7 意外極まる師の命令
朝を迎えた工房の中は、がらんとしていた。
描きかけの板絵や、弟子たちが使う絵具や工具も、人気のない部屋の中で、朝陽の光を眩しく浴びながらも寂しげに佇んでいる。
いや、人影はあった。
その中でただひとり、亜麻色の髪の少女は一心不乱に絵を描いていた。アネシュカだった。
マリアドルの将軍がチェルデの総督になり、占領が着々と進むなか、工房の作業はまたも滞りがちになっていた。その理由は以前とは異なり、少なからぬ数の徒弟が王宮内の惨状に恐れをなして、工房から逃げ出してしまっていたからだ。その傾向は日を追うごとに高まる一方で、弟子の顔ぶれは櫛の歯が欠けるように、日々少なくなっていく。
しかし、アネシュカは違った。
自分は王都に出てきた身であり、いまさら逃げる場所もない。また、沈痛な空気がいまだ覆う下女の寝所にいるのがいたたまれない、という理由もある。
だが、なによりも、彼女は絵を描くことを諦めたくなかったのだ。貧しく、早くして父母を亡くした自分をここまで育み、絶えず希望を与えて続けてくれたのは、アネシュカにとって間違いなく絵であった。
ならば、とアネシュカは思うのだ。
――ならば、いまこそ絵を描くときだわ。私はそのためにここへ来たんだし、なにより、この酷い日々に望みを繋ぐためには、描き続けることをやめちゃいけないのよ。だから私は描く。いっぱい学んでみせる。負けてなんていられないわ。
そんな気概がいまのアネシュカを生かしている。だから、彼女は今日も、誰もいない工房に泊まり込んで、トルトから渡された教則本を捲りながら素描に励んでいた。忙しく木炭を動かしては、目の前に置かれた花瓶を、紙に浮かび上がらせていた。
――いま、この花瓶は空っぽだけど、こうして描き続けていれば、きっとここに花を生けられるような日も来るはず。そうしたら今度は、私はその花を描くのよ。そうやって過ごしていけば、いつか、私にだってファニエル先生みたいな絵が描けるかもしれない。
そのように思うごとに、アネシュカの胸は熱く燃える。そしてより絵に没頭していく。
そうしてしまえば、彼女の心からは、自分を囲むあらゆる脅威への恐怖など、消し飛んでしまうのだった。
そこまで集中していたものだから、アネシュカは、いつの間にか工房に姿を現していた師に気がつかなった。
あのレバ湖湖畔の朝と同じく。
「アネシュカ、熱心だね」
そんな声がして、アネシュカは木炭を運ぶ手を止め、後ろを振り向く。
すっかり朝を迎えた工房の入り口に、ファニエルが立っている。相変わらずの柔らかい微笑を唇に浮かべて。
だが、同時に彼の琥珀色の目は、微かにだが、恐怖の光に揺れていた。または……、敢えて言葉にするならば、見たくないものを見てしまった……、と言わんばかりの眼差しであろうか。
アネシュカはそんな師の様子に疑問を覚えて、瞳を瞬かせながら、なにかあったのかを問おうと唇を動かす。しかし、ファニエルの言葉がそれを遮った。
「本当に、君は絵が好きなんだね」
「はい。私、もっともっと、絵を描きたいんです。こんな日々ですけど、へこたれちゃいけないな、と思って」
「素晴らしいね」
ファニエルが眼を細めて笑った。
師の顔からは、先ほどのような恐れは窺えない。なのでアネシュカは、ほっ、とした。
――よかった。あのとき、私を兵士から助けようとしてくれたときのような、いつもの優しい先生だわ。なにかの見間違いだったかな。
安堵して、彼女も師に微笑みかける。
だから、ファニエルがそれからアネシュカに告げてきた言葉は、想定外も想定外、意外極まりない内容でしかなかったのだ。
「……だったら、いい話があるよ。アネシュカ」
「いい話、ですか?」
「ああ。もっと絵が上手くなれる、またとない話だ」
「またとない?」
そのとき、アネシュカの背筋は僅かに、ざわり、とした。またも、いつものファニエルから感じ取ったことのない色をその視線に感じたのである。
それは、なにか、不穏な予感を匂わせるものだった。
しかし、思わず息をのんだアネシュカに構わず、ファニエルは淡々と語を継いだ。
「アネシュカ、マリアドルのエド・マジーグ将軍のことは知っているね」
「ええ、お名前だけですが、チェルデの総督に就任した方ですよね。その方がなにか?」
「実は、マジーグ総督から、絵を描ける人間をひとり、自分の元に寄越すよう工房へ要請があったんだ」
「……え?」
そのとき、窓から煌々と射していた朝陽の光が、雲にでも遮られたのか、一瞬翳った。
まるで、アネシュカの心を示すかのように。だが、ファニエルの言葉は続く。
「話によると、総督閣下は、ここのところ悪夢に悩まされて、夜、就寝もままならなくてお悩みらしい。なんでも、夢の中で悪霊に襲われてしまうとか。そこで、絵画術をご所望なんだ」
「絵画術?」
「ああ、マリアドルに古くから伝わる一種の悪霊払いだ。眠る人の傍に付き従い、夢の中で暴れる悪霊の姿を絵にして現世に放つことで、悪夢に悩まされる人を癒し、安寧に導く。ふふ、彼ららしい絵の使い方だね。それをできる人間が欲しいとのことでね」
ファニエルはなおも微笑んだままだ。
しかし、アネシュカは師の言葉の意味を察して、思わず声を震わせた。
「まさか、先生、それを私にやれと……?」
「そうだ、アネシュカ。君になら出来るだろう? なにせ、あれだけの才能の持ち主なのだから」
「……で、でも、夢ってことは、そっ、その、夢は夜に見るものだから……」
「そのとおり。だから、君には今日から毎夜、総督の私室に足を運んでもらう」
「え、えーっ!」
アネシュカは呆然とした。
あの暴虐なマリアドル軍の長のもとに遣わされるというだけで恐ろしいのに、年端もいかない女の自分が、男性の私室に夜な夜な通わなければいけないとは。
流石のアネシュカも、いつもの豪胆さを忘れて、怯えるしかなかった。
しかし、ファニエルは平然としたものである。
「どうした? 怖いのかい、アネシュカ。大好きな絵がたくさん描けるというのに」
「怖いに決まっているじゃないですか! そんな、あの乱暴なマリアドル軍のいちばん偉い人のもとに、毎夜なんて……! だって、私は!」
すると、ファニエルの琥珀色の目が怪しく光り、動揺するアネシュカの言葉をまたも遮る。
そして、ゆっくりとアネシュカを質した。
唇に笑みを湛えたまま、ゆっくりと。
「私は、なんだい? アネシュカ。まさか、女なのに、とでも言うのかい? 君は絵に女も男もない、そういう考えの持ち主だったかと思っていたけれど、違うのかな」
アネシュカは瞳を見開いたまま、皮肉がたっぷりと込められた師の言葉に身を強張らせた。
いつの間にか震え始めた手から、握りしめていた木炭が、かたーん、と音高く床に転がるのが、意識の向こう側で響き渡る。
ファニエルは、そんなアネシュカを見届けると、短い銀髪を揺らしながら足早に工房を立ち去っていった。唇に、なおも柔らかい微笑を宿したまま。
ファニエルはその足で、さっさと宮殿に向かう。アネシュカを任に当てることを、早く報告してしまおうと心を逸らせて。
「……せいぜい、手を出されて、あの暴虐な総督の妾にでもされてしまえばよいのだ、あの子は。そうだ……これで、これでいいのだよ」
廻廊を歩む彼の口から微かに漏れた呟きは、誰の耳にも届くことなく、朝の風に人知れず溶けていった。