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キリスト教を思う

 私はノストラダムスにとり憑かれている。

 そうなったのは、あの人との思い出が理由だろう。

 あれからずいぶん年月が経ったが、私の心はいまだにあの人を求めている。

 だから、彼女と探したあの本――諸世紀を手放すことができない。

 私は、深く深く彼の予言にのめりこんでいく。

 1999年7の月?

 馬鹿なことを。

 あれは予言の真実を知られたくない者たちによる情報操作だ。

 そもそも「7の月」なんてどこにも書かれていない。

 彼の予言にはキリスト教的な思想がにじみ出ている。

 同時に、当時の/現代のキリスト教に批判的と思える部分も散見される。

 彼は自分の予言のなかにメッセージを盛り込んでいる。

 キリスト教を捻じ曲げた人たちが第一の反キリストであると。

 第二の反キリストという国々の盛衰についても言及されている。

 そして、それらの謎は――


 私はかつて中高一貫のカトリックスクールに通っていた。

 当時の校長は外国人神父。

 日本文化のことをきちんと理解した、穏やかで尊敬できる人だった。

 それがいけなかったのか、ある日、彼は失脚した。

 そして、代わりの神父が校長として派遣されて来る。

 新しい校長は太った白人。

 まえの校長とは雰囲気も体形も正反対。

 その新しい校長の最初のスピーチは衝撃的だった。

 当時の私が抱いていたキリスト教のイメージとはまったく逆。

 それは排他的かつ攻撃的なスピーチだった。

「悪い友達と付き合うな」

 彼は開口一番そう言った。

 演台に立って怒鳴る彼の姿は、生徒のみならず教員まで唖然とさせた。

 キリスト教なら道を誤った友達が立ち直るよう働きかけろと言うべきではないのか。

 当時の私はそう思った。

 宗教の時間を担当する日本人神父たちは、そんなふうに言うお花畑の住人達だったから。

 おまけに――

 彼の言う悪い友達とは、ドラッグを常用する者たちのこと。

 あの古き時代、日本の中学生高校生に、そんな者たちがどれほどいただろう。

 そもそも、あの学園に通うのはお上品な家庭の子女ばかり。

 あの日のできごとは、お花畑に突然怪獣が現れたようなものだった。

 私たちは唖然としてただ立ち尽くすだけ。

 まだ肌寒い春の日、朝礼の場は冬に後戻りしていた。

 そして――

 かの校長は私たちの信頼を失う行為を重ねる。

 あの学園では、登下校時には挨拶を交わす、というのが校訓であった。

 だが、かの校長は男子生徒を完全に無視した。

 一方で、女子生徒からの挨拶には愛想よく応える。

 相手の性別次第で見せる表情が露骨に異なっていた。

 当時の私には、彼の目付きがいやらしいものに見えた。

 たぶん、それは間違っていない。

 人生経験を積んだ、いまの私でもそう思うのだ。

 そんな彼は校長であると同時にカトリックの神父。

 海外にあるカトリックのナントカという会から派遣されて来た神父。

 人格者である元校長を更迭し、その代わりに送りつけて来たのがアレなのだ。

 校長が代わらなければ、前の校長がキリスト教のイメージだったはず。

 かの校長と出会って、キリスト教を見る目が変ったのだ。

 だから――


 それは氷河のような青みがかった白色。

 アイスブルーというそうだ。

 東の出窓ではその色のカーテンが朝日を遮っている。

 薄い色で二級遮光だから、生地からわずかに光が透過する。

 それがちょうど良い目覚めをもたらす。

――ああ、まただ。

 夢を見た。

 昔の夢を。

 私は過去に囚われている。

 あの人との思い出に。

 あのとき抱いた罪悪感に。

 夢の中で、私は自分の中学高校時代を語っていた。

 あの人を相手に。

 自分はこうしてキリスト教に批判的になったのだと。

――ああ、胸が苦しい。

 あの人と過ごした記憶、そしてあの人を失った痛み。

 それらが私を責め苛む。

 

 夢を思い出しつつ、私は書庫に目を向ける。

 そこにはグノーシスの文献が並んでいる。

 起きだして書庫に手を伸ばす。

 手に取ったのはナグ・ハマディ文書の抄本。

 布団にもどり、枕にあごを乗せ、うつ伏せでページをめくる。

 新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書は、Qと仮称される何かをベースに書き上げられたものだという。実際には、誰が四福音書を書いたのかさえわかっていないのだ。編集には原本を取捨選択する編者の思想が反映する。編者が信頼できるかどうかが重要なのだ。それなのにあれら四福音書は正典とされている。

 一方で、外典とされる文献では、マグダラのマリアがイエスの妻であり、教団ではほかの弟子たちより高位にあるなど、正典とは全く違う内容になっている。やはり編者の思想が大きく反映しているのだ。

 勢力争いで相手を貶めることはよくあること。

 だが、その勢力争いで尊師を貶めることはあるだろうか。

 仮に、マグダラのマリアはイエスの妻ではなく、本当に売春婦であったする。では、外典でイエスの妻になっている意図は?売春婦を事実に反して尊師の妻だと言うのは尊師を貶めることにならないか。ユダについてはいささかナルシストぶりが鼻につくが、外典の著者らがイエスを敬っていることに間違いはなかろう。そんな彼らがなぜイエスを貶めるのだ。この仮定はありそうもない。

 一方で、気に入らない人物――指導者マリア――を貶める目的で売春婦扱いすることはありそうだ。夫であるイエスの死後であるのなら、尊師の機嫌を気にすることもない。イエスの妻であったという事実を抹消してしまえばイエスの名誉も守られる。こちらの見方の方がありそうに思える。

 こんな具合に考えれば、マグダラのマリアが売春婦だというのは単なる誹謗中傷で、本当はイエスの妻であり教団では指導的立場にあったと思えて来る。

 法王庁はいまだに極端な男尊女卑で、女性は高い地位に就くことができない。その事実からも、正典とは男尊女卑の観点からでっち上げられたものではないかと疑わしく思えてしまう。

――いつの時代も、この世界は女性にとって生きづらい場所なのか。

 私は、はるか昔に去ったあの人の姿を思い浮かべる。


『〔救い主〕の伴侶はマグダラのマリア〔である〕。〔しかしキリストは〕彼女を〔どの〕弟子たちよりも〔愛した〕。そして彼は、彼女の〔口〕に〔しばしば〕接吻をした。他の〔弟子たちはそのことに感情を害した〕。 (中略)彼らは彼に言った、「なぜあなたは私たちすべてよりも彼女を愛するのですか」。救い主は彼らに答えて言った、「なぜ私は彼女を〔愛する〕ようにおまえたちを愛さないのであろう」』

             ピリポによる福音書 63・32-64・5

                ※ 〔 〕内は損傷を復元した部分。


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