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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第2章

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「断ったはずなのに...」

 


 翌朝、目が覚めた瞬間に、少しだけ気分が重かった。


 眠れなかったわけじゃない。

 夜中に何度も起きたわけでもない。

 体はちゃんと休めたはずなのに、胸のあたりだけが薄く重い。


 枕元のスマホを見る。

 新しい通知は増えていなかった。

 昨日返さなかったメッセージは、そのまま残っている。


 それを見た瞬間、少しだけ安心して、同じくらい居心地が悪くなる。


 何も起きていない。

 でも、何も終わってもいない。


 その曖昧さが、今の僕には嫌だった。


 制服に着替えながら、昨日ひよりに言われたことを思い出す。


 ――最後に少しだけ逃がす。

 ――嫌われたくないのが、最後に出る。


 その通りだと思う。

 思うからこそ、今日こそはもう少しちゃんとしよう、とも思っていた。


 ちゃんと。

 その言葉の中身はまだ曖昧だ。


 でも少なくとも、誰にでも同じように笑って、同じように余白を残すのはやめよう。

 それだけは、起きた瞬間から決めていた。


 ◇


 登校途中の空気は、昨日までと少し違っていた。


 誰かが大きな声で何かを言うわけじゃない。

 露骨に囲まれることもない。

 それなのに、視線だけが慎重に近づいてくる。


 駅前の横断歩道。

 改札前の人の流れ。

 校門までの坂道。


 女子たちの目が、前よりほんの少しだけ遠慮がちになっている。

 でも、興味がなくなったわけではない。


 むしろ逆だった。


(…見られてる)


 それは“気になる男子を見ている”だけの視線じゃない。

 “どう近づけばいいか探っている”目だ。


 たぶん昨日のことは、もう小さく広がっている。

 僕がどう断ったか。

 どこまでなら応じるのか。

 どういう言い方なら拒絶されにくいのか。


 そんなふうに整理されるのは、正直かなり気持ち悪い。

 でも、だからといって知らないふりはもうできなかった。


 校門をくぐる。

 何人かと目が合う。

 前みたいに勢いよく手を振ってくる子はいない。

 代わりに、小さく会釈をして、僕の反応を待つような間がある。


「…おはよう」


 とりあえずそれだけ返す。


 相手は少し嬉しそうに笑って、それ以上は近づいてこなかった。

 たったそれだけなのに、どっと疲れる。


 何を返せばいいのか。

 どこまで返せば意味がつかないのか。

 たぶんその計算を、僕はこれから毎回しなければいけない。


 教室に入ると、空気はさらに分かりやすかった。


 ざわつきはある。

 でも、そのざわつきの一部がこっちを向いている。


 昨日までみたいな熱っぽさではない。

 もう少し静かで、慎重で、試すような温度だった。


「おはよう、凪くん」


 席に向かう途中、クラスメイトの女子に声をかけられる。

 同じクラスで、そこそこ話したことはある。

 でも、特別近いわけではない。


「おはよう」


 短く返す。


 その子は、一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。

 僕の反応を測ったのか、それともタイミングを見たのかは分からない。


 ただ、その“探り”に、昨日までよりはっきり気づけるようになっている自分がいた。


 自席に座る。

 鞄を置く。

 教科書を出す。


 普通の朝だ。

 そう思おうとするたびに、普通じゃない部分ばかりが浮かび上がる。


「凪くん」


 また声がした。


 今度は、さっきとは別の女子だった。

 彼女は僕の机の横まで来ると、少しだけ身をかがめる。


「今、少しだけいい?」


 その“少しだけ”という言い方に、胸の奥が小さくざわつく。


 前なら気にならなかったはずだ。

 でも今は、それがすごくよく分かる。


 少しだけ。

 長くじゃない。

 重くもない。

 だから受け入れても大丈夫でしょう、という形。


 実際、そこに悪意はないのだと思う。

 でも、悪意がないからこそ余計に扱いづらい。


「…何?」


 できるだけ平たく返す。


 女子は僕の反応を見てから、少しだけほっとしたように言った。


「今度の課題のことなんだけど」


「課題?」


「うん。昨日、先生が言ってたやつ。ちょっと分からないとこあって」


 それ自体は、別におかしくない話だ。

 相談されることだってある。

 でも、その声の柔らかさとか、目の合わせ方とか、距離の詰め方とか、そういう全部が“課題だけ”の温度ではなかった。


 たぶん本人も完全に意識してはいない。

 でも、確実に何かが混ざっている。


 僕は一瞬だけ返事に迷った。


 ここで課題の話なら、と受けてもいいのかもしれない。

 実際、断るほどのことではない気もする。

 でも、その“断るほどじゃない”を積み重ねてきた結果が今までの僕だ。


 嫌われたくない。

 感じ悪くしたくない。

 でも、それを優先したらまた同じになる。


「…今はやめとく」


 少しだけ間を置いて、そう言った。


 女子の表情が一瞬止まる。

 でも、昨日みたいに大きく傷ついた顔にはならなかった。


「え、あ…」


「ごめん。今、長く話したくなくて」


 その一言は、昨日より少しだけましに言えた気がした。

 相手が悪いわけではなく、自分の今の状態の話として返せたからだ。


 女子は少しだけ戸惑いながらも、すぐに頷いた。


「そっか。分かった」


「うん」


「じゃあ、また時間あるときに」


 その“また”に、胸の奥がまた小さく冷える。


 また。

 そこを否定すべきか、一瞬だけ迷った。


 迷って、何も言えなかった。


 女子は軽く手を振って、自分の席へ戻っていく。


 僕はその背中を見ながら、机の上の指先をじっと見つめた。


 またやった、と思う。


 昨日までみたいに全部を曖昧にしたわけじゃない。

 前よりはちゃんと断った。

 でも、最後の“また”をそのまま通してしまった。


 その余白が、結局また何かをつなぐ。


「…前よりはいいけど」


 横から、ぼそっと声がした。


 見ると、ひよりが少し呆れた顔でこっちを見ていた。


「見てたの?」


「見える位置にいたからね」


 平然と返される。


 ひよりは椅子を少しだけ引いて、僕の机の横に半分だけ体を向けた。


「前よりはいいよ」


「…前より“は”ね」


「うん、前より“は”」


 あっさり認める。


「何がだめだった?」


「最後」


 即答だった。


「“また時間あるときに”って言われたでしょ」


「いや、あれは向こうが勝手に」


「その先」


 ひよりが、容赦なく言葉を切る。


「そこをそのまま通したじゃん」


 返す言葉が、一瞬止まる。


 たしかにそうだった。

 “また”を否定しなかった。

 だから、向こうの中ではまだ終わっていない可能性がある。


「…全部その場で断るの、難しくない?」


「難しいよ」


 ひよりはあっさり頷いた。


「でも、難しいからってそのままにしたら、また残る」


「……」


「凪くん、断るときほど最後に少しだけやわらかくするよね」


 それは、昨日も言われたことだった。


 でも今日は、昨日よりもっと具体的に分かる。

 僕はさっき、たしかに最後のところで逃がした。


「嫌われたくないの?」


「…まあ」


「だよね」


 ひよりは小さく息を吐く。


「それ、たぶん相手のためじゃないよ」


「分かってる」


 思ったより先に言葉が出た。

 少しだけ強くなったかもしれない。


「分かってるよ、そのくらい」


 ひよりは少し目を丸くする。

 でもすぐにやわらいだ。


「そっか」


「昨日も言われたし」


「誰に?」


「いろいろ」


 ひよりはそこで少しだけ苦笑する。


「まあ、言われるよね」


「笑わないでよ」


「笑ってないよ。ちょっとだけ安心しただけ」


「安心?」


「うん。ちゃんと分かってるなら、まだ大丈夫かなって」


 その言い方が、少しだけ救いになる。

 けれど、救われたくなる自分にもまた、別の意味で嫌気がさした。


「…でも、分かってても、できてない」


「うん」


「じゃあ意味ないじゃん」


「そんなことない」


 ひよりは、今度はきっぱり言った。


「分かってないでやるのと、分かってて失敗するのは全然違う」


「そうかな」


「そうだよ」


 そこで少しだけ声を落とす。


「ただ、分かってるのに同じこと続けたら、それはもう“そういう人”になるけど」


 背筋が少し伸びる。


 その言い方は、ひよりらしかった。

 甘やかしすぎない。

 でも、ちゃんと今の位置を見てくれている。


「…厳しいね」


「今さら?」


「今さらだね」


 少しだけ笑う。

 ひよりも、つられるみたいに口元をゆるめた。


 でも、その空気は長く続かない。


 チャイムが鳴って、朝のホームルームが始まる。

 ひよりは「またあとで」とだけ言って席へ戻った。


 僕は前を向く。

 黒板。

 担任。

 教室のざわめき。


 全部いつも通りのはずなのに、頭の中ではさっきの“また時間あるときに”が何度も繰り返されていた。


 断ったはずなのに、終わっていない。


 そんな感覚が、朝からずっと胸のどこかに残っている。


 ◇


 一限と二限の間の休み時間。


 僕は席に座ったまま、あまり周りを見ないようにしていた。

 見ると疲れる。

 見なくても視線は感じる。

 その中途半端さが、一番気持ち悪い。


 机の上に広げたノートへ視線を落とす。

 でも、内容はほとんど頭に入ってこなかった。


 そのとき、机の横にまた影が落ちた。


「東條くん」


 声で、さっきの子だと分かった。


 思わず心の中で舌打ちしそうになる。

 いや、相手が悪いんじゃない。

 悪いんじゃないけど、さっきの“また”が、こういう形で戻ってくるのが想像より早かった。


「…何?」


 顔を上げる。


 女子は、今度は少しだけ距離を取って立っていた。

 さっきの反応で学んだのだろうか。

 その慎重さが、余計に生々しい。


「さっきはごめんね」


「え?」


「今、長く話したくないって言ってたのに」


「ああ…」


「だから、本当に一言だけ」


 本当に一言だけ。

 そうやってさらに単位を小さくしてくる。


 少しずつ。

 断れないように。

 断りにくい形で。

 それを本人がどこまで意識しているかは分からない。

 でも、少なくとも結果としてはそうなっている。


「課題のプリント、今日出すんだっけ?」


 それだけだった。


 たしかにそれだけなら、本当にただの確認かもしれない。


「…来週だよ」


「そっか、ありがとう」


 女子はほっとしたように笑った。

 それだけなら終わる。

 終わるはずだった。


 でも、そのあとに小さく付け足した。


「また分かんないとこあったら聞いていい?」


 胸の奥が、すっと冷える。


 また、だ。


 結局そこへ戻る。


 僕は言葉に詰まる。

 その数秒で、相手の表情が少しだけ崩れるのが分かる。

 期待と不安が混ざった顔。


 そういう顔を見ると、どうしても強くは言えなくなる。

 それがまさに、今までの僕の悪いところだと分かっているのに。


「…内容による」


 出てきた言葉は、それだった。


 言った瞬間、自分で分かった。

 だめだ。

 それは断っていない。


 女子の顔が明るくなる。


「そっか。じゃあまた聞くね」


 軽く手を振って、今度こそ去っていく。


 僕は動けなかった。


 内容による。

 そんなの、いくらでも解釈できる。

 課題のことならいい。

 タイミング次第ならいい。

 可能性は残っている。


 完全に断ることから、また逃げた。


「…凪くん」


 横からの声が、今度は少し低かった。


 ひよりだ。


 僕は顔を上げるのが怖くて、少し遅れて視線を向けた。


 ひよりは、今朝より明らかに呆れた顔をしていた。


「何やってるの」


「…分かってる」


「分かってないからそうなるんでしょ」


「分かってるけど、できなかったんだよ」


 思わず声が強くなる。


 教室の端のざわめきが一瞬だけ遠くなる。

 ひよりはそこで、少しだけ息を止めたように見えた。


 怒ったかもしれない。

 そう思ったけれど、ひよりは静かに言った。


「うん。できなかったんだね」


 その返し方が、逆に痛かった。


 怒られるよりきつい。


「…ごめん」


「私に謝られても困るよ」


「それはそうだけど」


「でも、凪くん」


 ひよりは少しだけ声を落とす。


「今の、“優しくした”んじゃないからね」


「……」


「ただ、断れなかっただけ」


 その一言で、胸のど真ん中をまっすぐ押された気がした。


 優しくしたんじゃない。

 断れなかっただけ。


 たしかにそうだ。


 相手のために考えた言葉じゃない。

 自分がその場で悪者にならないための、逃げの返事だった。


 しかも、そうやって逃げたぶんだけ、あとで相手にまた期待を持たせる。


 ひどい。

 分かりやすく、ひどい。


 僕は机の上に目を落とした。


「…難しいよ」


 かすれた声が出る。


「うん」


「断るのも、ちゃんとするのも、今までそんなこと考えなくてよかったから」


「うん」


「相手が傷つく顔を見るの、やっぱり嫌だし」


「うん」


「でも、そのたびに少し残したら、もっとだめなんだろ」


 ようやくそこまで言うと、ひよりは小さく息を吐いた。


「そうだね」


 否定しない。


「難しいよ。すぐ上手くできるわけない」


「…じゃあ」


「でも」


 ひよりはそこで、きっぱり区切った。


「難しいことと、やらなくていいことは別でしょ」


 何も言えなくなる。


 その通りだからだ。


 難しい。

 でも、それで済ませていたら、また同じことを繰り返す。


 教室の窓から入る風が、ノートの端を少しだけめくった。

 そのかすかな音まで、今は妙に大きく聞こえる。


「…前よりはいいよ」


 ひよりが、少しだけやわらかく言う。


「本当に?」


「うん。前の凪くんなら、今のやりとり全部もっと感じよくしてた」


 それは、たしかにそうだった。


「でも、今は途中で迷ってる」


「迷うのって、いいことなの?」


「少なくとも、前よりは」


 ひよりは少しだけ肩をすくめた。


「ただ、迷ってるだけじゃ意味ないから」


 そこは容赦がない。


「次は、もう少しちゃんと断って」


「…うん」


「“また”を残さないで」


「うん」


「嫌われたくなくても」


 その言葉に、僕はようやく顔を上げた。


 ひよりは、僕をまっすぐ見ていた。


「嫌われたくなくても、そこは逃げないで」


 チャイムが鳴る。


 次の授業が始まる音だった。


 ひよりはそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。

 僕はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


 断ったはずなのに、終わらない。


 でもそれは、相手がしつこいからじゃない。

 僕が自分で終わらせきれていないからだ。


 そのことだけは、今朝だけでももう十分すぎるくらい分かった。


 そしてたぶん、分かっただけではまだ足りない。


 次に同じことが来たとき。

 そのときに変えられるかどうかが、今の僕には必要なんだろう。


 そう思いながらも、胸のどこかではまだ小さく怯えていた。


 ちゃんと断る、ということは、

 ちゃんと嫌われる覚悟を持つことに少し似ている。


 今までの僕は、その覚悟をずっと後回しにしてきた。


 だから、まだ怖い。


 それでも。


 少なくとももう、昨日までみたいに“何となく優しくしていれば何とかなる”とは思えなくなっていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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