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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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「誰にでも優しいのは、やっぱり一番ずるい」

 

 その日の昼休み、僕は教室で弁当を開く気になれなかった。


 朝のやりとりを引きずっているのもある。

 視線の多い場所でまた誰かに話しかけられて、同じように迷って、同じように中途半端な返事をする気がした。


 それが嫌で、チャイムが鳴るより少し早く席を立つ。


「どこ行くの?」


 ひよりに聞かれて、僕は鞄から弁当を出しながら答えた。


「…屋上の下の踊り場」


「また微妙な場所選ぶね」


「人少ないし」


「まあね」


 ひよりはそれ以上ついてこようとしなかった。

 その距離感に、少しだけ助かる。


 教室を出る。

 廊下にはもう昼休みの空気が流れ始めていた。

 友達同士で連れ立つ声。階段を上っていく足音。購買へ走る気配。


 その流れから少し外れて、僕は人気の少ない階段の踊り場へ向かった。


 窓が一つあるだけの狭い場所。

 古い校舎特有の、少し乾いた埃の匂い。

 昼の光が斜めに差し込んで、床に白い四角を作っている。


 ここなら、少なくとも今すぐ誰かに囲まれることはない。


 そう思って壁にもたれ、弁当箱を開いたところで、足音が近づいてきた。


 思わず顔を上げる。


 胸の奥が、もう反射みたいに少し強張る。


「…やっぱりここだった」


 聞き覚えのある声だった。


 現れたのは、二年の女子生徒だった。

 名前は知っている。三枝紗奈。

 何度か一緒に帰ったことがあって、放課後にメッセージのやり取りもした。

 少し前までなら、僕の中では“気軽に話せる相手”の一人だった。


 でも今、その“気軽に”という言葉がひどく危うく思える。


「…何か用?」


 できるだけ平たく聞く。


 紗奈先輩は、僕の反応を見て少しだけ眉を上げた。

 前ならもっと自然に笑いかけていたのに、今の僕はたぶん少し硬い。


「用っていうか」


 先輩は手すりに軽く指を置いたまま、僕を見た。


「最近、ちょっと冷たいなって思って」


 その言い方は責めるほど強くない。

 でも、軽くもなかった。


 僕は弁当箱を見下ろし、卵焼きを箸でつつく。

 どう返せばいいのか分からない。


「…そうですか」


「そうだよ」


 すぐに返ってくる。


「前はもう少し、普通に話してくれたじゃん」


 普通に。

 その一言が、妙に重かった。


 前の僕にとっては、それが普通だった。

 相手に笑って、話を聞いて、やわらかく返して、気が向けば少し長くメッセージを続ける。

 誰か一人に決めることもしないし、でも誰も露骨には切らない。


 それが、普通だと思っていた。


 でも今は、その“普通”の中に何が混ざっていたのかを、少しずつ知らされている。


「…前が、ちょっと曖昧すぎたのかも」


 慎重にそう言うと、紗奈先輩は少しだけ目を細めた。


「曖昧?」


「はい」


「私とのことが?」


 その“私とのこと”という言い方に、思わず言葉が止まる。


 そうか。

 僕にとっては“何人かのうちの一人”でも、向こうにとってはちゃんと“私とのこと”として存在していたのだ。


「…そういう言い方されると」


 僕が口ごもると、先輩は短く笑った。

 でも、それは楽しそうな笑いじゃなかった。


「でしょ?」


「……」


「凪くんって、たぶんそういうとこだよ」


 名前を呼ばれて、胸がわずかにざわつく。

 前なら嬉しかったはずの呼ばれ方が、今はまるで別の意味に聞こえる。


 先輩は続ける。


「自分では軽く言ってるつもりでも、こっちはちゃんと受け取るんだよ」


「そんなつもりじゃ」


 言いかけて、止まる。


 またその言葉か、と自分でも思う。

 そんなつもりじゃない。

 でも、そのつもりじゃなかったことが、免罪符にならないところまで来ている。


 紗奈先輩は、僕が途中で黙ったことに少しだけ驚いたようだった。

 たぶん前なら、ここで何かやわらかい言い訳をしていた。


「…変わったね」


 先輩がぽつりと言う。


「そうですか」


「うん。前はもっと、感じよく誤魔化してくれた」


 その言い方に、胸の奥がずきっとした。


 感じよく誤魔化す。

 それはまさに、今までの僕のことだった。


「でも、それも分かりやすかったよ」


「分かりやすい…?」


「うん」


 先輩は窓の外へ一瞬だけ視線を流し、それからまた僕を見る。


「凪くんって、誰にも悪く思われたくないんだなって」


 その一言が、静かに刺さる。


 悪く思われたくない。

 たぶん、その通りだった。


「私だけじゃないと思うよ」


 先輩は言う。


「何人か、たぶん同じように思ってた」


「…同じようにって」


「自分だけは少し特別って」


 風が入る。

 窓の隙間が小さく鳴る。


 僕は、急に目の前の弁当がひどく味気なく見えた。


 何人か。

 同じように。

 自分だけは少し近い。


 それを、僕はどこまで分かっていただろう。


 たぶん、薄くは気づいていた。

 でも、本気では考えないようにしていた。

 考えたら、どこかでちゃんと答えを出さなきゃいけなくなるから。


「…ごめんなさい」


 ようやく出た言葉は、それだった。


 先輩は少しだけ口元をゆるめる。

 でも、それは許した笑いではなかった。


「今の“ごめん”も、便利だよね」


 僕は思わず顔を上げた。


 紗奈先輩は責めるでもなく、ただ事実を確認するような顔をしていた。


「謝れば少し気持ちがやわらぐでしょ?」


「そんなつもりじゃ」


「うん、分かってる」


 でも、と続く。


「そういうとこなんだよ」


 言葉が出ない。


 謝ることすら、今の僕には逃げに見えるのか。

 いや、見えるのではなく、たぶん実際そういう面もある。


 相手をなだめたい。

 自分がひどい人になりきりたくない。

 だから“ごめん”を置く。


 それはたしかに、便利だった。


「…凪くんってさ」


 先輩が少しだけ声を落とす。


「誰にでも優しいよね」


 またその言葉だ。

 でも、その響きはひよりが言うときと少し違った。


 ひよりは怒っていた。

 紗奈先輩のそれは、もう少し諦めに近い。


「前は、それが好きだった」


「……」


「でも、今はちょっと分かる」


 先輩は小さく笑った。


「誰にでも優しいって、結局、誰にも本気じゃないのと近いんだね」


 その一言は、ひよりの言葉よりずっと静かで、ずっと重かった。


 怒鳴られた方が楽だったかもしれない。

 泣かれた方が、まだ分かりやすかったかもしれない。


 でも今のこれは、僕の中のいちばん見たくない部分を、そのまま置かれた感じがする。


 僕は何も返せなかった。


 紗奈先輩は、それ以上追い打ちをかけることはしなかった。


「ごめんね、変なこと言って」


「いや…」


「ただ、ちょっと言いたかっただけ」


 そう言って、先輩は踵を返す。


 でも、踊り場を出る直前に一度だけ振り返った。


「私、凪くんのこと嫌いになりたいわけじゃないから」


 その言葉の方が、きつかった。


「だから、ちゃんとしてね」


 言い終えると、先輩は本当に行ってしまった。


 一人になった踊り場で、僕はしばらく動けなかった。


 ちゃんとして。

 その言葉が頭の中でゆっくり広がる。


 ちゃんとする、って何だろう。


 曖昧にしないこと。

 隙を残さないこと。

 好意を受け取るだけ受け取って、保留にしないこと。


 たぶんそういうことだ。


 分かる。

 でも、それを一つずつやろうとすると、急に自分が冷たい人間になるみたいで怖い。


 怖い。

 その感情を、今の僕はもう否定できない。


「…凪くん」


 また声がした。


 今日は本当に、どれだけ見られているんだろう。

 顔を上げると、今度はひよりだった。


 踊り場の入口に立っている。

 たぶん途中から聞いていたのだろう。

 でも、さっきの紗奈先輩みたいに踏み込まず、少し距離を取っている。


「…見てたの?」


「ちょっとだけ」


「ちょっとだけが多いね」


「見える位置にいる凪くんが悪い」


 ひよりらしい返しに、少しだけ息が抜ける。

 でも、それも一瞬だった。


「…ひどかった?」


 自分でも情けないと思いながら聞くと、ひよりは少しだけ考えてから答えた。


「うん」


 正直だ。


「でも、言われると思った」


「何を」


「誰にでも優しいのって、結局一番ずるいってこと」


 ひよりは階段を一段だけ下りて、僕と同じ高さに立った。


「私が言うより、ああいうふうに言われた方が効いたでしょ」


「…まあ」


「顔見れば分かる」


 たしかに、今の僕はたぶん分かりやすくへこんでいる。


 ひよりは壁に軽く背中を預けた。


「ねえ、凪くん」


「なに」


「まだ、自分は優しい方だと思ってる?」


 その問いは、思っていたよりずっとまっすぐ来た。


 優しい方だと、思いたかった。

 少なくとも少し前までは。


 誰にでも感じよくするのは悪いことじゃない。

 なるべく傷つけない返しを選ぶのも悪いことじゃない。

 そういうふうに自分を見ていた。


 でも今は、その土台が崩れかけている。


「…分かんない」


 やっと出たのは、そのくらいの言葉だった。


「優しいつもりではいた」


「うん」


「でも、それってたぶん」


 一度、喉が詰まる。


「僕が一番気持ちいいやり方だっただけかも」


 ひよりは何も言わずに聞いていた。

 それが逆に続けやすかった。


「誰にも嫌われないし、誰からも少し好かれるし」


「うん」


「自分は優しい男みたいな顔もできるし」


「うん」


「…最悪じゃん」


 最後は半分、自嘲だった。


 ひよりは少しだけ眉を下げる。


「最悪っていうか、ずるい」


「言い換えになってない」


「だってそうだもん」


 それから、少しだけやわらかい声で続ける。


「でも、分かってきたならまだ戻れるよ」


「戻れるかな」


「戻るっていうか、やり直せる」


 やり直せる。


 その言い方は、少しだけ救いに聞こえた。

 でも、僕はすぐには頷けなかった。


「…僕、たぶんまだ、なくしたくないんだよ」


「何を?」


「好かれること」


 口にした瞬間、少しだけ胸が軽くなる。

 痛いけど、軽い。


「向けられるのが嬉しいのは、本当だから」


 ひよりは小さく息を吐いた。


「うん。そこはたぶん本当なんだと思う」


「否定しないんだ」


「否定しても意味ないでしょ」


 そして、きっぱりと続ける。


「でも、それを惜しんで曖昧にするなら、やっぱりずるいよ」


 救うだけじゃなく、ちゃんと刺す。

 ひよりはそこがぶれない。


「…分かってる」


「なら、次はもう少しちゃんと」


「断る?」


「うん」


 その一言が、妙に重く響いた。


 断る。

 簡単な言葉だ。

 でも今の僕には、まだ少しこわい。


 誰かにがっかりされること。

 傷ついた顔を見せられること。

 そのたびに、自分が悪い人間になった気がすること。


 それでも。


 今までみたいに“少しだけ残す”のは、もうだめなんだろう。


「…頑張る」


 僕がそう言うと、ひよりはすぐに首を横に振った。


「頑張るじゃなくて、やるの」


 それは、昨日しずくにも似たようなことを言われたなと思う。


 言葉を理解するだけじゃだめだ。

 やるか、やらないか。


 そこまで来ている。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。

 僕たちは少しだけ顔を見合わせて、それから教室へ戻るために歩き出した。


 階段を上りながら、僕は自分の手のひらを見た。


 誰かを引き寄せることも、

 曖昧に留めることも、

 たぶんこの手でずっとやってきた。


 でもそれを“優しさ”と呼ぶのは、もう違う。


 誰にでも優しいは、やっぱり一番ずるい。


 それが今日、ようやく本当に分かった気がした。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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