第2話 第8章 唐傘小僧
ゴキッ
歪な音が鳴る。音と共に、人間ほどの大きさしかなかった怪異は、人間の形から変容していく。
鉄鼠の全身を覆う毛が逆立ち、体躯が2倍、3倍……どんどんと膨らみ大きくなっていく。
「大きくなればビビると思ってるのかよ、芸のない……」
傘音は呆れた様子で、鉄鼠に向かって悪態をつく。手に持つ和傘を肩に乗せ、余裕綽々といった様相で、鉄鼠に向かい歩み寄っていく。
《身体を大きくするのは、何も……威嚇のためじゃありませんよ……》
身に纏う法衣は破れ、五条袈裟が裂けても尚、その身体の膨膨張は止まらない。
ボギボギッ……ゴキッ……ゴキンッ。
膨らむ皮や肉を内側から、更に骨が押し上げる音を鳴らす鉄鼠の身体。本来曲がらない方向に曲がり、関節が外れ、伸び――膨らむ巨躯に見合う様に、前腕や後ろ脚が伸びていく。
巨大になっていく体躯を前に、異様な状況でも余裕を見せながら、鉄鼠に向かって歩を進めていた傘音に緊張を与えた。肩に乗せていた和傘を下ろし、次の行動に警戒しながらその場に留まっている。
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江戸時代の著作家『曲亭 馬琴』。彼が筆を取った『頼豪阿闍梨恠鼠伝』。これには、大ネズミに化けた鉄鼠が描かれている。その中で鉄鼠は、雄牛ほどの大きさであると書かれている。しかし、後に絵師『葛飾 北斎』が描いた挿絵では、雄牛よりも遥かに大きい、怪物の様な巨躯で描かれていた。
大きさとは『斃し難さ』に直結する。巨体を支えるのに必要な骨の頑強さ――筋肉量――脂肪の厚さ。更に、それを覆う皮膚も、比例して厚く、屈強になる。
その屈強が、巨大な体を支える筋力が、それらで作り出される重量が、唯の人間に向けられる。大きいというのは、たったそれだけの事で十分な脅威と成り得るのだ。
鉄鼠の巨躯は、10tトラック(全長約12メートル、全高約3.8メートル)程の大きさまで巨大化していた。
加えて牙や四肢に備わる爪は、鋼鉄――先人が思い描いた絵空事である『恐ろしい存在』は、こうして現代に姿を現す。諸人では持て余す存在として顕現する。
鉄鼠を警戒した構えのまま傘音は、巨大化する鉄鼠に合わせて首だけが徐々に上へと動き、遂に自分を見下ろす鉄鼠を見上げる形で静止した。
「デ、デカいな……」
《お待たせしましたね、クソ小僧……次は私が、直接お相手しますよ》
巨大化した鉄鼠、その野太くなった声が駅の周辺に響く。
「ロ、ロア……鉄鼠って、どうやって退治されたんだっけ……?」
遥か後方――鉄鼠の攻撃に対する傘音の防御、その余波が当たらない場所で、鉄鼠と傘音の戦闘を見物してい妃慈さん、その隣にいるロアへと問い掛ける。
「傘音くーんっ、鉄鼠は退治されたという記録、ないんですよーっ」
伝承では詳細な結末は描かれず、先の馬琴が記した物語でも、主人公を助ける人物として描かれている。
つまり、今回の様な完全悪の鉄鼠に対しては、その対抗策や撃退方法などは過去の資料にも記されていないのである。
「自力でどうにかしなきゃいけないってことかぁ!」
「そういうことですっ! 頑張ってくださいっ!」
「うるせぇ!」
悪態をつきながらも、目の前の脅威に対して迎撃の姿勢を取り直す。
右手に和傘を持ち、先端を水平よりもやや下向きに構え、身体は半身を向ける。
前方からの突進――鉄爪による左右からの攻撃――鉄牙による噛みつき、あらゆる攻撃を想定した構え。
小賢しきは齧歯の王。
元来ネズミは知能が高く、通常の個体であっても群れの中に『社会』を形成る。
鉄鼠は、そんなネズミの怪異である。人が思い付くことの裏をかき、生き延びてきた。故に――、それは色濃く体現される。
上。
降り注ぐ小さな王の手先。
だが一匹一匹がいずれも、牙と爪をもつ獰猛な小動物である。
鉄鼠本体からの攻撃に備え構ていた傘音は、意識の大部分を目の前の巨大な怪異に向けていた。その結果、虚をつかれる形になる。大きな手で上に放り投げた幾百、幾千のネズミが重力に従って降り注ぐ。
本来の傘。その使い道の通りに、上方より降る脅威から身を護るために、和傘の中に身を屈めながら入り込む。
――傘の欠点。
それは、雨から身体を濡れるのを防ぐため、身を屈め傘内部に入り込んだ際の『視界の狭さ』。
普通の傘であれば視界はゼロに、ビニル傘であっても通常の視界から、遠近感や視野など――何かを挟むだけで通常見える景色とは全く異なる見え方になる。
無数のネズミが降り注ぐ中、和傘の中に身を潜めた傘音――1秒か2秒――どのくらいの時間、防御のみに徹していたのか分からない。視界を狭めた事で、目の前の脅威を捉えるための情報が減る。
狡猾な怪異は、この隙を見逃さなかった。
「がっ⁉」
意識の外――右側からの急襲。
日常では経験し得ない、巨大な何かがぶつかった衝撃。
交通事故に遭った人なら分かるかも知れない、自分の背丈よりも大きな鉄の塊が、時速数十キロという単位で測られるような、そんな速度でぶつかって来た時の衝撃。
意識と身体がズレる。本来あるべき場所から内臓や頭が、全てバラバラに吹っ飛ばされたかのような感覚。
吐き気――。
眩暈――。
ふらつき――。
平衡感覚が全くない、気持ち悪い――。
今日2度目の衝撃、駅へ向かう時に受けたダメージは、回復したとは言え蓄積している。
それでも、傘音はその場に留まる。――和傘に体重をかけ、身を委ねながらではあるが――不動のまま、留まり立たせ続けた理由。
ロアは、この事件を傘音に全任すると言った。
自分の住む街、駅前をこんな惨状に変えた張本人がいる。
様々な理由があったが、一番の理由は、傘音の後方――妃慈――護るべき対象がいたこと、それが理由。
それは無意識下の事ではある。
『傘』は意図して、雨から傘さす人を護ろうとはしない。
傘音は『唐傘小僧』の怪異――それは、『傘』そのものの概念。――雨から、魔から、護るべき者を護る。
「……来い……鉄鼠」
真正面に立つ巨大な鉄鼠は、右腕を振りかぶる――電柱ほどの太さ、その先端には鋼鉄の爪まで付いている。そんな脅威を軽々と繰り出してくる。
右からの攻撃――傘を盾にして防ぐ。
振り切った右腕を戻し左からの攻撃、捌く様に受け流す――。
右、左と繰り出される攻撃を幾度も防ぎ、受け流し、往なす。
防戦一方、いつかは傘音が耐え切れず、折れてしまいそうな――そんな光景。
それは緩やかな変化――始め傘音は、鉄鼠の攻撃を耐えるように防いでいた。
振り下ろされる腕を止めるために、脚を踏ん張り、腰を落とし、開いた和傘で受け止める。
横から振り抜かれる腕には、体が持っていかれないよう、閉じた和傘を刀剣の様にして防ぐ。全体重を掛けて耐える。
次第に変わる。上から振り下ろされる腕に対しては、勢いをそのままに横へ受け流す。
勢いよく迫る右腕は、そのまま左側へ往なす。
先ほどまで防戦一方、苦戦を強いられているように見えた傘音の姿はもうない。捌き、受け流し、弾き――その悉くを受け切るようになっていた。
鉄鼠の攻撃は、傘音はおろか後ろでこの戦いを眺めているロア、妃慈にも届き得ない。
攻める鉄鼠が攻めあぐね、受ける傘音が優位に立つ。余裕を見せていた齧歯の王は、攻め手が見つからずに焦る唯の獣の様に成り下がる、不思議な光景となっていた。
爪と傘を打ち合い数十合――鉄鼠は痺れを切らし、下から振り上げる前腕の攻撃――その攻撃は今までのものに比べ大振りだった。
この変化を見逃さない傘音は、和傘を開く。
下からの衝撃を、損傷とならないように吸収、その衝撃を利用して数メートルほど距離を取る。
地面に降り立つその瞬間――和傘を開き、空気抵抗で衝撃を和らげる。
一切の損傷なしに降り立つ傘音は、着地の姿勢からゆっくりと立ち上がる。
「鉄鼠、もう終わりだ……もう全部捌ける、弾ける」
向き合う巨大な怪物に向かって、ゆっくりと歩き始める。
「お前は悪い怪異だ……退治しなきゃなんない」
《く、来るなぁ!》
苦し紛れに手下のネズミを束にして、巨体の両脇から傘音目掛けて槍の様に飛ばす。
左――、右――。
最早傘音は、和傘を開くこともせず左右に高速で弾く。
「来るなって言われても行く……殺すなって言っても、殺す」
閉じた傘を振り下ろし、これから倒す相手を見据える。
「お前は僕の住む街をこんなにしちゃったし……何より、お前……さっき妃慈さん……狙ったろ?」
確かめるように――ただ確かめるまでもない事実を口に出す、その怒りを燃え上がらせるように。
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なんだ、なんだと言うのだ。
何故、私よりも遥かに小さい――無力な、怪異でもなんでもない唯の猿に、ガキに……。
何故、ここまで私の攻撃が通じない……|巨大になったはずだ、強大な強敵に――凶敵に――狂的な脅威となったはずなのに。
なのに、私の攻撃は全て往なされる――受け流され、弾かれる。
当たらない、届かない、通じない。
何故だ――何故だ、何故だ⁉
怒りにも似た焦りは、その巨大な身を震わせる。
理解の及ばぬ恐怖が、脚を竦ませる。
手下のネズミを数百匹、槍の様にして小僧にぶつける。
速度で刺し貫くよう、物量で圧し潰すよう、重量で叩き潰すように。
駄目だ、左に受け流される。
だったら、後ろで見ている生臭坊主……その隣にいる小娘でもいい、兎に角何か攻撃を。
今度は巨体の右側から手下を突っ込ませる。
しかし、傘を持つ小僧でバウンドしたかのように、緩やかな弧を描き右側に弾かれてしまう。
駄目だ――駄目だ、駄目だ。
何をしても、あの傘の小僧には何も通じない!
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「お前……さっき、妃慈さん、狙ったろ……?」
傘音の目は暗かった。
暗く、残酷な目だった。
目の前のネズミが、如何に許しを請おうとも、行いを改めようとも、例えどんな聖人君子だろうとも。
傘音が護ると決めた妃慈を、あまつさえ攻撃対象とした瞬間、傘音が此奴を許す可能性は万に一つもなくなった。
唐傘小僧――器物を基にした妖怪、付喪神と呼ばれる妖怪としては、最も名の知れたモノの1つに数えられる。
しかし、唐傘小僧自体の伝承には詳細なものは、実は少ない。
傘音は『唐傘小僧』の能力を行使する上で、その解釈を拡大させる。
妖怪や怪異としての唐傘小僧では、伝承の恩恵が受けられない。
では傘に対しての逸話を。
その他にも、諸人が傘に抱く思いや、一般的な使用方法も含め。
――怪異とは概念、事物に対して言語化されたもの、基本的な形態を持つもの。
『これ』と定義してしまえば、怪異がそれを行使するのは造作もない。もっとも、それを体現できる怪異は、自らが怪異であることを十分に理解している事が前提となるが。
傘は弾く物――雨粒を、日差しを、熱を、紫外線を。
解釈を拡大させる。
怪異としての傘は、何ができる――『何でも弾ける』、それが敵の攻撃であっても、それが例え目に見えない空気であっても。
傘音は和傘を閉じたまま、先端が地面に向くように手に持っている。それを開くと地面に向かって空気が『弾かれる』。
圧縮された空気を一気に解き放つ、それは物体を空中に押し上げるだけの推進力となる。
地面へ向けて一気に弾かれた空気は、反作用をもってして傘音を空高く跳ね上げた。
傘は受ける物――雨を受ける、陽を受ける。
その他にも落下傘、パラシュートは空気を受けて速度制御をする。
空高く跳ね上がった傘音は、手に持つ和傘を開いて空気を受け減速――空中で一瞬停止する。
和傘を再び閉じれば、受ける力は無くなる。傘音の体は、重力に従って落下を始める。
先ほど打ち上げられた時よりも高い位置からの自由落下。
鉄鼠の頭上から、真下へ一気に降下する。
身を翻し、傘音は後方の空間を一度『弾く』。
弾かれた空気が反作用で、傘音を更に加速させて落下する。傘音は落下しながら、手に持つ和傘の先端を、標的――鉄鼠に向ける。
一筋の弾丸のようになった傘音は、そのまま鉄鼠へと突っ込んでいく。
《私の真似で、刺し貫くつもりですね……そうはさせません!》
上空にいる傘音を見上げる鉄鼠は、前脚を向かってくる傘音の方へ向ける。巨体を後ろ脚2本でさせる事で、巨躯は更に大きく見える。
両の手を合わせ、そこに手下のネズミを束ねる――即席の緩衝材として、上空から弾丸の様に迫る傘音を迎え撃つ。
《来ぉいっ‼》
鉄鼠が両前脚で支える。その手元には、ネズミが蠢く壁。
傘音が鉄鼠に向ける和傘の先端。
それがぶつかり合う衝撃の瞬間――傘音は閉じていた和傘を一気に開く。
和傘の表面全体に『弾く』力が作用し、鉄鼠が支えていたネズミ達は悉く、その圧力で潰されていく。
潰される端から和傘に弾かれ、辺りは鮮血が飛び散る。
次々と弾かれ、数瞬でネズミの群れを圧し潰す――下に控える鉄鼠の両前脚を続けて弾く。
前脚――肩――腰――後ろ脚――、順に『弾く』力が伝播していく。上からの力と、地面とに挟まれる鉄鼠。迫る傘音を受け止めてしまった時点で既に、巨大な怪異には逃げ場など無くなっている。
《ぐぅ……あっ……があぁ!》
耐える――地面に屈しまいと、腰が、両の前脚が折れないようにと――ひたすらに耐え、跳ね返そうと全力で押し上げる齧歯の王。
地面が罅割れる。
齧歯の王を中心に、そのド真ん中に隕石が落ちたかのように窪み、凹み、大地が割れる。
それは上からの衝撃が如何に強大なものかを、言葉無くして語るかのように――クレーターを作り、罅割れる。
それでも尚、耐える――が。
《ぐぅ……うぅ……うあぁ‼》
言葉にならない呻きを上げて、その巨躯は地中に埋もれていく。大地に埋もれるほど、鉄鼠の巨躯は大地を下げる。下げれば大地の、石の、土の密度を高くし、より強固にしていく。
それは、何の脈絡もなく訪れた。
大地が沈まなくなる。それと同時に鉄鼠の巨躯が歪に曲がる。周りはそのままに、中心だけが力に押し負けるかのように凹んでいく。
ミチミチッ、ギチギチッ……。
肉が千切れ、骨が軋む音。
《うぁ……ああぁ……あぁぁぁ……‼》
バチンッ‼
遂に、大地と――上から降り注ぐ開かれた和傘の間で、原形を留めることが出来なくなった巨躯は『弾け』飛んでいった。
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ごく普通の高校生――私の同級生が、異常で非常識な曲を誇る怪異――齧歯の王と戦う姿を見ていた。
そんな非日常な光景、普通は高校生が惨殺されて終わりであろうこの闘争。
しかし、結果は真逆――巨大なネズミは地面と傘音くんの力に挟まれ、その巨躯は消し飛ぶ。
不思議な事に血や肉片が飛ぶことはなかった。
「怪異は概念――逸話、伝承が形を象った存在ですっ……その姿を形作るものは、俗にいう霊力や妖力と呼ばれる、超自然的な力ですっ」
怪異はその姿形を留められなくなると、その超自然的な力――『妖力』となって霧散する。
鉄鼠――齧歯の王ともなれば、その密度が違う。高密度の妖力は、目に見える光の粒子となって、罅割れた大地を中心に周囲へ舞った。
季節外れのイルミネーション、もしくは今は見る事が叶わない蛍の群れが一斉に飛び立ったような、そんな優しい光に辺りは包まれていた。
悠然と宙を舞う優しい光は、熾烈な戦いの終わりを静かに告げた。
「……傘音くん‼」
この戦いの勝者は、鉄鼠という巨大な怪異が、その姿を霧散させる時に起こった強烈な衝撃で、空高くに打ち上げられていた。
首を上方に向け、名前を呼んだ同級生を探す……。
手に持った和傘を開き、さっきまでの死闘が嘘かのように、ユラユラと、ロアさん――そして私のいる場所へと降りてくる。
「妃慈さん……おつかれ……」
和傘を片手に、傘音くんは何とも穏やかな、優しい笑顔を私に向けて送ってくれた。