第2話 第7章 頼豪
平安時代中期、時の帝である白河天皇には、跡取りとなる子息が生まれなかった。
そこで帝は、祈祷や呪いに効果があるようであれば、子をもたらした者に相応の褒美を取らせると約束した。そこでとある僧が、皇子の誕生を祈祷し始める。
その年の十二月十六日、待望の男の子が生まれると白河天皇は、大いに喜んだという。
後日、僧が褒美を貰いに朝廷へと赴く。そこで僧は天台宗 長等山園城寺の戒壇院(戒律を授けるための建物、この場所で受戒する事で出家者は正式に僧尼となる)の建立を願い出た。
しかし、当時の対抗勢力であった『天台宗総本山 比叡山延暦寺』の僧たちが、横槍を入れる。このせいで園城寺の戒壇院建立が叶うことはなかった。
僧はこれを大層恨み、幸あれと祈祷し生まれた皇子に対して、真逆の事をし始める。
僧は百日間の断食と共に、生まれた皇子を『魔道に堕とす』ための祈祷を行った。
百日後、僧は悪鬼の様な異形の姿と成り果て死んでしまう。その頃から朝廷をはじめ、都には様々な災いが降りかかった。
その災いは、帝が渇望した皇子にも降りかかる。僧の死後間もなく、枕元に白髪の悪鬼の様な外見をした老僧が立つようになった。これを呪詛だと恐怖した皇子は、祈祷師に縋りついた。しかし、祈祷の甲斐なく、遂に老僧を追い払うことは出来なかった。皇子が四歳を迎えた直後、原因不明のまま亡くなってしまった。
横槍を入れた延暦寺には、八万四千匹にも及ぶネズミの大群を率いた巨大なネズミが、貴重な経典、重要な仏像などを食い荒らし、甚大な被害を被ったとされる。
後に鳥山 石燕が描いた『画図百鬼夜行』にて姿かたちを得た怪異。
八万四千匹に及ぶ数多のネズミを従え、自身も石の体に鉄の牙を持つ巨大なネズミと化し、様々な脅威をもたらしたネズミの大妖怪。
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「それが今回の事件を引き起こした怪異の正体……名を『鉄鼠』と言いますっ」
《名は頼豪です、この生臭坊主が!》
どこからともなく、声がした。
ロアが出した漆黒の壁に阻まれ、四方へ散り散りになったネズミの大群――それらは再び集まり、1箇所に集まり、小さな山を形作っている。
小さな粒共が蠢き、集まり、山を作り終わると、山の正面が割れるように分かれる――その中は無数のネズミ共が蠢いてる。それだけが辛うじてわかるだけで中は深い黒しか見えない。
《……やっと見付けました》
鈍く響く声が、ネズミが蠢く山の方から聞こえてきている。
あの山は何なんだ。また塊になって襲ってくるのかと警戒していると、僕はあることに気付いた。
山の中で蠢くネズミ共が、いつの間にかこちら側に向かって、一定の方向に進むように、動き方を変えていた。
――来る。
ネズミの山の中、黒しか見えない穴の奥底、そこから何かが迫り来る気配がした。
蠢くネズミに乗るような形で、法衣姿の誰かがこちらに迫って来る。
そいつは、昔の僧が着るような山吹色の法衣、その上に褐色の五条袈裟を纏っている。
――異様なのは首から上、顔が全体的に長細い。
目は顔の側面に付いている。
耳はとても大きく、目のすぐ後ろにある。
何よりも鼻が大きい。眉間から真っ直ぐ鼻根――鼻筋――鼻尖まで、凹凸がほぼなく真っ直ぐ伸びている。
口は裂けるように耳元にまで及んでいる――その顔は、まるでネズミの様な面貌をしていた。
ネズミの大群が成す山の中からゆっくりと、蠢くネズミに乗って出てくるネズミの怪異――鉄鼠。
「まあ、確かにお肉を食べたりはしますが……私、別に坊主じゃないですよっ?」
ロアが後ろで真面目に返答する、そうじゃないだろ。
「そんなことを言ったらネズミは雑食じゃないですかっ……なんならアナタ、伝承ではお寺の経典とか、あとは……プッ……仏像まで……ププッ」
あ~、そんな馬鹿にするように、続けざまに言って……怪異じゃなくても怒るぞ。
「ああ言えばこう言う、何なんだ貴様は! 本当に!」
ほら見ろ、僕はその発言の尻ぬぐいまではしないぞ?
見るからに怒りの感情を漲らせている鉄鼠は、「クソ坊主が!」と叫びながら右手を横に振る。
パァンッ!
鉄鼠の右側で何かが破裂する音がした。しばらくすると、辺りにはガスの臭いが立ち込める。どうやらどこかのガス管が、ネズミに依って嚙み千切られたようだ。
次に鉄鼠は、同じように反対の手を振る。
バチチッ!
何かが爆ぜるかの様な音が聞こえる。
瞬間――鉄鼠の左側から右に向かって、爆炎が連鎖する。
電線を嚙み切った事により、弾けた火花がガスに引火――、迸るように爆炎が走る。
「おい、ロア……あんまり挑発するなよ……」
「いえ、私は挑発しているつもりはないですよっ、あそこの雑食生物が……ププッ」
あ、駄目だ……ロア――こいつ、こう見えてキレてるんだ……。
挑発を止めようとしないロアは、捲くし立てるように続ける。
「大きい音とか、眩しい光とか……雑食のネズミと我々は違うんですから、いい加減にして欲しいものです、こんなもので誰がビックリするんですかっ(笑)」
嘲り笑うように鉄鼠を挑発し続けるロア、本当やめてくれ、その後始末を誰がすると思っているんだ……。
「さっ、来ましたよ、傘音くんっ」
『さっ』じゃねえよ。僕の両肩掴んで、前に押し出すな。
こいつ後で本当にぶん殴ってやる。
《生臭坊主め……》
鉄鼠が怒りの滲む独り言を呟くと、両の手を大きく後ろから前――上へと、流れるように大きく振った。
それに連動するように鉄鼠の両脇から、二手に分かれたネズミの大群が、槍の様にロア目掛けて突っ込んできた。
鉄鼠の居る場所からここまでは、かなりの距離がある。だが、ネズミの槍の勢いは凄まじい、ものの数秒で僕らを飲み込むだろう。それほどの速度で槍は、僕ら目掛けて迫ってきていた。
ロアや僕は平気だとして、その後ろに並んでいるのは――妃慈さん。
咄嗟にロア、妃慈さん――2人を護るように、僕は2人の前に躍り出た。
「何かあったら、頼んだからな!」
僕は背後にいるロアに向かって叫ぶ。
「はい、大丈夫ですっ……何かあったら私に任せて、思いっきりやっちゃって下さいっ」
「か、傘音くん! 頑張って!」
……なんか、最後に妃慈さんの声が聞こえた気がする。がんばろ。
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――右手を開く。
その周りの空間がぐにゃりと歪む――夏場の陽炎の様な小さな歪みは、次第に水に映る陽光の様に、その揺らめきを大きくしていった。
揺らめきの中から、傘の手元が現る。傘音はそれを、開いていた右手で掴む。
揺らめきは、そのまま地面に向けてスゥーッと動き、それに合わせて傘の柄――和紙――上轆轤が揺らめきの中から現れる。
傘音の右手に握られた和傘を、ネズミの方に真っ直ぐ向ける。
通常傘は、開く際に中棒の繋ぎ目――下轆轤を摘まみ、伸ばすようにして開く。しかし、傘音が手に持つ和傘は、その動作を必要とせず、独りでに傘骨が開いていく。
和傘の先端、その先にある空間――虚空が再びぐにゃりと歪み、周囲から小さな光の粒が集められる。
粒は集まり、何もなかった空間に光の塊を作り出す。その光は傘音自身の『妖力』。傘音の妖力はネズミの大群に対し、後ろにいる傘音やロア、妃慈を護るように横に広がる――迫りくるネズミの大群を目の前に、妖力は大きな和傘の形で展開された。
迫りくるネズミの大群、大きな槍と化したそれは、勢いを増しながら傘音たち目掛けて突進してくる。その速度で――勢いで――重量で――質量で呑み込み、圧し潰そうと迫ってくる。
迎え撃つは傘音の手にする和傘――その先に数倍の大きさで展開された、妖力で形成された和傘。
数多のネズミが地を這い進む。一匹一匹は小さくとも、その数が数百――数千という数になれば、地面を揺らすようにもなる。
ゴゴゴッと鳴らされる大地と共に、それは開かれた傘の先端と触れ合う。
――刹那、大槍と化していたネズミの大群は、展開される和傘に沿って、二手に分かれ左右へ大きく弾かれた。
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傘音くんの手に、いつの間にか傘が握られている。
その傘がさされる。京都の街や、時代劇で見るような――番傘と呼ばれる、和傘の中でも一際丈夫で、太い作りの和傘だった。
頼豪と名乗った怪異、アイツの放ったネズミの大群は、私たちを呑み込もうとしていた。ネズミの群れと私たちをと遮るように現れた、傘音くんの番傘。あの番傘と触れた瞬間ネズミは、反発する磁石のN極とS極の様に、開いた番傘に沿って左右に弾かれた。
「傘音くんの……あの傘は、何ですか? 怪異?」
「はい、怪異ですっ! ですが大丈夫っ……あれは傘音くんの能力ですから、害はないですよっ」
疑問が尽きない目の前の状況について、ロアさんが安心させるような優しい声音で教えてくれる。
「傘音くんのアレが何か、ロアさんはご存じなんですか……?」
「はい、勿論ですっ」
そう答えるとロアさんは、私のすぐ横に来てくれた。
私たちの目の前には、弾かれたネズミが追撃の準備だろうか、再び大きな塊となるべく1箇所に集まっていた。
「あのロアさん……傘音くんは、大丈夫なんでしょうか……?」
あれだけの数が束になって襲ってくる、たとえ一撃を防げたとして、追加の二撃――三撃と防ぎきれるものなのだろうか……。
「傘音くんなら大丈夫ですよっ」
ニコニコと笑顔のまま、遠くで次の攻撃に備えている傘音くんを見ながら、ロアさんは言い切った。
「妃慈さんは、『唐傘小僧』という妖怪を知っていますかっ?」
唐傘小僧、唐傘お化けとも呼ばれる妖怪。
江戸以降の時代で、多くの絵巻や民衆向けの絵本、かるた等にもその姿が描かれる妖怪である。
古来より『器物は百年経ると化ける』と言われていて、これらを付喪神と呼ぶ。
付喪は『九十九』とも書き、百年経つ前に捨てられた器物が抱く、『あと一年で命を得られたのに』という恨みと器物そのものの力、それらが合わさり生まれる。
「もちろん、傘音くん自身が傘というわけではないですよっ。故あって彼は『唐傘小僧に成る傘』をさしたんですっ。それで彼自身が怪異と成るに至りましたっ」
「そんなこと、あるんですか……?」
「ありますよ? 妃慈さんだって『止まり木』じゃないですかっ」
要は役割という事らしい。彼にも何か理由があって、唐傘小僧となり、怪異と成った――そういう事らしい。
「ただ彼は非常に慎重なので、滅多な事で能力を使おうとしないんですっ」
付喪神は妖怪と括られるが、伊達に『神』と呼ばれているわけではない。能力を行使した傘音は、あらゆる面で傘の性質を体現する存在になる。
「傘とは古来、魔除けとして中国で生まれましたっ……なので傘音くんは魔――つまり怪異に対して、無類の防護を持つようになりますっ」
二撃目――今度は、左右両方向から挟むように二手に分かれたネズミが、二本の槍となって傘音くんを狙う。
傘音くんは持っている和傘を、右から迫りくるネズミ達に向ける。和傘とネズミが触れた瞬間に、それを大きく上に振ると、導かれ往なされるように逸れる。
ほぼ同時に迫っている左のネズミ達には、上に振った和傘をそのまま振り下ろす。
すると、先頭にいたネズミ数匹が逃げ場無く、傘と地面で挟まれるように圧し潰れていく――後続のネズミは、それを避けるように大きく左右に分かれ逃げていった。
「全く寄せ付けてない……」
「はいっ、相変わらずですが……凄いですね~」
相変わらず飄々とした顔、ロアさんは全く心配などしていない。そんな様子で傘音くんとネズミとの攻防を見守る。
今度は先ほどよりも少なく、形も細いネズミの束が、鉄鼠のいる山の辺りから1、2、3……8本伸びてくる。
うねり――蠢き――小さな一粒一粒は、まるで一つの生命体の様に連携した動きで、ほぼ同時に傘音くん目掛け突っ込んでいく。
先ほどまでの一直線や、左右双方向からの攻撃とは違う。多方面からの攻撃。
魔に対する無類の防護、そうは言っても限度がある。
私は……この後訪れる光景が恐ろしくなり、思わず目を強く瞑ってしまった。
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めんどくさっ!
1、2……8本か! 8方向同時攻撃ってなんだ。
一直線とかなら角度合わせりゃ跳ね返せるけど、こうも色んな方向から来られるとな……。
跳ね返すのにも角度や、力加減とか、色々と調整が必要となる……こうも大変じゃないか!
「よし、来ぉい!」
色々考えたが、一言大声で気合を入れて、迫り来るネズミの束、それを1つずつ順番に対処していく。
1つの束に見えても、こいつらは群れ――それぞれ1匹ずつに意識がある。それに指示を出し操っているのはあの親玉デカネズミだとしても、個々のネズミは性能に差がある。
ネズミ共が指示通り、きっちり動くのがアイツの理想。ただ生き物はそう簡単にはいかない。中には、多少出遅れる奴、逆に早まって統率を乱す奴、パッと見は気付かないが、それぞれの動きにバラつきがある。
傘音の防護は絶対――、タイミングさえ逃さなければ、膂力に依らず防ぐ、反らす、弾くなどは造作もない。
「ただ、数が多いとやっぱり面倒臭ーいっ!」
傘音はそう叫びながら、迫りくる触手の様なネズミの群れを、1束ずつ対処していく。
最初は前方からくる群れ、次に右――左――背後――上――左、そして右、ここまでの攻撃を完璧に防ぎ切る。
7撃目――右からの攻撃と最後の攻撃、その間隔が狭かった。
地中を掘り進み、アスファルトを突き抜ける。地面の下、地中から上へ突き上げる一撃を、傘音は手に持つ和傘で直接防ぐ。
そのまま空高くまで押し上げられる傘音。常人であれば落下し、地面に打ち付けられるだけで絶命――死ななくとも、重傷は免れない。その域までネズミに突き上げられる。
宙を舞う。そんな状況でも傘音は冷静だった。
下手に失速――そんな事をしては、恰好の的になってしまう。本能的に判断した傘音は、手に持つ和傘を一度畳んで空気抵抗を失くし、勢いのまま空中へ昇っていく。
パチンコ屋の2階――そこより更に上まで昇ったところで再び傘を開く。すると、空気抵抗で速度を急激に落とし空中で静止する。
傘を開いていた時間――1秒にも満たない数瞬、再度傘を閉じる。傘音は重力に身を委ね、そのまま自由落下を開始する。
「高いなぁ! このやろぉ!」
傘音は叫んだ。
「ロ、ロアさん⁉︎ 傘音くん、なんかキャラ変わってませんか⁉︎」
「能力を使う時は、いつもですね……キャラ変わりますっ」
自由落下のまま、傘音は上を向く。
傘音を突き上げたネズミの群れは、そのまま傘音自身を追い抜かし、更に空高くに上昇していた。
傘音の上を行くネズミ共は、落下する。
――厳密に言うと、地上のネズミが自分よりも上にいるネズミを押し上げ、押し上げ、押し上げる――。最高度に達すると今度は上のネズミは、下のネズミを突き落とし、突き落とし、突き落とし――その連鎖で通常では出せない速度、生物の耐えられる許容を超えた速度を生み出す。ネズミの群れは自由落下よりも遥かに大きい運動量を持つ槍と成る。蠢く槍が狙い澄ますのは、傘を差す人間の小僧――傘音。アイツを突き穿とうと、狙いすましながら急速降下する。
和傘を開きながら自由落下している傘音は、上から突撃してくるネズミを不敵な笑みを浮かべながら待ち構える。
手に持つ和傘で三日月の様な軌跡を描く。
上から襲うネズミの束は、傘音に触れることを許されず、描かれた軌跡をなぞり、そのまま地上目掛けて往なされる。
ネズミの群れは、自らが生み出した速度で、自らの制御を外れたまま地面に叩きつけられる。
壁に阻まれたり、突進を中空に往なされる――先ほどまでの様な防御とは違う。逃げ場なく弾かれた結果、はじめのネズミは地面に叩きつけられ潰される。続くネズミも上から叩き落とされるネズミの質量に潰され、瞬く間に血の滲む死骸の山が出来上がる。
傘音は悠々と和傘を開き、空気を捉えながらゆっくりと降りてくる。
最後、地上近くで周りの空気を一気に纏い、クッション代わりにして着地する。高高度からの着地にも関わらず、着地の衝撃など意に介さず、傘音は円滑に次の行動に移る。
「鉄鼠よぉ……ご覧の通り、お前の攻撃は通じない……観念してロアの言う通りにしたらどうだ?」
着地と同時に鉄鼠の方に向かって歩き始める傘音。
「私の名前は、頼豪だと言っているでしょう……生臭坊主の取り巻きが、アイツと同じで人の話を聞かないガキが……」
怒りに身を震わせながら、鉄鼠は次の攻撃に備える。
「プルプル震えなくても……安心しろよ、まだまだお前の攻撃で良いよ……全部受けきってやるからさ、来いよ」
和傘の先を鉄鼠に向けて言い放つ。
この先どんな攻撃が来ようとも往なす――弾く――防ぐ、挑発的でどこかロアに似た飄々とした雰囲気を纏い始めた傘音は、どこか格上の風格を匂わせながら、遥か昔から畏怖の念を人々に与え続けた、強大な齧歯の王を相手取る。
「何の異能も持たない猿が……平安の経典よりも――木彫りの木偶よりも、ズタズタにしてやるっ!」
鉄鼠は、爪を剥き出し、鉄の牙を鈍く光らせる。