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遠き慕情のその先に

 チェルデ=マリアドル国設立から十年目の夏のことだ。


 季節の匂い濃く薫る風が、トリン市内の墓地を渡っていく。アネシュカとレダの黒いベール、そして喪服の裾を風が揺らしていく。


 ふたりはマジーグの墓の前に着くと、手にしたワバーハラの花を手向け、そして跪いて祈りを捧げた。



 その一年前の夏の朝、マジーグは逝った。

 唐突な死だった。


 前の晩に熱を出し、高熱のまま一晩を過ごして迎えたその朝、マジーグはただ一言、庭に出たいと看病していたアネシュカに掠れた声で告げた。

 なので彼女は熱に火照った彼の肩に手を回し、寝台から起き上がらせる。そして、ふたりで扉を押し開け、夏の朝陽が注ぐちいさな庭に出た。緑の茂みには今が盛りとばかりに、青い花が咲き誇っている。


「……あ……」


 その瞬間、マジーグは自分の手を握りながら、なにかアネシュカの耳元で囁いた。


 それは言葉というには、あまりにも弱々しく、吐息とさえ言えるようなものであった。そして、それがマジーグの最後の呼吸だったのだ。

 よって、なにを彼が言いたかったのか、アネシュカが聞き返したときにはマジーグは、すっかり白くなった長髪を揺らしてゆっくり地に崩れ落ち、息は絶えていた。


 だが、アネシュカは彼の最期の言葉が「ありがとう」もしくは「愛している」だったといまも強く信じている。いずれも、かつて彼が何度も繰り返し己に告げてくれた言葉だ。それを最期に重ねて自分に告げることで、彼は己の人生を全うしていったのだと、確信している。

 ふたりの人生には、そう信じるだけの理由が確かにあった。


 そして、だからこそ思うのだ。彼のように、自分も己の生をちゃんと生き抜いてから、傍に逝こうと。それでこそ「私たち」だし、そうしないとなによりマジーグが喜んで迎えてくれないような気がする。

 どうせまた天で再会できるならば、アネシュカはなによりマジーグの笑顔が見たいのだった。



 マジーグの名が彫られた墓石を、愛おしげに撫でていたアネシュカに、レダが尋ねる。

 夏風に黒髪を吹かれる少女の顔立ちは、彫りが深く、歳を追うごとに父に似ていく。アネシュカにはそんな娘がなんとも愛おしい。


「母さん、父さんのところに行きたくならないの?」

「まだならないわね。私は私で、まだやることがあるし。それを終えたら、すぐ、会いにいくけどね」


 さらっと亡き父への想いを言ってのけた母に、レダは思わず苦笑した。


「大好きなのね」


 その娘の言葉にも、またさらり、とアネシュカは答える。当たり前よ、と言わんばかりの口ぶりだ。


「そうよ。私、エドのこと、ずっと大好きだもの。私に愛を教えてくれた人だから」


 トリンの墓地は西市街地の城壁近くにある。アネシュカとレダはそれぞれ亜麻色と黒の二色の髪を靡かせながら、いまはチェルデ=マリアドル国の首都であるトリンの塔や鐘楼を見交わした。


 アネシュカの髪といえば、だいぶん白いものも増えてきていた。目尻にも皺が増えている。それはそうだ、彼女は初めて会ったときのマジーグの歳を、いまやとっくに超していた。それでも彼女のペリドット色の瞳はなお、溢れんばかりの生気を持って輝いている。

 レダからすれば、そんな母が頼もしく、また、誇らしかった。


 そんな気持ちは露ほども顔に出さずに、再びレダは母に尋ねる。


「お兄ちゃんは今日はここに来ないの? 命日だっていうのに」

「ああ、カレルは工房の仕事を終えてから来るらしいわよ。夕方になるかしらね」

「なんだ。ひさびさに会えると思ったのに」


 レダが頬を膨らませた。

 カレルが王宮の絵画工房の住み込みの弟子になってから、早二年。家にいるときはあれだけ喧嘩ばかりしていた兄妹だったというのに、いざ顔が見えなくなると妹としては寂しさが募るらしい。アネシュカはレダの心を察して、柔らかく微笑んだ。


「そんな顔しないの。カレルの様子なら、私、トルトに会うことがあったら聞いておくわ」

「まあ……元気なら、いいんだけどね!」


 レダは半分むくれながら語を吐いた。

 そうしてから、ふたりはまたマジーグの墓に祈りを捧げた。きっと彼はいつも家族のことを見守ってくれているだろうから、そのことに感謝を込めて。


 やがて母娘は立ち上がり、名残惜しげに最後にまた墓石を撫でてから、墓地を去っていく。


 どこか遠くから鐘の音が響いてくる。

 墓碑の脇に置かれたワバーハラの青い花びらは、なおも吹く夏の蒸し暑い風に僅かにざわ、と揺れている。



 アネシュカはレダと別れると、その足で王宮に向かった。ファニエルの手による自分たち夫婦の絵が飾られた王宮前広場を通るのは、ようやっと慣れた。


 広場を越して王宮の門を潜ったアネシュカは、いまも自分の職場である女子修養所に向かう。


 修養所も発足から十年を経て、少しずつ規模を大きくしている。いまではアネシュカとファニエルのほかにも数名教師を擁し、また、事務を請け負う人員も雇った。事務員として勤めているのは、かつての生徒であるオルガだ。


 オルガはあの式典での事件の後、修養所を退学し、それからほどなく、予定通り嫁いだ。しかしながらそれは幸せな結婚生活ではなく、産んだ子どもが幼くして死んだことを機に実家に戻された。そんな彼女に声を掛けたのはアネシュカだ。


 アネシュカとしては、オルガがマジーグを殺そうとしたことはいまも複雑に受け止めざるを得ない。だが同時に、彼女にも彼女なりの事情があったことに深く心を痛めていた。だから、せめてとの思いでオルガを修養所の事務員として雇うことにしたのである。


 幸いにもオルガは喜んでアネシュカの求めに応じ、いまでは有能な事務員としてアネシュカとともに働いている。


 その日も修養所にアネシュカが到着し、ベールと喪服を脱いでいると、オルガがやってきてこう告げた。


「先生、工房からトルトさんがいらっしゃっていますけど」

「トルトが?」


 慌ててアネシュカが着替えを済ませてみれば、廊下には赤髪の男性が木槌を手に、自分を待ち構えていた。


 トルトはアネシュカを認め、にやりと笑う。そして開口一番に口にしたのは、目の前の女の息子のことだ。


「よお、アネシュカ。カレルはなかなか筋がいいって工房の皆から評判だぞ。さすが、お前の息子だけはあるな」

「やだ。トルトったら」


 唐突に子どもを褒められたアネシュカはうふふ、と笑う。しかしながら母として、または絵師として、こう続けずにはいられなかったが。


「でも、だからと言って甘やかしちゃだめよ。立派な絵師に育ててよね」

「あったりめーだろ! そこんところは任せろよ、ビシバシ鍛えてやってるぜ! それはそうと……お前に頼まれていた控え室の天窓さ、修繕しておいたぞ」

「わぁ! そうなの? ありがとう、トルト!」


 思わぬトルトの言葉にアネシュカの声は躍った。途端にきらきら輝く彼女の瞳は、今もってトルトの目には眩しく映る。


 ふたりは修養所の廊下を並んで歩き出した。むろん、トルトが直したというアネシュカの控え室を見にいくためだ。

 その途中で、ふと、思い出したように、アネシュカがトルトに問う。


「トルト、そういうあなたは子どもを絵師にはしないの? もう九歳だったわよね」

「あ? 俺はそうしてぇんだけどさ、イルマがさ、絵師は稼ぎが悪いってぼやくもんで困ってるんだよ。そうだ、アネシュカ、今度ひさびさに俺んち来いよ。んでイルマを説得してやってくれねぇか?」

「奥さんの説得くらい自分でしなさいよ」

「あーっもう、相変わらずつれねぇなぁ……」


 そうこうしているうちにふたりはアネシュカの控え室の前に辿り着いた。勇んでアネシュカが扉を開け放つ。

 そして彼女は息を飲んだ。


「わぁ……っ!」


 広くもない部屋には、光が満ちていた。

 それもただの光ではない。青い光に、部屋全体が包まれていたのだ。


「これで部屋に陽が満ちて、より明るくなるだろ」


 トルトが目を見張ったアネシュカを見て、満足気に笑う。そして、それから彼は、部屋中の画板に立てかけられた無数の青い絵を眺めて、こう言った。


「やっぱり青には、光が映えるよなぁ」


 そう、部屋が青く輝いているのは、修繕した天窓から注ぐ陽の光が、部屋の至るところに置かれたアネシュカの青い絵に反射しているからに他ならない。

 

 言うまでもなく、青い絵とは、アネシュカが苦難の末に編み出した、あの青い絵具の点を主線に用いて描いた絵のことだ。ここのところ、アネシュカは時間があればこの部屋に篭って青の絵画を描き続けていた。その絵は花などの静物から、トリンの街並みのような建造物、さらには人物画にも及んでいる。その絵が集まった小部屋に天から光が差し込むことで、空間がまるで発光したかのように青く輝いて見えたのだ。


 アネシュカの編み出した技法は、すぐには周囲に受け入れられなかった。修養所の生徒でさえ戸惑ったし、画商や美術評論家のような絵の目利きからすればなおさらだった。アネシュカ当人に対して心無い言葉を投げつける者すらいた。

 つまり「これは絵などではない」と。


 しかしながら、それに異議を唱えたのがファニエル、そしてトルトをはじめとした王宮の絵画工房の絵師たちだった。彼らはアネシュカの青い絵を斬新な絵として大いに注目し、これを広めようと彼女に力を貸したのだ。

 そしていま、「青い絵」は修養所の卒業生である女性を中心に、少しずつだが学ぶ者が増えている。


 それはチェルデ=マリアドル国の美術界を揺るがすほどの動きではまだ、ない。

 だが、それは確かに、新しい芸術の胎動であったのだ。

 そしてアネシュカの瞳には、目の前で青く輝くこの空間は、まるでその象徴のように映ったのだった。


 彼女の瞳にはいつのまにか、熱い涙が滲んでいる。そんなアネシュカを見て、トルトはちいさく頬に笑みを刻んだ。そして彼はほどなく、アネシュカの肩をぽん、と叩くと、黙って部屋を出て行く。



 ひとりになったアネシュカは改めて部屋の中まで足を進め、天井を見上げる。

 視線の先では天窓が開き、そこからは鮮やかな夏空が覗いて見える。


 その天の色もまた、青かった。

 そして光がまた、天から降りてくる。


 アネシュカは胸元に指先を添えた。

 しゃらん、と軽やかな音が跳ね、マジーグの形見の瑠璃石の首飾りが揺れる。彼女はそっと瑠璃石を持ち上げ、突起に触れた。するとすぐになかの空洞が姿を現す。アネシュカは爪先を差し入れ、そこに入れておいた折りたたんだ紙をそろそろと取り出した。


 瑠璃石のなかから現れた絵は、マジーグの入れていたファニエルの手によるアネシュカの肖像画ではなかった。いまその絵は、マジーグの元にある。アネシュカはマジーグの葬儀の際、彼の手元にその板絵を託したのだ。

 そして、その代わりといってはなんだが、首飾りは自分の手元に置くことにしたのだった。

 なかに別の絵を入れて。


 アネシュカは折りたたまれていた紙をやさしく広げる。

 古い絵だから、慎重に、そして愛おしさを指先に込め、そっと押し広げる。


 広げられた紙に描かれていたのは、十五歳だった自分が描いた、あの懐かしいマジーグの寝顔だ。その顔に向かって、アネシュカは語りかける。


「ねぇ、私とあなたは、確かに光のなかにいるのよね。同じ輝きのなかを生きたのよね」


 そうして溢れる涙を拭うこともせずに、アネシュカは手にした絵を天に翳した。


 降り注ぐ光は絵を介して、ペリドット色の瞳と亜麻色の髪を、途端に眩く照らし出す。

 アネシュカは囁いた。


「私はあなたと、いまも、光のなかにいる」






 このとき、己の「青い絵」が、後世、何百年の刻を経て「アネシュカ=マジーグ技法」として大陸に広まることを、まだアネシュカは知らない。

 その名称こそは、この技法を生み出したアネシュカの名と、瑠璃石の青を使うことを提案したマジーグの名前ふたつを冠したものである。


 少女は、天と光を描き、そして歴史になった。




天を描けど、光なお遠く

〜チェルデ国絵画動乱記〜


これにて完結です。

31万字にわたるアネシュカの物語、見届けてくださりありがとうございました!

あなたの心に響く話でありましたように。


2025年7月12日 つるよしの

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