60 最後の事件
それはとても爽やかな秋晴れの空だった。透き通る青の下、その日トリンはチェルデ=マリアドル国建国式典を迎えた。
朝から王宮ではハニーンを迎えての政治的催しが開催される一方、王宮前広場では市民も観覧可能な儀式の会場設営が行われている。
広場には、かつてファニエルが手がけ、その後工房の弟子たちにより復興が手がけられた創世神話の壁画が飾られている。その壁の向かいにあたる広場の対角には、白く大きい麻布を掛けられた大きな板が置かれていた。
それこそが、ファニエルがこのたび描き、この日式典内で披露される予定の板絵であった。
アネシュカとマジーグは王宮内にて壮麗な衣装に着替えを済ませ、広場内の控え室である天幕のなかにいた。
ふたりとも落ち着かぬ顔つきである。今日の出席を快諾したマジーグでさえ、このような華美な姿を民衆に晒すことは、いざとなるとと緊張で身が固くなる。アネシュカに至っては、じっと座っていることもできず、天幕のなかをうろうろしている。
彼女が落ち着かぬ理由は他にもあった。
今日の式典には修養所の生徒たちも手伝いに駆り出されているのだ。主な仕事は出席者の給仕などのたわいないものではあったが、少女たちが上手くやれているか、アネシュカは気が気でない。
しかしながら生徒らは師の心配を意に介することもなく、元気よく動きまわり、果てにはアネシュカの天幕を覗きに来てははしゃぐ始末だ。
「アネシュカ先生、やっぱり綺麗!」
「旦那さまといっしょの晴れ舞台なんですから、転ばないようにしてくださいね!」
「あのねぇ……私のこと気にするくらいなら、そのぶんきちんと仕事してよねぇ!」
アネシュカの苦言に少女たちは、はあい! と笑って駆け去っていく。それは彼女らの年齢ならではの、なんとも若々しく賑やかな有様だった。
すると入れ替わるように、金髪の偉丈夫が赤いマントを揺らしながらやってくる。赤の刺繍が鮮やかな黒の上衣にはいくつもの勲章が煌めき、そしてマジーグと同じように儀礼用の宝石が輝く剣を帯びたその姿は、チェルデ人の最高位にある者としてこれ以上なく威厳に満ちている。
「ロウシャル閣下!」
「おお、ふたりとも、実に優美だな。まさに男神ガランと女神バルシだ。なるほど、ファニエルの見立てに間違いはなかったようだ。実に新国家の誕生に相応しい」
ロウシャルは、ははは、と豪快に笑いながらマジーグとアネシュカを褒め称えた。ふたりはいよいよ恐縮して、アネシュカは髪に添えられた白い薔薇を、マジーグはひとつに結った黒髪を、なんとなしに触って気を紛らわす始末だ。
そんな夫婦の落ち着かぬ様子に、ロウシャルがまた顔に笑みを刻んだとき、またも天幕の外からわいわいと少女たちの声がした。
それも、どうやらアネシュカの名を呼んでいるらしい。
「おお。奥方、外で生徒たちが呼んでおるぞ」
「あっ……はい! もう、あの子たちったらまた、なんなのかしら……」
アネシュカはロウシャルの声に慌ててドレスの裾を掴み、外へ飛び出していく。華麗な赤い絹の生地と何重もの白いレースがふわり揺れ、男ふたりの瞳には鮮やかな残像が映し出された。
そうしてから、ロウシャルが、人知れず声を潜める。
「さて……マジーグ殿には知らせておくか」
こういう話し方をされるときは、いい話ではないことを、マジーグはそれまでの人生からよく知っている。マジーグは眉を顰めながら、ロウシャルに向き直った。
男ふたりの緊張した視線が音もなく絡み合う。
「反マリアドル人勢力の一味が、観客を装って観覧席に入り込んでいたとの報告が入り、それらしい数名を拘束している。むろん、貴殿を狙ってのことだ」
「……事前に察知して頂き、ありがとうございます」
マジーグは深々と頭を下げた。深い青の上衣に結った黒髪がばさり、と揺れる。
そんな彼に向けるロウシャルの声といえば、あの病室でのときではないものの、いささか厳しい。
「気を抜かないでいてほしい。その剣では心もとないかもしれぬが、貴殿の腕ならなんとかなろう。とにかく、万が一ということもあるので、奥方の安全も含めて気を配ってくれ」
「承知いたしました」
マジーグは再び礼をした。
右手は無意識のうちに腰に下げた煌びやかな剣の柄に触れていた。
それを認めたロウシャルが、大きくひとつ頷き、天幕を出ていく。その瞬間、秋晴れの空から注ぐ日差しが差し込み、ゆらり、影と光をマジーグの彫りの深い顔に揺らめかした。陰影の狭間で、彼は大きく深呼吸する。
入れ違いに戻ってきたのはアネシュカだ。彼女は赤と金糸の刺繍が躍る深紅のドレスの裾を翻しながら、マジーグに話しかける。
「エド! 生徒に息抜きにお茶でもどうですか、って聞かれたんだけど、淹れてもらったら、飲む? ……あれ? 閣下はお戻りになったの?」
「ああ」
マジーグはアネシュカの質問に、短く答えるに留めた。しかしながら、その夫の顔は、どこか先ほどまでとはまた違う緊張に漲っているようにアネシュカには見える。なので、彼女は訝しげに首を傾げ、尋ねた。
「エド、なんかあった?」
対してマジーグはまた短く応じるばかりだ。
「なんでもない。……ああ、茶ならありがたく頂こう。喉が渇いてるから、助かるな」
彼はそうちいさく微笑んだ。妻を心配させるわけにはいかない、そう思えばこそだった。
それでもなおマジーグの指先は、瑠璃石が輝く剣を擦っていた。
ほどなく、茶器を盆に載せた少女がなかに入ってくる。栗色の髪を三つ編みにしたあどけない少女だ。
「あら、オルガ。ありがとう」
オルガの盆を手にした両手は微かにだが震えている。足取りもぎこちなく、表情も固い。さては、彼女も式典の場の空気に飲まれているのだろうか。アネシュカはそう思い、思わずこう生徒に微笑みかけた。
「オルガ、あなたが緊張することはなにもないのよ。いつもどおりやってね」
対してオルガは強張った笑みでぺこり、礼をするのみだ。
やはり家でのことが心に暗い影を落しているのだろうか。だが、そう案じたところで、そのことをいま口に出すのは、アネシュカには憚られた。
なので彼女は盆に腕を伸ばす。
するとオルガが、慌てたようにこう叫んだ。
「あっ、アネシュカ先生は白の茶器の方をどうぞ!」
「あら、エドのとなにか違うの?」
「マリアドル産の茶が手に入りましたゆえ、旦那さまにはそちらをお持ちしました」
オルガの思いがけない言葉に、アネシュカは目を輝かせる。生徒の夫への心遣いがこれ以上なく嬉しかったからだ。
そして同時に、好奇心が昂る。
「そうなの! ありがたいわね、エド。そういえば私、マリアドルのお茶って飲んだことないのよね! 味見してみてもいいかしら?」
そう言いながらアネシュカは白い器の隣に置かれた青い茶器を手に取って、口に運ぼうとした。
しかし、その瞬間のことだ。マジーグがその手を強い力で掴んだ。そして、虚を突かれるような面持ちになった妻の手のひらから青い茶器をさりげなく自分の手に移すと、一気に喉に茶を流し込む。
果たして、突然のマジーグの挙動に目を丸くしたアネシュカに放たれた言葉はこうだった。
「あいにくこの茶はな、だいぶ苦いんだ。甘党のお前の口には合わんよ」
「えー、エド、なにそれ! とんだ子ども扱いね、せっかくだったら飲みたかったな!」
アネシュカは子どものように頬を膨らましてむくれる。
対して、マジーグはこう笑いながら語を継いだ。
「また機会があったらな。さて、そろそろ式典が始まるな。俺は少し衣服を整えてから行くから、茶を飲み終わったら、アネシュカ、先に行っていてくれ」
「そうなの? じゃあ私、先に出てるわね。オルガ、お茶ありがとう」
アネシュカは紅い唇を動かし、それから彼女も白い茶器を傾けて茶を飲み干す。
そうして、アネシュカが天幕から去っていく。
その後ろ姿が視界から消え失せた刹那、マジーグはゆっくりとオルガに向かいあった。鷹のような黒い双眼を鋭く光らせて。
それから、目前にいまやはっきりと身を震わせて立ち尽くす少女を低い声で質す。
「水銀だな。絵具に使うものを仕込んだか」
毒を飲んだというのに倒れもしない男を前に、オルガの顔色は蒼白だ。マジーグは少女を睨みつけながら、一歩一歩、じりじりと躙り寄る。
式典の始まりが間近なのを告げるように、外からは楽団による音楽が流れてくる。しかし、その喧騒とはまるで世界が異なるかのように、天幕のなかには暗い空気が沈澱していた。
それに皸を入れるかのような口調でマジーグが語を継いだ。
「俺は多少の毒なら、耐性があるんだ。昔、タラムに仕込まれたからな。そういう仕事をやってきた。だから毒の匂いも、茶に溶かしたときの色味も、すぐにわかる」
一歩一歩、足を前に進めながら、マジーグは腰に帯びた剣に右手を回す。次の瞬間、青い上衣が宙に跳ね、マジーグは、鞘から抜き放った刃を少女の喉元に突きつけた。
広くもない天幕のなかで、マジーグとオルガの視線がもつれ合う。
そしてほどなく、白刃を挟んで、ふたつの声が爆ぜたのだった。
「お前は俺を殺しに来たな。組織的なものか? アネシュカの生徒を装って、この場に入り込んだのか?」
「そんなのじゃないわよ!」
三つ編みを激しく揺らしながらのオルガの苛烈な叫びにマジーグは黒い眉を顰める。そして、続けて放たれた言葉を耳にすることで、彼は雷に打たれたような衝撃を受けることとなるのだ。
「私の死んだ父は写本工房で働いていた! 創世神話の本を作っていたのよ! そのおかげでお前に絞首刑にされたんだ! お前のせいで! 私が生まれる直前に!」
思わぬ少女の素性を告げられたマジーグは、その場に立ちすくむ。そして、脳裏に浮かぶのは十数年前、チェルデ総督を務めていたときの記憶だ。
たしかに彼は、そのような命を下した憶えが、あった。
いや、間違いなく、あった。忘れるはずはなかった。そして、忘れてはいけないことだった。
だからこそ、どうしようもなく心が罪の意識に、急速に黒く濁った。
どうしようなく心の臓が、ぎりぎりと軋んだ。
そんなマジーグの前で、オルガといえば泣き叫んでいた。三つ編みと肩をさらに激しく震わせて、顔を涙でぐしゃぐしゃにして、マジーグに激情を吐き出し続けていた。
「私だって……私だって! 穏やかに暮らしたかったのよ、父がいない苦労なんてせずに! そうすれば、もっと幸せだったかもしれないのに! もっと豊かだったかもしれないのに! そうすれば、嫁ぎたくもない相手に嫁ぐのだって、少しは諦めがついたかもしれないのに……! みんな……みんなお前のせいよ!」
オルガの激白がマジーグの鼓膜を打つ。
天幕の外から流れる音楽はいよいよ始まる式典を盛り上げるべく、華やかに軽やかに響いてきていた。だが、いまのマジーグには、全てが遠く、虚ろに聞こえる。
そして胸で反芻する。自分がどう生きようと、逃れられないものはある。そういう覚悟を。
――それでも。
幾許かの沈黙ののち、マジーグはこう語を零した。ちいさな声で。だが、オルガの泣き腫らした瞳をまっすぐに見据えて。
「それは……申し訳ないことをした。だが、すまない。それでも俺は、いまを生きたいんだ。生き抜きたいんだ。だから、俺はいまここで、お前に殺されるわけにはいかない」
憎き敵が、静かにそう自分にむけてそう述べたのを聞いて、オルガの顔はますます強張った。
「勝手なことを、と思うことだろう。だけど、それが俺の本心なんだ。たしかに、間違ったこともたくさんした。それでも、俺は生きていきたいんだ」
「なにを……!」
そのとき、マジーグの身体がふっ、と後ろによろめいた。耐性があるとはいえ、水銀を飲まされた身体が不意に弛緩したのだ。
一瞬、そのほんの一瞬だけ、マジーグの身体から力が抜ける。力が抜けた右手から、儀礼用の壮麗な剣が、ぽろりと離れる。
そして、剣は地表をからからと転がっていく。
オルガの足元へと。
そうして、マジーグの視線の先で、オルガが素早く剣を拾い上げた。
次の瞬間、己の胴を狙い、なにかが風を切って向かってくる気配をマジーグの意識は感じとる。
秋の陽は天幕の隙間から眩しく降り注ぎ、音楽はなおも高らかに鳴り響いている。




