「断ったはずなのに...」
翌朝、目が覚めた瞬間に、少しだけ気分が重かった。
眠れなかったわけじゃない。
夜中に何度も起きたわけでもない。
体はちゃんと休めたはずなのに、胸のあたりだけが薄く重い。
枕元のスマホを見る。
新しい通知は増えていなかった。
昨日返さなかったメッセージは、そのまま残っている。
それを見た瞬間、少しだけ安心して、同じくらい居心地が悪くなる。
何も起きていない。
でも、何も終わってもいない。
その曖昧さが、今の僕には嫌だった。
制服に着替えながら、昨日ひよりに言われたことを思い出す。
――最後に少しだけ逃がす。
――嫌われたくないのが、最後に出る。
その通りだと思う。
思うからこそ、今日こそはもう少しちゃんとしよう、とも思っていた。
ちゃんと。
その言葉の中身はまだ曖昧だ。
でも少なくとも、誰にでも同じように笑って、同じように余白を残すのはやめよう。
それだけは、起きた瞬間から決めていた。
◇
登校途中の空気は、昨日までと少し違っていた。
誰かが大きな声で何かを言うわけじゃない。
露骨に囲まれることもない。
それなのに、視線だけが慎重に近づいてくる。
駅前の横断歩道。
改札前の人の流れ。
校門までの坂道。
女子たちの目が、前よりほんの少しだけ遠慮がちになっている。
でも、興味がなくなったわけではない。
むしろ逆だった。
(…見られてる)
それは“気になる男子を見ている”だけの視線じゃない。
“どう近づけばいいか探っている”目だ。
たぶん昨日のことは、もう小さく広がっている。
僕がどう断ったか。
どこまでなら応じるのか。
どういう言い方なら拒絶されにくいのか。
そんなふうに整理されるのは、正直かなり気持ち悪い。
でも、だからといって知らないふりはもうできなかった。
校門をくぐる。
何人かと目が合う。
前みたいに勢いよく手を振ってくる子はいない。
代わりに、小さく会釈をして、僕の反応を待つような間がある。
「…おはよう」
とりあえずそれだけ返す。
相手は少し嬉しそうに笑って、それ以上は近づいてこなかった。
たったそれだけなのに、どっと疲れる。
何を返せばいいのか。
どこまで返せば意味がつかないのか。
たぶんその計算を、僕はこれから毎回しなければいけない。
教室に入ると、空気はさらに分かりやすかった。
ざわつきはある。
でも、そのざわつきの一部がこっちを向いている。
昨日までみたいな熱っぽさではない。
もう少し静かで、慎重で、試すような温度だった。
「おはよう、凪くん」
席に向かう途中、クラスメイトの女子に声をかけられる。
同じクラスで、そこそこ話したことはある。
でも、特別近いわけではない。
「おはよう」
短く返す。
その子は、一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。
僕の反応を測ったのか、それともタイミングを見たのかは分からない。
ただ、その“探り”に、昨日までよりはっきり気づけるようになっている自分がいた。
自席に座る。
鞄を置く。
教科書を出す。
普通の朝だ。
そう思おうとするたびに、普通じゃない部分ばかりが浮かび上がる。
「凪くん」
また声がした。
今度は、さっきとは別の女子だった。
彼女は僕の机の横まで来ると、少しだけ身をかがめる。
「今、少しだけいい?」
その“少しだけ”という言い方に、胸の奥が小さくざわつく。
前なら気にならなかったはずだ。
でも今は、それがすごくよく分かる。
少しだけ。
長くじゃない。
重くもない。
だから受け入れても大丈夫でしょう、という形。
実際、そこに悪意はないのだと思う。
でも、悪意がないからこそ余計に扱いづらい。
「…何?」
できるだけ平たく返す。
女子は僕の反応を見てから、少しだけほっとしたように言った。
「今度の課題のことなんだけど」
「課題?」
「うん。昨日、先生が言ってたやつ。ちょっと分からないとこあって」
それ自体は、別におかしくない話だ。
相談されることだってある。
でも、その声の柔らかさとか、目の合わせ方とか、距離の詰め方とか、そういう全部が“課題だけ”の温度ではなかった。
たぶん本人も完全に意識してはいない。
でも、確実に何かが混ざっている。
僕は一瞬だけ返事に迷った。
ここで課題の話なら、と受けてもいいのかもしれない。
実際、断るほどのことではない気もする。
でも、その“断るほどじゃない”を積み重ねてきた結果が今までの僕だ。
嫌われたくない。
感じ悪くしたくない。
でも、それを優先したらまた同じになる。
「…今はやめとく」
少しだけ間を置いて、そう言った。
女子の表情が一瞬止まる。
でも、昨日みたいに大きく傷ついた顔にはならなかった。
「え、あ…」
「ごめん。今、長く話したくなくて」
その一言は、昨日より少しだけましに言えた気がした。
相手が悪いわけではなく、自分の今の状態の話として返せたからだ。
女子は少しだけ戸惑いながらも、すぐに頷いた。
「そっか。分かった」
「うん」
「じゃあ、また時間あるときに」
その“また”に、胸の奥がまた小さく冷える。
また。
そこを否定すべきか、一瞬だけ迷った。
迷って、何も言えなかった。
女子は軽く手を振って、自分の席へ戻っていく。
僕はその背中を見ながら、机の上の指先をじっと見つめた。
またやった、と思う。
昨日までみたいに全部を曖昧にしたわけじゃない。
前よりはちゃんと断った。
でも、最後の“また”をそのまま通してしまった。
その余白が、結局また何かをつなぐ。
「…前よりはいいけど」
横から、ぼそっと声がした。
見ると、ひよりが少し呆れた顔でこっちを見ていた。
「見てたの?」
「見える位置にいたからね」
平然と返される。
ひよりは椅子を少しだけ引いて、僕の机の横に半分だけ体を向けた。
「前よりはいいよ」
「…前より“は”ね」
「うん、前より“は”」
あっさり認める。
「何がだめだった?」
「最後」
即答だった。
「“また時間あるときに”って言われたでしょ」
「いや、あれは向こうが勝手に」
「その先」
ひよりが、容赦なく言葉を切る。
「そこをそのまま通したじゃん」
返す言葉が、一瞬止まる。
たしかにそうだった。
“また”を否定しなかった。
だから、向こうの中ではまだ終わっていない可能性がある。
「…全部その場で断るの、難しくない?」
「難しいよ」
ひよりはあっさり頷いた。
「でも、難しいからってそのままにしたら、また残る」
「……」
「凪くん、断るときほど最後に少しだけやわらかくするよね」
それは、昨日も言われたことだった。
でも今日は、昨日よりもっと具体的に分かる。
僕はさっき、たしかに最後のところで逃がした。
「嫌われたくないの?」
「…まあ」
「だよね」
ひよりは小さく息を吐く。
「それ、たぶん相手のためじゃないよ」
「分かってる」
思ったより先に言葉が出た。
少しだけ強くなったかもしれない。
「分かってるよ、そのくらい」
ひよりは少し目を丸くする。
でもすぐにやわらいだ。
「そっか」
「昨日も言われたし」
「誰に?」
「いろいろ」
ひよりはそこで少しだけ苦笑する。
「まあ、言われるよね」
「笑わないでよ」
「笑ってないよ。ちょっとだけ安心しただけ」
「安心?」
「うん。ちゃんと分かってるなら、まだ大丈夫かなって」
その言い方が、少しだけ救いになる。
けれど、救われたくなる自分にもまた、別の意味で嫌気がさした。
「…でも、分かってても、できてない」
「うん」
「じゃあ意味ないじゃん」
「そんなことない」
ひよりは、今度はきっぱり言った。
「分かってないでやるのと、分かってて失敗するのは全然違う」
「そうかな」
「そうだよ」
そこで少しだけ声を落とす。
「ただ、分かってるのに同じこと続けたら、それはもう“そういう人”になるけど」
背筋が少し伸びる。
その言い方は、ひよりらしかった。
甘やかしすぎない。
でも、ちゃんと今の位置を見てくれている。
「…厳しいね」
「今さら?」
「今さらだね」
少しだけ笑う。
ひよりも、つられるみたいに口元をゆるめた。
でも、その空気は長く続かない。
チャイムが鳴って、朝のホームルームが始まる。
ひよりは「またあとで」とだけ言って席へ戻った。
僕は前を向く。
黒板。
担任。
教室のざわめき。
全部いつも通りのはずなのに、頭の中ではさっきの“また時間あるときに”が何度も繰り返されていた。
断ったはずなのに、終わっていない。
そんな感覚が、朝からずっと胸のどこかに残っている。
◇
一限と二限の間の休み時間。
僕は席に座ったまま、あまり周りを見ないようにしていた。
見ると疲れる。
見なくても視線は感じる。
その中途半端さが、一番気持ち悪い。
机の上に広げたノートへ視線を落とす。
でも、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
そのとき、机の横にまた影が落ちた。
「東條くん」
声で、さっきの子だと分かった。
思わず心の中で舌打ちしそうになる。
いや、相手が悪いんじゃない。
悪いんじゃないけど、さっきの“また”が、こういう形で戻ってくるのが想像より早かった。
「…何?」
顔を上げる。
女子は、今度は少しだけ距離を取って立っていた。
さっきの反応で学んだのだろうか。
その慎重さが、余計に生々しい。
「さっきはごめんね」
「え?」
「今、長く話したくないって言ってたのに」
「ああ…」
「だから、本当に一言だけ」
本当に一言だけ。
そうやってさらに単位を小さくしてくる。
少しずつ。
断れないように。
断りにくい形で。
それを本人がどこまで意識しているかは分からない。
でも、少なくとも結果としてはそうなっている。
「課題のプリント、今日出すんだっけ?」
それだけだった。
たしかにそれだけなら、本当にただの確認かもしれない。
「…来週だよ」
「そっか、ありがとう」
女子はほっとしたように笑った。
それだけなら終わる。
終わるはずだった。
でも、そのあとに小さく付け足した。
「また分かんないとこあったら聞いていい?」
胸の奥が、すっと冷える。
また、だ。
結局そこへ戻る。
僕は言葉に詰まる。
その数秒で、相手の表情が少しだけ崩れるのが分かる。
期待と不安が混ざった顔。
そういう顔を見ると、どうしても強くは言えなくなる。
それがまさに、今までの僕の悪いところだと分かっているのに。
「…内容による」
出てきた言葉は、それだった。
言った瞬間、自分で分かった。
だめだ。
それは断っていない。
女子の顔が明るくなる。
「そっか。じゃあまた聞くね」
軽く手を振って、今度こそ去っていく。
僕は動けなかった。
内容による。
そんなの、いくらでも解釈できる。
課題のことならいい。
タイミング次第ならいい。
可能性は残っている。
完全に断ることから、また逃げた。
「…凪くん」
横からの声が、今度は少し低かった。
ひよりだ。
僕は顔を上げるのが怖くて、少し遅れて視線を向けた。
ひよりは、今朝より明らかに呆れた顔をしていた。
「何やってるの」
「…分かってる」
「分かってないからそうなるんでしょ」
「分かってるけど、できなかったんだよ」
思わず声が強くなる。
教室の端のざわめきが一瞬だけ遠くなる。
ひよりはそこで、少しだけ息を止めたように見えた。
怒ったかもしれない。
そう思ったけれど、ひよりは静かに言った。
「うん。できなかったんだね」
その返し方が、逆に痛かった。
怒られるよりきつい。
「…ごめん」
「私に謝られても困るよ」
「それはそうだけど」
「でも、凪くん」
ひよりは少しだけ声を落とす。
「今の、“優しくした”んじゃないからね」
「……」
「ただ、断れなかっただけ」
その一言で、胸のど真ん中をまっすぐ押された気がした。
優しくしたんじゃない。
断れなかっただけ。
たしかにそうだ。
相手のために考えた言葉じゃない。
自分がその場で悪者にならないための、逃げの返事だった。
しかも、そうやって逃げたぶんだけ、あとで相手にまた期待を持たせる。
ひどい。
分かりやすく、ひどい。
僕は机の上に目を落とした。
「…難しいよ」
かすれた声が出る。
「うん」
「断るのも、ちゃんとするのも、今までそんなこと考えなくてよかったから」
「うん」
「相手が傷つく顔を見るの、やっぱり嫌だし」
「うん」
「でも、そのたびに少し残したら、もっとだめなんだろ」
ようやくそこまで言うと、ひよりは小さく息を吐いた。
「そうだね」
否定しない。
「難しいよ。すぐ上手くできるわけない」
「…じゃあ」
「でも」
ひよりはそこで、きっぱり区切った。
「難しいことと、やらなくていいことは別でしょ」
何も言えなくなる。
その通りだからだ。
難しい。
でも、それで済ませていたら、また同じことを繰り返す。
教室の窓から入る風が、ノートの端を少しだけめくった。
そのかすかな音まで、今は妙に大きく聞こえる。
「…前よりはいいよ」
ひよりが、少しだけやわらかく言う。
「本当に?」
「うん。前の凪くんなら、今のやりとり全部もっと感じよくしてた」
それは、たしかにそうだった。
「でも、今は途中で迷ってる」
「迷うのって、いいことなの?」
「少なくとも、前よりは」
ひよりは少しだけ肩をすくめた。
「ただ、迷ってるだけじゃ意味ないから」
そこは容赦がない。
「次は、もう少しちゃんと断って」
「…うん」
「“また”を残さないで」
「うん」
「嫌われたくなくても」
その言葉に、僕はようやく顔を上げた。
ひよりは、僕をまっすぐ見ていた。
「嫌われたくなくても、そこは逃げないで」
チャイムが鳴る。
次の授業が始まる音だった。
ひよりはそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていく。
僕はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
断ったはずなのに、終わらない。
でもそれは、相手がしつこいからじゃない。
僕が自分で終わらせきれていないからだ。
そのことだけは、今朝だけでももう十分すぎるくらい分かった。
そしてたぶん、分かっただけではまだ足りない。
次に同じことが来たとき。
そのときに変えられるかどうかが、今の僕には必要なんだろう。
そう思いながらも、胸のどこかではまだ小さく怯えていた。
ちゃんと断る、ということは、
ちゃんと嫌われる覚悟を持つことに少し似ている。
今までの僕は、その覚悟をずっと後回しにしてきた。
だから、まだ怖い。
それでも。
少なくとももう、昨日までみたいに“何となく優しくしていれば何とかなる”とは思えなくなっていた。
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