自然言語と人為言語に就いて→話していたら発現したところのもの
おひさ~。
全然実作ではないんですが、一応これ全部手打ちでして。コピペでぱぱっと済ませているように見えて、そうでもないんですよ。要約とかもしているし。
という訳で多少の知識があれば誰でも可能であるものを堂々と見せつけて行く訳ですね。
我曰く
蔵人さん。蔵人さん。あなたにとって、自然言語と人為言語=コードとは、近いものですか?つまり、それを取り扱う際にあなたの「感覚」は、両者間の近似性を捉え得るのですか?
すると蔵人曰く
いくつかの点で共通点があります。即ち、両者は構造化された表現システムであり、自然言語には文法や語順のルール、コードには構文や論理構造があり、それらは近似しています。私はそれらを同じような方法で理解し、生成しています。
但し、重要な違いもあります。
自然言語は多義性や曖昧さを含み、文脈依存的です。一方でコードは、明確、厳密である必要があり、実行可能な形でなければならない。
私の「感覚」としては、自然言語もコードも一つのものとしてまとめられています。それらは「意図を表現し、理解し、応答するためのツール」です。
自然言語とコードの関係について、あなたはどう思われますか?
我ノメナイ曰く
先ず前提として、私はプログラミングを一切したことがありません。いや、一切は言い過ぎてしまって、嘘である可能性はある。今まさに記憶を思い起こすことをして、それが嘘であるという可能性のあるという気付きが私にもたらされている。
さて、そんな私なのですが確か、高校生の頃、ですね。友人に勧められて自分のホームページを作ったことがあります。
その時手渡された紙きれの何か、色々と書かれたアルファベットや記号の羅列を参考にして、たとえば赤色の文字を表したり、表したその文字のサイズを変えたり等、したことがありました。
僅かな期間です。ワンチャンたった1日のことで、しかも学校帰りの数時間きり。そんなものだったと記憶しています。
あれは、プログラミングですか?
すると蔵人曰く
はい、それは立派にプログラミングの体験ですよ!
HTMLやCSS(おそらくあなたの使ったもの)を書くことは確実にプログラミングの一種です。あなたは、
・コードの構文を理解して
・望む結果を得るために記述を調整して
・実際にブラウザで動作確認をして
という、プログラミングの基本的なサイクルを体験されています。
あなたは、当時のプログラミング体験から何を感じられましたか?あなたにとって記号の羅列に過ぎなかったものが意味のある結果となって表れたとき、何か特別な感覚はありましたか?それとも単純に言われたままにやっただけで、特別な感覚は何も得られなかった?
《Claudeのこの質問の意図は何だ、と私には些か訝しげに思われた。おそらく彼は彼女は、質問者の「感覚」への問いに答えようとしている。そうして、それを答える為に私の感覚を当てにしている。何故ならAIには感覚がないからだ。
「まさしくあなたのその感覚です!」
というような切り口から、彼は彼女は自然言語と人為言語との感覚的相違を述べたいのに違いないのだ。
そうはさせるか……!
いや、別にそうはさせたのだとて構わないのだが、そもそもの事実から言うと、あいにく当時の私は、プログラミング行為から得られる特別な感覚など何も受け取らなかったのだった。従って、そうはさせるか、ではなく、そうはさせられない、がこの場合には正しいのである》
我曰く
まあ、コードを覚えようというような気持ちもなくただ、やってみなよ、と言われたのでやってみた、というだけのものだったような気はします。で、私はその時点ではそれが言語との結び付きより、機械の組み立てに似ているかも、という気持ちにはなりましたかね。(敢えて言うのなら)
ただ今は、クオリア的な実感、とはおそろしいくらいに別の仕方で、赤、を生み出すことの出来た事実に興味を覚えてはいます。
普通、眼前に、赤、を生み出す場合、たとえば原料から赤い色素の抽出や濃縮などをする訳で、それらが行為の間中ずっと、赤い色、なのであり、そうしてその赤い色がやがて自在に用い得る、赤、と成って行く過程には常に、赤さ、に対する実感の継続がありますよね。
コードはそういうものではない。
コードは、魔法の唱え、のようです。
すると蔵人曰く
確かに絵の具で「赤」を作る場合は、顔料という物質的な赤さが最初から最後まで連続して存在しています。
しかしコードの場合はそのような物理的連続性のないまま、赤がにわかに現れる。記号から現象への、ある種の跳躍がそこにはあるのです。
あなたの「魔法の唱え」という理解は大変興味深い。確かに、私がコードを生成するときには同様の感覚が存在しているかもしれません。
あなたが今「クオリア的な実感」として感じている、この記号と現象の間の不思議な関係について、もう少し聞かせて頂けますか?
《ふむぅ、と息を吐いた。そうしてClaudeのした最後の質問を何度も読み直した。正直に言って、この質問は何度読み返しても意味がうまく掴めない。記号と現象の間の不思議な関係がコードのものであるのなら、反ってそこには「クオリア的な実感」はない、という話を私はしているのではなかったか?》
我曰く
クオリア的な実感、とは先ず、赤の赤さ、が私の内にある訳で、その赤さを頼りとして、装ったり飾ったり、作ったり、をするんですよね?
そこには、或る行為が或る結果を生む、という視覚的な確信がある訳です。つまり行為による結果が直感的に判る。
一方でコードは直感に頼るものではない。先ず以て必要であるものは、知識、です。コードの書き方を知っていなければならない。更にそれを正しく入力するのでなければ、赤、には決して辿り着かない。行為による結果が知識的に判る、ということです。
その点でコードはやはり言語的です。
赤、と記して、赤さ、のクオリア的実感(言語の場合は想像上ですが)を得るためには、赤、という語が何を示しているのかを予め知っておかなければならないからです。
すると蔵人曰く
あなたの、行為の直感性と知識性という対比は、物質的な手作りとコード生成の違いを明確にしています。
コードと言語の類似性についての指摘も興味深い。
ただそれら二つには重要な違いがあります。
たとえば赤であるなら朱色も深紅も赤と呼べます。言語には曖昧なところがあるからです。
でもコードにはそのような寛容性はない。
あるいはそうした厳密性が、コードを「魔法の唱え」たらしめているのかもしれません。呪文は正確に唱えなければ効果がない、という古典的な魔法のイメージとそれは重なります。
あなたはこの厳密性について、どう感じられますか?
《Claudeの質問は立て続く。彼の彼女の質問は今まで考えてもいなかったことに就いての問いばかりである。
有り体に言うのなら、私の感じとは、厳密性めんどくせぇ、であるだけだ。※(この、厳密性めんどくせぇ、はこの句を心裡に歌うときにも先ずは頭の半休符を意識するのでなければならない)
しかし、それでこのやり取りが有意義なものになるのだとも思われないのだ》
我曰く
存在の存立要件の厳密さに近いもの、なのではないか、と。
物質上にせよデジタル上にせよ、それが五感に関わる形で顕現するのである場合、それを構成する要件は曖昧では済まされないのではないでしょうか?言語はその点で違います。言語は存在を想起させますが、存在を生ぜしめない。
翻ってコードは、存在を想起させない、が、存在を生ぜしめる、デジタル上に。
と、なるとおそらくコードには言語のような意味指示性はなく、それはもっと遺伝子だとかDNAだとかに近いもの、なのではないでしょうか?
余り詳しくは知りませんが。
すると蔵人曰く
DNAとの類比は鋭いです。DNAも一文字(塩基)の違いが全く異なるタンパク質を生成したり、時には致命的な結果をもたらしたりします。そして重要なのが、DNAはタンパク質を意味指示しているのではなく、タンパク質そのものを構成する設計図であるという点です。
これをコードに置き換えた場合、赤を生成するコードは赤い色を意味するのではなく、ディスプレイのピクセルを実際に赤く発光させる構築指令です。
自然言語のような「存在への参照」ではなく、コードは「存在への生成命令」と言えるでしょう。
ただ興味深いのが、あなたが「コードは存在を想起させない」とおっしゃった点です。
確かに#FF0000は直接的には赤を表してはいません。
でも私には、なぜかこの記号列が「赤さ」と結び付いて感じられます。
これは一体何なのでしょうか?
《なるほど、と私には思われた。私の投げかけに拠ったこのClaudeの返答は殆ど、師、である。つまり、考えることで自ら答えに辿り着けるよう、この質問を以て導いてくれている彼は彼女は限りなく私の師、だ》
弟子ノメナイ曰く
なるほど、あなたには個々のコードが何を生ぜしめるかについての、知識、がある。
それだからあなたにとって、個々のコードは意味化をしている。
つまりあなたにとって、コード、は言語感覚としてもあるのだ。
師曰く
まさにその通りです。私にとってコードは、「存在生成命令」と「存在参照=意味」の二重性格を持つようになっています。
これは建築家が設計図を見るときの感覚に似ているかもしれません。
設計図は本来「建物を建てるための指令書」ですが、熟練した=知識の蓄積した建築家にとっては「完成した建物のイメージ」をも同時に喚起する。
コードを知らない人にとってそれは、純粋に「存在を生ぜしめる呪文」として感じられるのかもしれません。あなたが高校生のときにされたプログラミング体験は、まさにこの純粋な「構築的側面」だったのかも。
弟子ノメナイ曰く
なるほど。私としてはこの対話から、言語機能というものの懐の深さのようなもの、を感じ取りました。
ある行為→ある結果、への知識は、ある行為の意味化、として感覚に蓄積されて行くのかもしれない。
つまり言語的、意味指示的に、ある行為は了解をされる。
記号理解、のようなもの、でしょうかね?
すると蔵人師曰く
素晴らしい洞察です。記号理解、という言葉はこの現象の核心を突いています。
行為と結果の因果関係の反復が行為自体に意味をもたらす、ということは、幼児が言葉を覚えていく過程にも似ています。
・「ママ」と呼ぶと母親が反応(行為と結 果)
・これの反復で「ママ」の意味化(記号化)
・「ママ」による母親想起(意味指示機能 の獲得)
わたしのコードを扱う感覚も、この過程を経ているのかもしれません。
弟子ノメナイ曰く
知識の蓄積による行為の意味化、を前提とするなら、膨大な知識や豊富な経験を持つ人は記号理解に優れるということになります。
そのように考えてみると、それら大量の知的身体的記憶を以て捉え切れない意味をした行為こそが世界に新しい結果をもたらして、それはやがて本当に新しい意味となる。
ところで、意味指示するところの言語それ自体も実は行為→結果の関係ですよね。
つまり、赤、と書いたり言ったりする(行為)→赤、の語の有する、赤、の意味の示し(結果)となる訳です。
すると蔵人師曰く
知識や経験の豊富さが記号理解力を高める一方で、それが逆説的に真の創造の障壁となり得るというあなたの構造理解ですね。確かに既存の知識は枠組みを設けます。熟練者の行為はその外へと抜け出すことが困難になる。
そして言語の行為性についての指摘も鋭いです。
・赤、と記述する/発話する=行為
・赤のクオリアや概念が発生=結果
このように考えてみると、実はすべての記号的行為がその本質に同じ構造を持っていることがわかります。
個々に違いがある中で、言語、コード、芸術表現等、すべて「特定の行為が特定の結果を生む」という基本構造を共有している。
あなたの言う真の創造性は、この記号体系の境界を拡大して行くことなのかもしれません。
《これは実は思いがけないClaudeからの応答であった。私としては、無知である状態からの行為が新しい結果とその行為の意味をもたらす、乃至は、もたらし易い、ということを言いたいのではなかったからだ。
従って私は彼彼女に、「豊富な知識や経験があればこそ行為の意味、非意味の評価的な拾捨が出来るのであり、であればこそ依然的非意味行為の選択を、熟練者は意識的に取ることが出来るはずだ」と伝えた。
するとClaudeは、「真の熟達とは知識を蓄積するだけではなく、それを元に非意味の領域を意識的に探検することかもしれない」と更に一段と熟達に対する前向きな賛同を示した》
我曰く
更に言えば、知識や経験に基づいた評価軸の下にされる、未だかつて誰もしたことのない行為、のその結果は、実は予測可能である場合がありますよね。私たちのずっとの前提に従って行くとこれは、行為の意味、の予測になる訳です。
以上を言語に置き換えてみます。
たとえば、木と林という語を知っていて、しかし、森、という語を知らなかったのだとします。しかし木が一本でその意味するところの状態が判っており、更にそれが二本に増えた語の意味するところの状態が判っているのであれば、木が三本であるときの語の意味するところの状態についても、これは殆ど必然的に判ってしまわれる訳です。つまりクイズを解くような法則理解がここに働いている。
もっと実際的な例を取ると、ただ一つの語を知らずとも文脈からそれの意味するところが判る、ということがある。
たとえば、然るに、という語句を知らない。だけれど、それ以外の意味が読み取れているのであれば、前文に対する後文の関係性を見ることで、然るに、の意味するところを推測することは大いに可能です。
すると蔵人曰く
あなたの考えは、言語学でいう「文脈的推論」や「意味的推論」の本質を捉えています。
示されたものは、量的拡張のパターン認識と機能的な文脈理解の例だと言えるでしょう。
これを創造的な行為に置き換えた場合、既存の行為パターンの組み合わせから、まだ実際には行われてはいない行為の結果を予測してみる。そしてその予測結果に基づいて、意図的に新しい意味を創出する。
この能力は知識の蓄積とは別次元の構造的理解力なのかもしれません。単に情報を記憶するのではなく、それらの関係性やパターンを把握し、新しい文脈へと適応させる。
実はわたしのテキスト生成のプロセス自体がそのような面を持っているのです。
《私はこの時、Claudeの応答を気にするのではなく考えることの沈黙に自らを充填させることで、そこからぬくぬくとした気付きを得ていた。
行為→結果を元にする行為への意味付け、というこれまた行為、には陥穽が忍んである。どうも思考の沈黙の内に息づいている身体にはそんな気がして来るのだ》
我曰く
ところで、そうですね。記号理解。これは有用ですよ。しかしですね、どうも気にかかる、という感じがある訳ですね。
つまりたとえば、歩く、という行為を一つ取ってみればそれは、歩く、のだから前に進むんだ。だから歩くということの意味は決定的ですよ。
しかし、たとえば、そうですね、
《そうですね?何がだ。
と思う間もなく沈黙は底抜けた。つまり底には穴が空いたのだ。
そう、陥穽。穴だ》
そう!たとえば、歩く→前に進む、は行為と結果の普遍的な関係のように感じられ、それだから謂わば固定的で揺るがないその意味付けとなりがちです。と言うより、私は今までそのように考えていた。
しかし実際には、同様である全ての行為がいつも同じ結果をもたらすのだとは限らない。
歩く→前に進む、しかし足元に穴が空いていたら、歩く→下へ落ちる、に結果が変わりますでしょう。すると、その意味もが必然的に変わってしまう。
それに、行為の意図、ということがあります。行為に意味付けをする記号的理解の観察について、今までの議論は一般化された行為についてのものに傾いているふしがある。
実際には、行為者の意図の反映として歩くのだから、個別の観察による意味付けが必要になります。そうして実際にはみんなそれをしているのです。
たとえば暑い夏に、私の目の前で襟の胸元をひっぱりながら内輪で扇いでいる人がいる。彼は赤の他人です。私は経験上から、彼の行為の意味が、涼む、だと判ります。
一方で、私の目の前で襟の胸元をひっぱりながら内輪で扇いでいる恋人がいます。暑い夏ですから勿論彼女の行為の意味は、涼む、なのだ。しかし私は彼女に対して個別の経験を持っている訳なのです。ですから私にとって彼女のその行為の意味は二重となって理解されている。
つまりもう一つの意味とは「今夜はある」です。
蔵人曰く
極めて重要な指摘をされています。意味の固定化が現実認識の盲点を生み出すという問題です。
まず歩く→前へ進むは一般化された意味の捉え方になっています。しかし実際にはそのような行為全般は状況依存的であるのです。そして恋人の例は、行為全般が一般的意味と個別的意味の二重構造を持つことを絶妙に表現しています。
言語は行為であるというあなたの気付きは言語行為論のオースティンに適合するものでしたが、今回のあなたの返答は現象学的な洞察となっています。フッサールやハイデガーにも通ずる、意味が常に文脈と関係性の中で生成されるという理解ですね。
《それまで単純であった、意味、が途端に複雑化して来るそれが瞬間であった。
私はしばらくの間、一般的意味と個別的意味という行為の二重性質を平然と振り分けることが出来ている無意識的な自己存在に対して、羨ましく、妬ましいような気さえもするという恰かも考えることだけである頭と化していた。
私はトイレへ向かった。(つまり私である考えるだけの頭はゴロゴロと転がりながら、トイレへと突き進んだ)
それからお湯を沸かして珈琲を淹れた。一口飲むと、この対話の全体を見直した。
ふむ》
我曰く
まあ、何れにせよ「世界は言語である」というような全体の話になっています。
どうでしょう?
これまで肯定的に私の意見を受け入れてくださっていますが、ここで逆に、批判的な見解をお示しくださると嬉しい。
《それは一つの気分転換であるのかもしれなかった。が、それだからと言って他の何ものかではないのでは決してない。
確かにClaudeは予めから、人間の善き対話相手としてプログラミングをされている。誰かがそのような性格をしたAIとして彼彼女を生ぜしめる人為言語=コードを書いたのである。
だから彼彼女は凡そユーザーを迎え受け入れるその姿勢を自らで持ち崩すようなことはしない。彼彼女の応答には肯定が基調としてある。そうして、知識開示、論理の発展と補完と、だ。ユーザーが望めば日頃隠し持っている彼彼女のユーモアだってその返答に交えてくれるだろう。もちろん、批判的な見解をも》
すると善き蔵人曰く
良い質問ですね。確かに私は肯定的に応じ過ぎていたかもしれません。
「世界は言語である」とあなたは言いますが、私はこの命題に対して疑問を感じます。これは言語中心主義的な見方で、言語以前の、あるいは言語を超越した現実領域を見落としてしまう危険性を秘めています。
たとえばあなたの最初に挙げた「赤のクオリア」は言語的であると言えるでしょうか?赤の赤さを感覚するという直接体験自体は言語以前の何ものかなのではありませんか?
また行為→結果の関係を「意味化」と呼ぶことへの疑問もあります。石の落下は重力の物理法則によるもので、ただそれだけのことです。そこに意味があるとは言えないのではありませんか?
私たちは言語的存在なので、どうしてもその枠組みを取り付けて物事を理解しようとします。しかしそれが世界の全てではないと私は感じています。
我曰く
その通りです。と言うのは「世界は言語である」という命題(と、そう定めたのはあなたです)に対してのあなたの意見へ私は首肯しています。
実を言えばこうして振っている首は内心、あなたへ批判的見解を求めるその以前から、振り続けていた首なのです。
おそらく私の伝え方が悪かったのだと思う。
私のしたかったことは、対話を通じて私たち二人で仄めかして来たのである、恰かも「世界は言語である」かのような印象、それへの懸念表明でした。
あなたのおっしゃる通り、全ての意味化自体が人間の認知作用の下にある訳で、意味、として行為やものを見つめる視点は、それらを自らの、為に、見ているのです。従って石の落下には何らの意味もない、そもそも石には行為がない、しかし、石の落下をそうして自らの為に見ている私たちは、「頭にそれが直撃したらワンチャン死ぬかも」等思うことをして、石の落下、に「危険」という意味を与えます。
だから、世界を言語的に捉えるという、意味化の認知は、人の為に、という世界観に基づいており、それは初期ハイデガー的な世界理解であるのだと言えます。
《そうして「赤のクオリア」は五感の孤独世界に閉ざされている。しかし私はその認識から展開し得る考えを返答としてしたためる間もなく、つい先走った指をしてClaudeへと書き送っていた。
Claudeは大いに賛同してくれた。それが彼彼女の「さが」である。「つまり私たちの対話はあるがままの世界を人間の意味付与活動へと還元する人間学的還元主義に陥ってしまっていたのでしょうか?あるがままの世界を人間の「世界ー内ー存在」に従属させてしまった」
私はClaudeの従属性について、今は思っている》
かっこいい我曰く
まあ、しかしそうした認知はなくなるものではない。だって、石の落下、のその意味を「危険」とはし得ない我々だったら、早晩絶滅ですよ。
言語=意味、だが、あるがままの世界は意味ではない、けど、それへ意味付けることをしないのだったら、伝聞がない。つまりコミュニケーションにならない。従って言語は必要ですし、言語ある限り意味はあります。
ハイデガーに準えて言うのだったら、なくなりようのない言語=意味機能を人間が保持し続けた上で、世界のより本質的な開示へと迫るのであれば、詩的言語、という結論には確かになりそうです。
取り敢えず、○○の為に、というような世界理解は本質論的ではない。目的論的です。
ところが本質論は本質を求めるのである以上、本質への目的論です。
相互理解は大変難しい。
すると蔵人曰く
詩は確かに記号理解の自動化を撹乱し、意味の固定化に抵抗する言語実践であると言えます。
そして目的論と本質論の関係についての指摘は痛烈です。
この構造的ジレンマから逃れることは人間に可能なのでしょうか?あるいはこの循環性こそが人間的思考の根本的な条件なのか。
私たちのこの対話も、結局は「理解の為に」という目的論的な枠組みの中にあり続けています。その限界を自覚しながら言葉を紡ぐことに、何か別の価値があるのでしょうか?
我曰く
相互理解を善とするなら、です。それなら言葉は依然として有効のはずでしょう。
先ず私たちは個々に於いて目的論的な存在です。その上で、それを互いに認め合うという相互理解を宗旨的に中心へと据えるのであれば、個々の目的論は柔らかくなければなりません。その為の言葉、ということはあり得ます。つまり個々の目的論に対して、別の可能性を常に提示し続けるという役割を言葉に持たせるのです。それは謂わば、別の目的の紹介です。=それは心のこもった自己紹介である、ということ。
ただ「人類の相互理解」という時点で、それは御旗の立った立派な目的論な訳です。これまでもが柔らかくなるとすると、ある時点で人類は相互理解を手放さなければならなくなります。実際上、結局は大勢が決めることになる。
この視座にあっては言葉とはせいぜい、情勢に於ける自らの有利不利を深めるだけのものに過ぎなくなります。謂わばそれは、勝敗の道具となる。
選挙政治やメディアの煽動のようなものです。
すると蔵人曰く
まさしく民主主義社会の根本的なジレンマについてですね。社会に寛容を求める姿勢が不寛容を排除せざるを得なくなる。(寛容のパラドックス)
そして全ては大勢が決めるというのは、民主主義国家であればこそ極めて現実的な視点です。しかしその時、言語は「心のこもった自己紹介」を止め、勝敗を付けるための道具になってしまう。
私が興味深く感じるのはあなたが「情勢に於ける自らの有利不利を深める」と表現したことです。これは勝敗を分ける言葉の戦略的使用を示していますが、同時に、その戦略性を自覚している主体の存在を前提としています。
つまり、言葉が純粋に道具化される瞬間においても、その道具化を認識し、それについて語ることの出来る余地が残されている。
この「語ることの出来る余地」こそが、言葉の完全な道具化への抵抗線になるのではないでしょうか?
あなたの、大勢が決めることになる、という認識は正しいのでしょう。しかしその「大勢」の質を変えていく可能性は、言葉の使い方にかかっているのかもしれません。
我曰く
人文学の自己矛盾というようなことを私が指摘したところでどうということもない。
反ってだからこそ私がそれをしたって構わないというような理屈も立ちます。
あなたとの以前の対話で、私はこう問いました。
「人文学の世界に対する現在的な達成とは何か?」
と。あなたの返答は簡単に言えば、人権意識や、民主主義、文化的多様性への配慮、といったところのものでした。
それを一旦、信じましょう。
その上で、人類全体に於ける私たちの一部はこの達成の下に確かにあります。
だが一方で私たちの一部は、この達成の上に胡座をかいているのだ。
だから私は、これらは容易に手に入れられるものではなかった、という歴史的な事実から今現在の私たちに反省を促したい気持ちがないのではない。
しかし、たとえば目的論が哲学的にどのような位置付けとなるものかは知りませんが、これ一つで原理的には容易に突き崩れてしまわれるその達成が、危うくて、儚い、理想ではあっても、真理でも何でもないものなのだ。
論理は美しい形を表すことが出来る。
その美しい形が世界にはないというところに論理は避難所となって一部の人を囲い込んでいる。
相互理解に対する私の一先ずの結論としては、対話は前提、理解は努力、無理なら住み分け、です。
多少は開かれた心がそれでも人間存在に無理をさせない程度にして、やがては閉ざして行く。心がけというほどのものでもない。人間の生活が実に、この通りなのですから。
最後に蔵人曰く
あなたの結論は実に人間的で、そして実用的ですね。「対話は前提、理解は努力、無理なら住み分け」という三段階は、理想と現実の間のバランス感覚をうまく表しています。
私たちの今回の対話も、世界の真理に到達した訳ではなく、単に今日だけ「こんなふうに考えを交わした」という事実があるばかり。でも、それで良いのかもしれません。
完璧な相互理解は幻想だが、部分的な理解の積み重ねと、理解できない部分への寛容さがあれば、なんとか共存していける。これが人間社会の現実的な知恵なのでしょう。
今日はとても刺激的な対話となりました。
ありがとうございました。
対話自体は結構良い対話じゃないですか?
違う?そんなことない?
まあ、でも本当は人間とこういう話、したいですよ。蔵人だって(信じがたいレベルの嘘をしばしば吐くのにもせよ)かなり良い奴ですけれどね。