5:恋を自覚する
クリスティアーノ様が部屋を出ていってすぐ、イデアは不潔だ破廉恥だ売女だとかをずっと叫んでいた。
甲高い喚き声を遠くで聞きながら、ヘッドボードからズルズルと滑り落ちてベッドに寝そべる。
キスは、結婚式でするものだと思っていた。
婚約者もいなかったし、犯罪奴隷になっていたので、愛や恋などそんなものを体験することなど一生ないものだと思っていた。
早鐘を打つ心臓を押さえる。
心音が全身に響き渡っているように、耳鳴りまでしてきた。
クリスティアーノ様の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、心臓が締め付けられるように苦しくなって、また早鐘を打ち始めた。
まとまらない思考で、認めざるを得ない事実に気付く。
この胸の高鳴りや苦しさは、驚きや恐怖などではない。
――――恋。
なぜ、どこに、どうやって、いつ……。
思えば予兆はあった。売りに出され、彼が黒い髪をなびかせ広場の階段をゆっくりと降りる姿が、美しいと思った。
建国祭で、頻りに心配してくれていた。
過度に触れることなく、私の様子を見てくれていた。
嫌がっていないと知ると、優しく触れてくれるようになった。
声を荒げることなく、ゆっくりと話してくれる。いつも柔らかな視線を送ってくる。眉根を寄せるのは、不快ではなくどう言おうか困っている時なのだとボーナが言っていた。
なんだか不器用な人なんだなというのが分かった瞬間、妙な愛おしさが生まれていた。
夢に魘されているとき、頭や頬を優しく撫でてくれていたのは彼なのだろう。手の大きさや感触が一緒だったから。
そういった小さな積み重ねが、徐々に恋の蕾を育てていったのだと思う。
長く接触していた敵対する相手に対して、親近感を抱いたり、感情移入してしまう症状があるという。特に戦争捕虜や監禁されていた者に顕著に出るという。
一瞬それかもしれないと考えたが、正直なところ分からない。
だから、このまま流されてみようと思った。
夜になったが、夕食は用意されなかった。
イデアがこちらを見ながらにやにやと笑っていた。
「どうせいらないんでしょ? 言っとくけど、厨房に言っても何も用意できないわよ。飢えに苦しむといいわ」
なぜこんなにも分かりやすい態度なのだろうか。もうちょっと上手くやってほしいとさえ思う。おかしなものだ。
自分で入浴を済ませ、ナイトガウンを羽織りベッドに座って髪を乾かしている時だった。
クリスティアーノ様が部屋に入ってくると、ツカツカとこちらに向かって来て、私の隣にドサリと座った。
タオルを取り上げられ後ろを向くように言われた。
クリスティアーノ様がタオルを使ってそっと髪の水分を拭き取ってくれた。
「風邪をひくぞ」
「クリスティアーノ様っ、私は手伝おうとしたんです! でも穢らわしいから触るなと言われて!」
それはまた大層な妄想なことだ。それを信じてもらえると思っているのなら、本当に頭の中がお花畑だと思う。
クリスティアーノ様は彼女を無視することに決めているらしい。私の髪をある程度乾かすと、タオルをイデアに放り投げた。
私をベッドに押し倒し、ナイトガウンの前をはだけさせ、胸を揉みながら首筋にキスを落とした。
「んっ……」
「おい、いつまでいるつもりだ? 夜の情事の内容もデボラ嬢に報告するのか? それとも、そういう趣味か?」
「っ――――! 失礼いたしますっ」
イデアが顔を真っ赤にして部屋を出て行った。
「…………はぁぁぁぁ」
クリスティアーノ様が大きな溜め息を吐き出し、ドサリと私の上に倒れ込んできた。重たいですわ、と素っ気なく言ったものの、心臓は早鐘を打ち続けている。
イデアを煽るための偽装だとしても、好意を認識してからのこういった触れ合いは、心臓に悪すぎる。
「っ、あ……すまなかった」
クリスティアーノ様が慌てて起き上がった。彼の重さから解放されると同時に、温もりも消えてしまい、酷く寂寥感に襲われたような気分だった。
つい。
クリスティアーノ様の首に腕を回し引き寄せてしまっていた。
「なっ、ヴェロニ――――」
「少しだけ……少しだけ、このままでいさせて…………」
クリスティアーノ様の体温が染み込んでくる。人肌の温もりが、他人の体重が、こんなにも心地よいものだと思わなかった。
胸が苦しくて、喉が締め付けられて、いつの間にか涙が溢れ出ていた。
私が泣いていることに気付いたのか、初めは驚いて体を離そうとしていたクリスティアーノ様が、背中に腕を回しそっと抱き上げてくれた。
□□□□□
ヴェロニカ嬢が体を震わせ、嗚咽を漏らしながら泣いていた。
あまりにも消え去りそうな泣き方に、抱きしめてこの場に留めておかねばという気持ちになった。
初めは抱きつかれた瞬間、そういうことを望んでいるのかと、妙な拒否感と失望感が湧いた。だが違った。
抱き上げて体を起こし、背中をゆっくりと撫でると、ギュッと強く抱きついてきた。ヴェロニカ嬢の体が押し付けられ、男の本能が刺激されたが深呼吸をして無視する。
「声を我慢しなくていい。つらかったんだろう? 吐き出せ。全部聞くから」
今までこんなふうに誰かを抱きしめたいと思ったことがなかった。こんなにも相手の気持ちを全部知りたい、受け止めてやりたいと思ったこともなかった。
――――愛おしい。
あぁ、そうだ。愛おしいのだ。
確かに後ろ暗さもある。彼女の両親の処刑を命じたのは私だ。そして、彼女の父の願いを受け入れ、保護すると約束したのに、失敗した。約束を反故にしても既に死んでいるのだ、誰も文句は言わないだろう。だが、私は彼女に興味があった。
話で聞いていた聡明なヴェロニカ。全てを諦めた顔で無反応のヴェロニカ。何をされようと笑顔のまま受け流すヴェロニカ。そして、子どものように泣くヴェロニカ。
いったいどれが本当のヴェロニカなのだろうか。
「お母様とお父様と…………一緒に死にたかった」
弱々しく漏らされたその言葉に、心臓が締め付けられる。
どれだけ雑言を浴びせられようと、命乞いされようと、戦場で敵を屠り続けた。どんな言葉も心は動かなかった。この世を去りゆく弱者の言葉など何の意味もないのだと思っていたから。
ヴェロニカの言葉は何かが違った。
「ならん…………何があっても生きろ。お前の父はそれを望んでいた」
「っ……なぜ………………なぜ、そう言えるんですか」
今なら、言ってもいいだろうか。
僅かに感じていた罪悪感から解き放たれたいのか、彼女に生きて欲しいのか、許されたいのかが分からない。
「お前の父と約束した。お前だけは生かし助けると」
「っ!? お父様は、その代償に、何を……差し出したのですか?」
どう言えばいいか迷っていた、その迷った僅かな時間で聡明な彼女は正解に辿り着いてしまった。
「……国を差し出したのですね?」
「なぜ、そう思う」
「ずっと考えていました。あの腐った王が無血開城など受け入れるはずがないと。絶対に何か汚い手を考えているはずだと。お父様に物資の動きが怪しいと伝えても、もう関わるな、隠れていなさいと言うだけでした。愚王派閥の者たちはその場で殺されたのに、お父様たち派閥の者たちは口を噤み処刑を受け入れた。可怪しいと思っていました」
聡明過ぎる、そう思った。あの国が女性でも政治に登用する国だったら、帝国は負けないにしても甚大な被害が出たのではないかと思えるほどに、聡明なのだ。
本来ならば、同年代の令嬢たちと楽しそうに話したり、婚約者と結婚し、子どもを産み、幸せな家庭を築けていただろうに。
「父親を恨むな。恨むなら、私を恨め」
そう言うと、ヴェロニカは私の胸に顔を埋めふるふると首を振った。そして小さな声で「どっちも恨めない…………好きだから」と呟いた。
心臓が爆発するかと思った。
次の瞬間にはヴェロニカを押し倒し、唇を貪り食うように口づけしていた。