「なおす」が「修理する」にしか聞こえないなら
方言に興味を持ってくれる人たちにとっては、
「さっきの授業の教科書をロッカーに直してくるわ。」
と言うと、「直す」で引っかかる方がいらっしゃるというお話しはある程度有名だと思います。
この例文ですと「戻してくる」や「入れてくる」でも自然ですし、「片付けてくる」とされることが多いでしょうか。
そんな、「直す」=「修理する」に聞こえる方々にお尋ねしたいのです。
「方言を標準語に直す。」
あるいは
「標準語を方言に直す。」
というのは、「修正する」というニュアンスを含むのですか?
これは、「修正する」自体のニュアンスが違う可能性がありますので説明が難しいのですが、私が方言を標準語に"直す"とき、「修理する」に近いニュアンスは含まないのです。
それゆえに、
「さっきの授業の教科書をロッカーに直してくるわ。」
がピンと来ない方には
「方言を標準語に直す。」
というのも同様にピンと来ないのかと思っていました。
だって、「直す」=「修理する」だとしたら直された後のものの方が適切だったり、優れていたりするように聞こえてしまうのですもの。
これが、「直す」=「片付ける」なら、方言を標準語に直す場合、「置き換える」程度のニュアンスになります。
先ほどの例で、机に出していた教科書の置き場をロッカーへと変えていた様子と対応させたいのですが、いかがでしょうか?その教科書の授業中は机の上が適切な場所ですし、他の教科の授業中ならロッカーがそうでしょう。
要するに「直す」前の表現と後の表現は対等なのです。
英語もそうです。古文もそうです。
私には、「英語を和訳しなさい。」にも「古文を口語訳しなさい。」にも英語と日本語、文語と口語に優劣はありません。
しかし、「直す」=「修理する」にしか聞こえないと聞くと
それなら、方言を標準語に"修理する"って、修理される前に当たる方言は伝わらないという"欠陥がある状態"とみなされているのかなと思ってしまいました。
これは、単純な疑問文です。もしこの、「訳す」という意味での「直す」が「修正する」というニュアンスを色濃く含むのでしたら、標準語や書き言葉を強く好む方々の気持ちを今までよりも少しだけ理解できるように思うのです。
標準語に直したり、書き言葉に直したりすることを「正しい」と認識する気持ちが。
逆に、言語の種類を変えることを指す「直す」には「修正する」のニュアンスを含まないのなら、その感覚をどこで培ったのかを教えてほしいです。
私には想像がつかず、大変興味があります。長くなるようでしたらエッセイで語っていただけるとありがたいです。よろしければご一報ください。
「なおす」が「修理する」にしか聞こえないなら、「方言を標準語になおす」とき、「置き換える」以上のニュアンスがありますか?