プロローグ 「昨日までの僕は」
夜の部屋は、昼よりも正直だ。
学校にいるあいだは、視線とか、会話とか、その場その場で返す言葉とか、そういうもので頭が埋まっている。
誰かに何かを言われれば、それに反応しなきゃいけない。
笑われれば笑い返すし、話しかけられれば聞く。
そうやって一つずつ処理しているうちは、まだ“考えないまま”でいられる。
でも、夜は違う。
一人になる。
音が減る。
周りに人がいなくなる。
そうすると、昼のあいだ外側に散っていたものが、全部まとめて自分の中へ戻ってくる。
机の上に置いたスマホが、やけに目についた。
画面は暗い。
けれど、そこに触れれば、まだ返していないものがいくつも残っていることを僕は知っている。
ベッドに腰かけたまま、しばらく動かなかった。
制服のシャツのボタンを一つ外しただけで、着替える気にもなれない。
部屋の中は静かだ。
静かなはずなのに、頭の中は昼よりずっと落ち着かない。
少し前までなら、こんなふうには迷わなかったと思う。
通知が来たら見る。
見たら返す。
すぐに返せなくても、少し時間を置いて、ちゃんと感じのいい文を送る。
相手が不安にならないように。
気まずくならないように。
できれば、少しだけ嬉しくなるように。
それが、たぶん僕の“いつものやり方”だった。
スマホに手を伸ばす。
持ち上げる。
画面をつける。
未読は増えていなかった。
でも、昨日から返していないメッセージがそのまま残っている。
紗奈。
美優。
七海。
名前を見ただけで、それぞれの顔が頭に浮かぶ。
話すときの距離感とか、笑い方とか、僕の返事を待っているときの目とか、そういう細かいところまで、嫌になるくらい思い出せる。
指先が、返信欄の上で止まる。
少しだけ、返したくなる。
大丈夫。
ごめん。
また今度。
そのくらいなら、打てる。
打てるし、たぶん相手も安心する。
気まずくもならない。
ちゃんと終わらなくて済む。
――終わらなくて済む。
そこまで考えて、僕は小さく息を吐いた。
「…だめだな」
言葉にすると、余計にはっきりする。
僕はまだ、なくしたくないんだと思う。
向けられる好意を。
待たれることを。
残念がられることを。
少しだけ特別みたいに見られることを。
それが、嬉しかったから。
誰かに名前を呼ばれて、
会いたかったと言われて、
返事を待っていると伝えられて、
自分が“選ばれる側”にいるのだと感じる瞬間が、たぶん僕はずっと好きだった。
そんなこと、認めたくないのに。
でも、今日いろんな人に言われた言葉を思い返すと、もうごまかしきれなかった。
――求められるのが嬉しいんだよね。
――誰にでも優しいのは、一番ずるい。
――自分が受け取りたいものの名前くらい、自分でつけなよ。
ひよりの声。
しずくの声。
澪さんのやわらかい相づち。
ひとえの逃がしてくれない言い方。
違う温度の言葉なのに、全部が同じところへ落ちてくる。
僕は、好意を受け取ることに甘えていた。
誰かをちゃんと好きだったわけじゃない。
でも、好かれている自分は、なくしたくなかった。
その事実が、喉の奥にずっと引っかかっている。
画面を見下ろす。
紗奈の最後の文は、明るかった。
美優は、少し遠慮がちだ。
七海は、いつも通りやわらかい。
その違いが分かるくらいには、僕はちゃんと見ていた。
見ていたのに、そこへ返すものの中身は、たぶんいつも曖昧だった。
期待をなくさない程度に。
でも、責任を持つほどではなく。
そういう返事ばかり選んできた。
それを“優しさ”だと思いたかった。
感じがいいだけだと。
誰かを傷つけないためだと。
でも本当は違う。
相手のためだけじゃない。
むしろ、自分のための方が大きかったのかもしれない。
嫌われたくない。
がっかりされたくない。
できれば、好かれたままでいたい。
そういう気持ちの方が、ずっと強かった。
スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。
返したい。
でも、返したらまた同じことになる。
返信一つで、何かが決まるわけじゃない。
でも、決まらないからこそ続いてしまう。
少しのやさしさ。
少しの間。
少しの期待。
今の僕に必要なのは、たぶんそういうものを残さないことだ。
分かっている。
分かっているのに、指はまだ画面の上にある。
「…ほんと、情けないな」
前なら、もっと簡単に気持ちよくなれた。
好かれることを、まっすぐ嬉しいと思えた。
その裏に何があるかなんて、ちゃんと考えなくてよかった。
でも今は、もうそれができない。
知ってしまったからだ。
少し優しくするだけで、
相手にとっては軽くないことがある。
曖昧に笑うだけで、
相手は“まだ大丈夫”だと思うことがある。
僕が何となく残してきた間は、誰かにとっては本気の希望だったのかもしれない。
そう考えると、もう前みたいには返せなかった。
スマホをゆっくり伏せる。
机の上に置いたあとも、しばらくそのまま視線を落としていた。
返さない。
今は、返さない。
それが誠実なのか、ただの先送りなのかは分からない。
でも少なくとも、今までと同じように甘い返事を打つよりはましな気がした。
少しだけ、肩の力が抜ける。
けれど、そのかわり胸の奥には、別の重さが残った。
なくしたくない。
それでも返さない。
その両方を同時に抱えている自分が、妙にみっともなく感じる。
ベッドにゆっくりと倒れ込む。
天井は白くて、何も答えてくれない。
「…普通に好きになりたい」
小さく口に出す。
その言葉だけは、昼よりも夜の方が本音に近かった。
普通に。
誰か一人を見て、その人のことをちゃんと好きになって、相手も同じようにこっちを見てくれて、そういう、ごく当たり前みたいなこと。
競われるみたいに好かれるんじゃなくて。
意味を読み取られすぎるんじゃなくて。
少し笑っただけで、何かを期待されるんじゃなくて。
そんなふうにじゃなく、ただ普通に。
でも、その“普通”が、この世界では驚くほど遠い。
男であることに意味がついて、その中でも自分にはさらに意味が重なって、ちょっとした態度が全部、好意や価値や危険に変わっていく。
そんな中で、普通に好きになるなんて、どうやってやればいいんだろう。
分からない。
分からないけれど、少なくとも一つだけはっきりしていることがある。
今までの僕のままじゃ、だめだ。
誰にでも少し特別みたいに笑って、誰にでも少しだけ間を残して、好かれていることだけを気持ちよく受け取る僕のままじゃ、たぶんどこにも行けない。
誰かを傷つけるし、たぶん自分もちゃんと好きになれない。
そこまで考えて、ようやく少しだけ目を閉じる。
変わりたい。
その気持ちは本物だと思う。
でも、なくしたくないものも多すぎる。
好かれること。
求められること。
名前を呼ばれること。
残念がられること。
特別だと思われること。
そういうものを全部、すぐに切り捨てられるほど、僕はまだ立派じゃない。
それでも。
「…明日から、少しだけ」
口の中だけでそう呟く。
少しだけ。
誰にでも同じように返すのはやめる。
曖昧な間を残すのも、少し減らす。
変われるところから変わる。
それしか今の僕にはできない。
たぶん、その“少しだけ”が一番危ないのに。
中途半端で、また何かを残してしまうかもしれないのに。
それでも、何もしないままよりはましだと思いたかった。
部屋は静かだった。
スマホも、もう震えない。
僕は目を閉じたまま、息をゆっくり吐いた。
昨日までの僕は、少し楽しかった。
好かれて、求められて、選ばれそうになるたびに、たしかに少しだけ気分がよかった。
でも、その楽しさの上に立ったままじゃ、たぶんどこかでまた同じ顔を見る。
傷ついた顔。
勘違いしたと分かった顔。
静かに泣く顔。
それだけは、もう見たくなかった。
だから、明日から少し変わる。
――その“少し”が、たぶん一番難しいのだとしても。
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