61 生きてこそ
風を切って、腹に刃を差し伸べられたかと思ったその瞬間のことだ。
マジーグは、何者かが天幕のなかに飛び込んできたのを感じとった。それも、自分の真正面に。
つまりは、剣の刃と、己の身体の間にだ。
突然のことに驚いた彼は、思わず黒い双眼を見開く。
目の前には銀髪の男がいた。そしてその男が、穏やかな声音でこう少女に声を掛けている様子が、黒い瞳いっぱいに映し出される。
「だめじゃないですか。絵師が、絵筆を握る手で人を殺めようなんて。絵師は、人を殺すなら絵筆でやるべきです」
ファニエルの表情はマジーグからは見えない。ファニエルはマジーグに背を向けていたからだ。ただ、銀髪が目の前で軽やかに揺れるのが目に入るのみである。
それでも彼が自分とオルガの間に割って入った、そのことは理解できた。
であるというのに、こんな緊迫した状況であるというのに、続いて放たれたファニエルの声も静かなものだった。
この期に及んでも、あまりにもいつもの彼だった。
そう、オルガの手によって、腹部にマジーグの剣を突き立てられてたこのときでさえも。
「それに閣下。あなたは死んではいけません。あなたには、私たちの『女神』がいるのですからね」
オルガの手からマジーグの刀が離れて、地表に落下していく。そして地を跳ねて転がる壮麗な刀の上に、ゆらり、ファニエルの身体は傾き、ゆっくり、ゆっくり、倒れ込んでいく。
それも、こんなことを呟きながら。
「これで私も、人として死んでいけるのですね。結局どこまでも私は、神にはなれなかった……天は遠い……」
「ファニエル……!」
数瞬の自失呆然から醒めたマジーグが叫ぶ。
しかしながら、その声は、崩れゆく天才絵師の意識に届くことはなく――。
――というわけでも……なかった。
いや、確かに、マジーグの叫び声は朧気になっていく意識では拾えなかったのである。
だが、それからほどなく鼓膜を叩いた声には、ファニエルは瞼を持ち上げた。
あの声だ。かつて、処刑場で己の命を引き止めたあの、声。
しかしながら脳裏に響く声は、あどけない少女のそれではなくて――。
「先生! しっかりしてください! ファニエル先生!」
琥珀色の瞳を開いてみれば、目の前に煌めいているのはペリドット色の瞳だ。それと、白い薔薇に飾られた亜麻色の髪に、紅を差された赤い唇。
気がつけばアネシュカが、地に崩れた自分を揺り動かしながら叫んでいた。
「あれ……? 私は確かに、腹を刺されて……」
「なに言ってるんですか、刺されてなんかいませんよ!」
アネシュカが呆れたような面持ちで言う。そう言われてオルガに剣を突き刺された腹部を摩ってみれば、なるほど、なんともない。少し帯がよれてしまってはいたが、それだけである。
すると、アネシュカの後ろから野太い男の声がした。彼の纏った青い上衣がやけに鮮やかにファニエルの目に沁みる。
「儀礼用の剣はなまくらだぞ。急所を狙わずに、一撃で人が死ぬような殺傷力はない。だいたい、刃に血さえついてないぞ。腹に食い込んだだけだ」
マジーグはファニエルに剣を翳して見せる。たしかに彼の言うとおり儀礼の剣の剣先は細いものの、丸みを帯びている。
ファニエルは身体を起こしながら、呟いた。
「確かに、気が遠くなったんですけどね。これで天にやっと召されるとばかり」
「それはお前が剣を突き立てられた衝撃で倒れたとき、頭を少し打ったからだろう。大丈夫だ、軽い脳震盪でしかない」
マジーグがそう言いながらファニエルに手を貸す。よろよろとファニエルは地表に立ち上がる。
そうして、可笑しそうにこう、唇を歪めた。
「私としたことが、咄嗟に身体が動いちゃったんですよね。なんの損得もなしに閣下の身代わりになることで、せっかく人として死ねると思ったのにな……ラーツ・ファニエルという芸術が、そうやって完成するのも、なかなか意外で面白いと思ったんだがね」
「はあぁぁぁ?」
そのファニエルのぼやきとも独白ともつかぬ台詞に、途端に眉を吊り上げた者がいる。アネシュカだった。
「あのですねえ……ぜんぜん面白くありませんよ……ファニエル先生、いい加減に周りの人の身になってもらえませんか……?」
「こりゃまた、手厳しいな」
脱力したような、それでながら詰問するような弟子の言葉に対し、師は肩をすくめて応じる。するとアネシュカはさらに激しくファニエルに噛みついたのだ。
そう、あの処刑台の前での憤りから、十数年の時を経て、ようやく言葉になった思いの丈を、爆ぜさせんとばかりに。
「手厳しくないですよ! ファニエル先生、今度こそ、私……今度こそ、言わせてもらいますからね!」
アネシュカは姿勢を正す。そして、ファニエルの琥珀色の瞳をまっすぐ見据える。
それから、彼女は噛みしめるように、どこまでも真摯な声音で、こう述べたのだった。
「先生、私、分かったんです。生きてこそ、人なんです。そして、生き抜いてこそ、芸術は完成されるのだと。それこそが、ファニエル先生が前仰っていた、絵は『描く』ことだけが絵じゃない、ってことなんじゃないかと思うんです。つまり……絵師が芸術家たるには、ちゃんと日常を生き抜かなきゃいけないってことです」
思わず目を細めたファニエルの視線の先で、亜麻色の後れ毛がふわり、揺れる。真剣この上ないペリドット色の瞳が煌めく。
アネシュカは、いまや、必死の思いで言葉を繰り出し続けていた。ファニエルに伝わるように、どうか伝わるようにと、自分の絵師としての情熱すべてを込めて。
「だって、だって、絵を生むのは技術だけじゃないですもの。日々の経験から、絵って生まれるんですもん。私はこの世の美しいものを描き留めたい、だから絵を描いていたい、そう思いますけど、そのためには、日常のなかで感情を揺り動かさなければならない。もちろん、美しい、って感情だけじゃないです。ご飯が美味しくて、空が綺麗で気持ち良くて、大切な人が愛おしい、そういうのだって、同じです。つまりは、そうやって私が毎日、見て、暮らして、そこから受け取った感情あってこそ、絵は描き出せるんですよ。となると、生きることそれ自体が絵で、即ち、芸術なんじゃないでしょうか?」
ファニエルは弟子から漲る生気の眩しさに、さらに目をすっ、と窄める。
そして、そんなファニエルの前で、アネシュカは、こんな言葉で話を締めくくったのだ。
彼女としては、あの日から、これこそがずっと師に告げたかったことだった。
それだからこその、これ以上ない毅然とした口調だった。
「だから先生、今度はちゃんと、ご自身の人生を生きてください」
弟子からの強い言葉を受けて、ファニエルは暫し無言でいた。
だが、厳しいとも取れる内容とは裏腹に、その顔は穏やかだ。苦々しく思っているわけでないことを示すように、琥珀色の瞳は柔らかな光に揺れ、唇は緩やかに曲線を描いている。
ファニエルは思う。アネシュカの言葉に対してどう答えるべきかを。または、どう反論すべきかを。
あのとき、それから、そしていま。
全ての自分の行動に意味はあった、それだけの芸術的思考があった、そのことはどう言われてもファニエルのなかでは揺るがない。
しかし同時に、アネシュカの言うことにも一理あるとも思う。それがなぜかと考えたとき思い至ったのは、自分がアネシュカをひとりの絵師として心から認めている、その事実である。
ファニエルは銀髪を優雅に揺らしながら、微笑んだ。
あの日、アネシュカとレバ湖畔で出会い、彼女の才能を認めて弟子に迎えたあの日から、とてつもなく刻は経過し、そしてアネシュカは逞しく成長した。そのことがなにより誇らしかったからである。
そして、自分がアネシュカを弟子にしたことは間違いなかったのだと、十数年の数多の逡巡と愛憎を経て、ようやく確信する。
だから、ファニエルは万感の思いを込めて、こうとだけ言った。
自分も、アネシュカの瞳を真っ向から見つめて。
「アネシュカ。お前は実に、立派な絵師になったね」
アネシュカが突然の師の褒め言葉にぱちくり、瞳を瞬かせる。
そして彼女がなにか答えようとする前に、ファニエルはふわり銀髪をなびかせ、身を翻して天幕から出ていった。
こう、チェルデ人とマリアドル人の夫妻に言い残して。
「さあ、音楽の様子からするに、式典が始まった模様ですよ。私はあなたたちの出番より先に挨拶がありますゆえ、もう行かせて頂きますね。閣下も身体が大丈夫なら、遅れませぬよう」
ファニエルが出て行った天幕のなか、ふたりきりになったアネシュカとマジーグは、思わず手を取り合う。
おそらくまた妻に心配をかけてしまっただろう、そのことを申し訳なく思いながらマジーグはアネシュカの手を握った。しかしながら目の前の妻にまず尋ねたのは、己を殺そうとした少女のことだ。
「その……彼女は大丈夫か?」
するとアネシュカが哀しそうに笑った。
「ああ、オルガはね、ちょっとまだ興奮が酷いから、修養所に戻して休ませているわ。私の元に泣きながら駆け込んできたとき、だいぶん動揺していたものね。私もあの子の事情を何も知らなかったとはいえ、辛い思いをさせちゃったわ……でも、それはそれとして……エド」
そこでアネシュカは言葉を区切る。そして、マジーグの頬を撫でながらこう告げた。その眼差しは先ほどの師に向けたものと同じくらい、真摯だ。
「エド。あなたは、ちゃんといまを生きていくつもりなのね」
外からはファニエルが告げたとおり、式典の開始を受け、賑々しい音楽とともに、観客の歓声と拍手が聞こえてくる。
その最中、真剣な光を讃えた瞳を真っ向から向けられ、その眩しさに、マジーグがごくり、と唾を飲む。
「そうよ。どんなに誰かを傷つけた過去があったって、あなたは、生きることを諦めちゃ駄目。むしろ、それだからこそ、いまを受け止めて生きなきゃいけないのよ」
アネシュカの口調は穏やかだ。
だが、その言葉からは、マジーグを思いやる気持ちがひしひしと滲み出ており、心にひたひた、ぬくもりが沁みる。耳を打つ喧騒を意識から消し去るほどに。
「私は、あなたがそれをわかってくれたのが、とてもうれしいの」
あたたかく、真摯で、力強い言葉にマジーグは黒い双眼を優しく瞬かせ、皺の多くなった頬に柔らかな笑みを刻んだ。
そして、十数年前の彼女との出会いの時を思い出す。
あれは、たしかチェルデ王宮での工房前でのことだ。アネシュカを襲った兵士を一閃の元に切り捨て、名も尋ねずにその場を去ったあの懐かしい夏の日。
「あなたは、ちゃんと生きている。そして、私といっしょに、生きていくのよ。これからも」
あれから長い時が経った。十五歳のあどげない絵描きの少女は大人になり、二十六歳のチェルデ総督だった自分は老いた。さらに、互いの立場はころころと変わった。
それでもなお、自分たちの間に流れるものは変わらぬ信頼と愛情だ。
そしてマジーグは改めて思ったのだ。老い先短い身ではあるが、命尽きるその時まで、愛しく尊いこの存在と共に生きていきたいということを。
そして、最期はただただ、彼女に感謝もしくは愛を伝えて、己はこの世を去りたいと強く望む。
そうしてこそ、自分の人生は完結できるのだ。それこそが、己が生き抜いた証なのだ。
――そうだ。俺は、生きていていいのだ。
マジーグの全身の臓腑に、何十年の時を経てようやく掴み取ることが叶った確信がじわじわ広がっていく。そう、自分の人生は間違いばかりではなかったと強く信じる気持ちが。
それは彼にとって、長きに渡った内なる戦いが終わった瞬間でもあった。
戦いを終えた深い感慨を込めて、マジーグはただ一言口にする。
アネシュカの手を握り返しながら。
「そうだな」
「そうこなくっちゃ」
アネシュカが破顔した。
その笑顔と答えがいかにも彼女らしくて、マジーグの胸中はさらに熱い血潮に満たされた。
そのとき、式典が行われている舞台から、観衆がファニエルを喝采を持って讃える様子が聞こえてきた。
となれば、自分たちの出番も、すぐそこだ。
アネシュカはマジーグのいかつい手を握り返しながら、微笑んだ。
「じゃあ……行きましょうか、エド」
「そうだな。ともに行くことにしよう、アネシュカ」
そして、ふたりは赤と青の衣装の裾を翻すと、手に手を取り合い、歩み出ていく。
花吹雪が舞う舞台へ向かって。
ふたつの影を、ひとつに溶け合わせながら。
さらには、その先の光のなかへ。




