キリスト教外典
このページで書かれているのは、ノストラダムスの予言を解釈する上で知っておいた方がよい知識です。しかし、必須ではありませんので、興味がない方は読み飛ばしてください。
かつてのヨハネの福音書には双子なるトマスという記述があった。だが、「双子なる」の部分はいつのまにか削除された。もっとも、トマスというのはアラム語で双子という意味だというから、誰かの双子である事実は隠しきれていない。ちなみに、彼のことはユダだと書かれていることもあるし、ユダ・トマスと書かれていることもある。
さて、彼は誰と双子なのか。その答えは外典にある。トマスがイエスの双子の兄弟だという記述が各所で見つかるのだ。正典から「双子なる」が削除された理由は?それはトマスがイエスの双子であっては困るからだろう。
トマスは福音書を残している。だが、その書はグノーシスに分類される。イエスの双子がグノーシス派であるというのは、正典を選んだ者たちにとって不都合極まりないはずだ。
加えて、もうひとつ面白い事実がある。先に述べたように、正典の四福音書にはQなる原典があると考えられているが、トマスの福音書は四福音書よりもQに近い書だと考えられている。
トマスの福音書がQで、そこからグノーシス要素を抜いたものが正典である、なんてことも考えられなくはない。もしもそんな真実が明らかになれば、正典を奉じる者たちの手によってイエスの教えが捻じ曲げたことが明らかになり、彼らは反キリストとして断罪されることになるだろう。
キリスト教グノーシス派。
現代ではそう呼ばれ、異端とされている。
私には、そのグノーシスこそが正当なキリスト教であるように思えてならない。新約聖書と旧約聖書を読み比べてみれば、両者の神はまったくちがう存在だと誰もが感じるはずだ。それなのに、正典を奉じる現代のキリスト教では両方とも同じ神だとされ、多くの矛盾を生み出している。
『それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』
旧約聖書 出エジプト記二十章5―6
これが旧約聖書の神。
そう、ねたむ神なのだ。キリスト教の神は仁を体現するような神であるはず。聖書を読むほどに胡散臭く感じるレベルで。両社の姿は著しく異なるように感じる。
一部では、「ねたむ」を「熱望」にするなど、かなり強引な翻訳をしているが、いずれにしても旧約聖書の神は全能の神などではなく、祟りを口にして信徒を脅すカルト宗教的な神なのだ。
自分のみを信仰するよう強要する。それはほかに神々が存在することを前提としているわけで、旧約聖書の神自らが自分は唯一神ではないと認めている、という見方もできる。
現代のキリスト教は多くの問題を抱えており、それらの問題の根本には、こうした矛盾を内包する旧約聖書を正典に含めてしまったことが一因であるように思えてならない。
私が通っていたカトリックスクールでは、中学一年のときに新約聖書が配布された。本好きの私は、配布された聖書をその年のうちに読破した。たしか、イエスがユダヤ教に関するものごとを批判する部分が何カ所もあったはずだ。それなのになぜユダヤ教の教典である旧約聖書がキリスト教の正典に含まれるのだろう。どういう経緯でそうなったのだろう。私はそこに興味がある。
一方、キリスト教グノーシス派では、旧約聖書の神ヤルダバオートは諸悪の根源。母ソフィアが誤ってつくったできそこない。ソフィアはうっかり力を与えてしまったことを思い悩むようになる。
さて、かの神はできそこないゆえに、人間を創りはしたものの動くことはなかった。ソフィアはそれを利用して、かの神から力を取り返そうとする。
『ところがアダムは長い間動けないままだった。というのは、七人の諸力も肢体の関節を整えた他の三百六十人の天使たちも、彼を立て起こすことはできなかったからである。さて、あの母親は自分の多情さからあのアルコーンに引き渡してしまう結果になった力を、もう一度取り戻したいと思った。
彼女は(中略)光の神に願い求めた。彼は聖なる決定に基づいて、アウトゲーネスと四つの光を第一のアルコーンの天使に変装させて送り出した。彼らは第一のアルコーンに助言した。しかし、それは他でもない彼の中からあの母親の力を抜き取るためであった。すなわち彼らは彼にこう言った、「あなたの中にある息をアダムの顔に吹き込みなさい。そうすればこの物は立ち上がるでしょう」。
そこで彼はアダムに自分の気息をその身体の中に吹き込んだ。するとその瞬間にアダムは動いた。すると直ちに他の諸力も妬み始めた。なぜなら、(中略)アダムの知力は彼らすべてよりも、また、プロトアルコーンよりも強大になったからである。』
ヨハネのアポクリフォン§54―56
こうした大量のグノーシス文献がナグ・ハマディで発見され、キリスト教界隈ではさまざまな動きが出た。前述の「双子なる」をはじめとするさまざまな改変は、ナグ・ハマディがきっかけになったのではないか、と私は考える。
グノーシス文献はその内容があまりにも「正典」とかけ離れているので、歴史的な価値は認められても偽書という扱いにしかならない。その偽書だという宣伝は行き届いており、多くの人は読んで見ようともしないだろう。でも、もしもそれを読んだなら、正典こそが偽書だ、と考える萌芽が生まれるに違いない。
『ソフィアの考えは無為のままでいることができなかった。彼女の業が現れ出た。それは不完全で醜悪な外貌をしていた。というのも彼女は伴侶なしにそれを作り出したからである。そしてそれは母親の姿に似ていなかった。母親とは異なる形をしていたからである。そこで彼女が思案しつつ見てみると、その外貌は別の形になっていた。蛇とライオンの外貌を呈していたからである。彼の目は火のような光を放っていた。彼女はそれを自分のそばから投げ捨てた。
(中略)
彼女は彼に光の雲を巻き付けて、その雲の真ん中に玉座を置いた。それは、ゾーエーあるいは万物の母と呼び習わされる聖霊の外には誰も彼を見ることができないようにするためであった。そして、彼女は彼をヤルダバオートと名付けた。』
ヨハネのアポクリフォン§27~28
これが、グノーシス文献に書かれている旧約聖書の神の生まれた背景。
そして、グノーシスの見地では、ユダヤ教の神とキリスト教の神は同一ではない。ヨハネのアポクリフォンによれば、キリスト教の神ヤハウェは不義なる者で、ヤルダバオートがイブを犯して生まれた半神。その半神は人の姿をしておらず、顔は熊なのだ。
『彼の天使たちはそろって、彼らを楽園から追放した。彼はアダムを暗黒の闇で覆った。その時、ヤルダバオートはアダムの傍らに若い女が立っているのを見た。彼は愚かな思いでいっぱいになり、彼女から自分の子孫を生じさせようと欲した。彼は彼女を辱しめ、一番目の息子を、続いて同じように二番目の息子をもうけた。すなわち、熊の顔をしたヤウェ(ヤハウェ)と猫の顔付きをしたエローイムである。その一方は義なる者であるが、他方は不義なる者である。エローイムが義なる者、ヤウェが不義なる者である。』
ヨハネのアポクリフォン§67~69
すでに述べたように、キリスト教の正典は、実際のところ、誰が書いたものかさえわからないもの。オリジナルから編集した著者が信頼できる人物かどうかわからない。何らかの意図が仕込まれていないと断言はできない。では、ほかのキリスト教文献から正典を選び直したらどうなるだろう。現正典以外から選ぶなら、先のようなグノーシス文献ばかりが候補に挙がるのではなかろうか。
外典の中にはグノーシスではないものも存在する。しかし、それらは自己顕示欲が異様に強い自伝のようになっていたり、ユダヤ教のカラーが異様に強かったりで信頼に値するとは思えない。たとえば、ヨハネ行伝は、ヨハネが無暗に人々の命を奪って生き返らせるという奇蹟の乱発を行い、恐怖で縛って信者を集めているかのような内容だ。パウロの黙示録は、パウロが天界に行ってモーセをはじめとする旧約聖書の義人たちに会い、彼らがユダヤ人の行為を嘆き悲しんでいるのを描写する。つまり。ただの反ユダヤプロパガンダと言っても良さそうな内容なのだ。結局、新たな正典候補となり得る選択肢は限られている。
『そして、万物の更新と共にキリストを賞め讃える者たちの王国が到来するまで、彼らは偽りを宣べ伝える人間たち――すなわち、あなたの後継者たち――を賞め讃え、また彼らは死人の名前に固執するだろう。それによって自分は清くなる、と彼らは考えるのである。しかし、彼らはますます汚れるであろう。そして彼らは迷いの名へ、また悪しき術策を弄する者へ、そして多くのかたちを持つ教説の手中へと陥るであろう。こうして彼らは異端によって支配されるのである。』
ペトロの黙示録
イエスの教えが改竄される気配は十二使徒の生きている時代から存在していたようだ。都合の悪いことは隠される、あるいは改変される。だが、ペトロの黙示録によると、時が来れば異端に支配された現代のキリスト教は終わりを迎える。ノストラダムスが予言に隠したメッセージのように。