよね」
またその言葉だ。
でも、その響きはひよりが言うときと少し違った。
ひよりは怒っていた。
紗奈先輩のそれは、もう少し諦めに近い。
「前は、それが好きだった」
「……」
「でも、今はちょっと分かる」
先輩は小さく笑った。
「誰にでも優しいって、結局、誰にも本気じゃないのと近いんだね」
その一言は、ひよりの言葉よりずっと静かで、ずっと重かった。
怒鳴られた方が楽だったかもしれない。
泣かれた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。
でも今のこれは、僕の中のいちばん見たくない部分を、そのまま置かれた感じがする。
僕は何も返せなかった。
紗奈先輩は、それ以上追い打ちをかけることはしなかった。
「ごめんね、変なこと言って」
「いや…」
「ただ、ちょっと言いたかっただけ」
そう言って、先輩は踵を返す。
でも、踊り場を出る直前に一度だけ振り返った。
「私、凪くんのこと嫌いになりたいわけじゃないから」
その言葉の方が、きつかった。
「だから、ちゃんとしてね」
言い終えると、先輩は本当に行ってしまった。
一人になった踊り場で、僕はしばらく動けなかった。
ちゃんとして。
その言葉が頭の中でゆっくり広がる。
ちゃんとする、って何だろう。
曖昧にしないこと。
隙を残さないこと。
好意を受け取るだけ受け取って、保留にしないこと。
たぶんそういうことだ。
分かる。
でも、それを一つずつやろうとすると、急に自分が冷たい人間になるみたいで怖い。
怖い。
その感情を、今の僕はもう否定できない。
「…凪くん」
また声がした。
今日は本当に、どれだけ見られているんだろう。
顔を上げると、今度はひよりだった。
踊り場の入口に立っている。
たぶん途中から聞いていたのだろう。
でも、さっきの紗奈先輩みたいに踏み込まず、少し距離を取っている。
「…見てたの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけが多いね」
「見える位置にいる凪くんが悪い」
ひよりらしい返しに、少しだけ息が抜ける。
でも、それも一瞬だった。
「…ひどかった?」
自分でも情けないと思いながら聞くと、ひよりは少しだけ考えてから答えた。
「うん」
正直だ。
「でも、言われると思った」
「何を」
「誰にでも優しいのって、結局一番ずるいってこと」
ひよりは階段を一段だけ下りて、僕と同じ高さに立った。
「私が言うより、ああいうふうに言われた方が効いたでしょ」
「…まあ」
「顔見れば分かる」
たしかに、今の僕はたぶん分かりやすくへこんでいる。
ひよりは壁に軽く背中を預けた。
「ねえ、凪くん」
「なに」
「まだ、自分は優しい方だと思ってる?」
その問いは、思っていたよりずっとまっすぐ来た。
優しい方だと、思いたかった。
少なくとも少し前までは。
誰にでも感じよくするのは悪いことじゃない。
なるべく傷つけない返しを選ぶのも悪いことじゃない。
そういうふうに自分を見ていた。
でも今は、その土台が崩れかけている。
「…分かんない」
やっと出たのは、そのくらいの言葉だった。
「優しいつもりではいた」
「うん」
「でも、それってたぶん」
一度、喉が詰まる。
「僕が一番気持ちいいやり方だっただけかも」
ひよりは何も言わずに聞いていた。
それが逆に続けやすかった。
「誰にも嫌われないし、誰からも少し好かれるし」
「うん」
「自分は優しい男みたいな顔もできるし」
「うん」
「…最悪じゃん」
最後は半分、自嘲だった。
ひよりは少しだけ眉を下げる。
「最悪っていうか、ずるい」
「言い換えになってない」
「だってそうだもん」
それから、少しだけやわらかい声で続ける。
「でも、分かってきたならまだ戻れるよ」
「戻れるかな」
「戻るっていうか、やり直せる」
やり直せる。
その言い方は、少しだけ救いに聞こえた。
でも、僕はすぐには頷けなかった。
「…僕、たぶんまだ、なくしたくないんだよ」
「何を?」
「好かれること」
口にした瞬間、少しだけ胸が軽くなる。
痛いけど、軽い。
「向けられるのが嬉しいのは、本当だから」
ひよりは小さく息を吐いた。
「うん。そこはたぶん本当なんだと思う」
「否定しないんだ」
「否定しても意味ないでしょ」
そして、きっぱりと続ける。
「でも、それを惜しんで曖昧にするなら、やっぱりずるいよ」
救うだけじゃなく、ちゃんと刺す。
ひよりはそこがぶれない。
「…分かってる」
「なら、次はもう少しちゃんと」
「断る?」
「うん」
その一言が、妙に重く響いた。
断る。
簡単な言葉だ。
でも今の僕には、まだ少しこわい。
誰かにがっかりされること。
傷ついた顔を見せられること。
そのたびに、自分が悪い人間になった気がすること。
それでも。
今までみたいに“少しだけ残す”のは、もうだめなんだろう。
「…頑張る」
僕がそう言うと、ひよりはすぐに首を横に振った。
「頑張るじゃなくて、やるの」
それは、昨日しずくにも似たようなことを言われたなと思う。
言葉を理解するだけじゃだめだ。
やるか、やらないか。
そこまで来ている。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
僕たちは少しだけ顔を見合わせて、それから教室へ戻るために歩き出した。
階段を上りながら、僕は自分の手のひらを見た。
誰かを引き寄せることも、
曖昧に留めることも、
たぶんこの手でずっとやってきた。
でもそれを“優しさ”と呼ぶのは、もう違う。
誰にでも優しいは、やっぱり一番ずるい。
それが今日、ようやく本当に分かった気がした。
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