あの人
読んでいた本を書庫に戻すと、その横にある本が目に入った。
ノストラダムス著、諸世紀。
たぶん、この版が最も古い日本語訳だ。
この本はあの人と探したもの。
ひょっとしたら、恋愛関係になっていたかもしれないあの人と探したもの。
私は歳をとり、後悔とともに、かつての日々を思い出す。
あれは二十世紀の終わり。
大学三年の秋。
卒業後の身の振り方を考え始めた頃だった。
「結局、何もなかったね」
彼女の目は、窓から見える、色が変わりはじめたトチノキに向いている。
彼女はグラスに残ったアイスコーヒーをストローで吸い上げた。
ずずっ、という音をたてたあと、グラスをコースターの上に置く。
彼女の名は美姫ドリスコル。父親がアメリカ人だと聞いている。
その姓は大方の日本人にはなじみがないもの。だから、初対面の人に名乗ったあと、毎回毎回同じようなやりとりをすることになる。彼女にとってはうんざりする作業だ。
だから、彼女には、話しかけて来た者を睨みつけて追い払っていた時期もあったらしい。
だが、その悩みはカトリックの日本人神父が解決してくれた。
『返事も定型化すれば適当にいなせるんじゃないかな。やってみたら?』
その神父は、彼女が無駄に怒りを溜めこまないようそうアドバイスした。
しかし、彼女は神父の意図とは別の方向へ進むことを選んだ。
鬱憤を晴らす方向へと。
「日本語読みでドリスコルと呼ばれるのには違和感があるのよね。『ル』って何?『ル』って?ドリスコーと言ってもらった方がまだ良いわ」
彼女はこう言って話題を英語の発音に移す。
そして、不快度によっては攻撃に転じる。
日本の英語教員のレベルは概して低い。TOEICの平均点を見ると、中学の英語教員で560点。高校で620点。英検で言えば辛うじて二級というところ。英検二級といえば高校卒業程度、ということになっている。驚くことに、日本では大学生や社会人のレベルに達していない者たちが英語を教えているのだ。
さて、その高校卒業程度というのは平均の話だ。平均ということは、母集団の半数は平均を下回る。つまり、英語教員の多くは高校卒業程度とされる水準にさえ達していない可能性がある。その高校卒業程度の水準にさえ達していない連中に、英語を教える資格があるのだろうか。生徒の方が教員より優れていることさえあり得るのだ。
これが日本の現実。
美姫はそこを突く。
えぐる。
当然のことながら、その対応は敵を作る。美姫が相手の弱点を突けば、相手も美姫の弱点を突く。突かれるのはたいてい見た目だ。美姫は、内面的には完全な日本人であるつもりだが、見た目は父親譲りの外国人顔。それでちやほやされることもあれば、疎外されているように感じることもある。そこを突かれると、日本人社会からはじき出されたような気分にもなる。そんなとき、プライドの高い彼女は、人目につかない場所に行って独り泣くのだ。
あの日、私は研究棟の裏側でバイクのメンテをしていた。メンテと言っても、工具箱も油脂類もない場所でできるのは、車載工具を使った簡単な調整ぐらい。その程度ではあったが、休講で空いた時間を潰すには丁度よかった。
当時、私が乗っていたのは中古で買ったオフロードバイク。オフロード走行には転倒が付きもので、私はそれを想定してメンテナンスしていた。
たとえば、レバー類は転倒した時に折れないよう、ボルトはしっかりと閉めず、手で動かせる程度に留めておく。こうしておけば、転倒の衝撃を逃がせるのだ。だが、この状態、走行中の振動で緩みやすい。おまけに、当時私が乗っていたのはネジの緩みやすさに定評のあるメーカー製。しっかり整備をしておいたサイドスタンドでさえ、気づくとボルトが緩んでいる状況だったし、走行中にボルトが脱落してブレーキキャリパーがはずれたことだってある。だから、私は暇を見てはボルト類の閉まり具合を確認していた。
あの日もいつもと同じだった。
あの瞬間までは。
ミラーのボルトを締めつけていたとき、そのミラーに人影が映った。
ミラー越しに見ると、少し離れたところで女が静かに泣いている。
知っている女だ。
日本人ばなれした容姿。
染めていないのに赤茶色の髪。
極端な垂れ目なのに気が強そうに見える不思議な表情。
そして、まちがいなく父親の遺伝子を受け継いだものであろう高身長。
辛うじて身長一七五センチの私より低いものの、ヒールのある靴を履けば間違いなく逆転されるだろう。
こうした彼女の外見は、彼女のきっぱりした態度もあって、周りを威圧しているようにも感じられる。もっとも、教室ではいつも周囲に人がいるので、そういったことは先入感から来る誤解であって、孤立しているわけでもないのだろう。たぶん、私よりも友人は多いと思う。
そんな彼女がひとり泣いている。
あのときの私は声をかけるべきか迷ったが、結局、思いとどまった。
他人に見られたくないからこんなところにいるんだ。
私はそう考えた。
見られたくないのなら、見て見ぬふりをするのが親切というもの。
だが、運命を司る神の導きか、私は頬のかゆみに反応してしまった。
頬をたたいた手を見ると、そこにはたっぷり血を吸った蚊が。
ミラーに目をもどすと、彼女がこちらを見ていた。
私は慌ててミラーの方向を変える。
丁度良く締めつけたボルトが緩み、ミラーがくるっと回った。
当時の私は若かった。
状況に合わせて適切に判断する能力が身につくのはずっとあとのこと。
だから、あのときの私はフリーズしてしまったのだ。
でも、彼女はそれを許してくれなかった。
足音が近づいて来る。
そして、背後で止まった。
「あのさぁ」
美姫が口を開いた。
「ん?」
私は振り向かないまま判決を待った。
風で木の葉が揺れる音が聞こえる。
「もういい」
ちょっとした沈黙のあと、美姫はそう言って立ち去ろうとした。
このときになって私はやっと振り向いた。
彼女の後姿は助けを求めているように見えた。
だから、私は放置できなくなったのだ。
「学食でも行くか?」
それが当時の私に言える精いっぱいの言葉だった。
「望月のおごり?」
彼女のその言葉は、ものすごく理不尽な気がした。当時の私はアルバイトで生活費をかせぐ勤労学生だった。ただでさえ貧乏だったのだが、誘惑に負けて、中古であるはもののバイクに相応のカネをつぎ込んでしまっていた。そういうわけで、栄養摂取は学食にまかせ、夕食のおかずは納豆だけで済ますとか、薬味なしの最安そうめん二束でがまんするとか、かなりの貧乏生活を自分に強いていた。
――気を遣って声をかけたのに。
そんな風に考えはしたが、それを口にできるわけもなく、私は「いいよ」と言うしかなかった。頬をかきながら。
こんな感じで私たちは付き合いだした。付き合うといっても、彼氏彼女という関係ではなく、同性の友人のような形で。一歩踏み出さなかったのは私のせいだろう。最初の頃は彼女の弱みに付け込むような気がして。その後は友人関係を壊したくなくて。
見る人によっては中途半端な関係なのだろうが、私たちはよく二人ででかけるようになった。