58 あなたの国の深い青
ファニエルの絵のモデルを務める仕事は、結局その日の午後遅くまでかかった。
夕闇が迫るなか、アネシュカは豪奢な衣装を急いで脱ぐと、預かってもらっていた子供たちを迎えに行く。そして、また騎馬兵の護衛のもと、茜色の空の下、馬に揺られて四人で家に戻る。
帰路、カレルはマジーグの膝の上で、珍しくはしゃぎながらその日のことを父に話していた。
「今日ね、いっぱい絵をかけた! あのね、まちがえて手に絵の具がついちゃったんだよ、でも、それでね」
「それで?」
「てのひらを紙にね、てんてん、てんてん、っておしつけたら、なんだかもようになってね! おもしろかったー! あとで父さんにも見せてあげる!」
よほど楽しかったのか、いつもおとなしいカレルにしては口数が多かった。それがなんとも愛おしくて、マジーグは無言で手綱を握ってない方の手で、カレルの亜麻色の髪をわしゃわしゃ撫でる。
撫でながら、隣を馬で進む妻にそっと視線を投げる。
アネシュカは一見いつもと変わらぬ顔で、眠ってしまったレダを馬上にて抱き抱えている。だが、マジーグは、気がかりだった。彼は気づいていたからだ。今日、アネシュカの顔からは時間が経つにつれて、笑顔が消えて行っていたことを。
それも、マジーグが感じ取るに、慣れない大役を務めた疲れからではなさそうだ。
それからもマジーグは妻の様子をちらちらと窺っていたが、家に帰りつき、家族で賑やかに夕食を終えても、アネシュカの面持ちはどこか切なげで、冴えないように思える。訝しがっているうちに夜は更けていき、マジーグはひとまずカレルとレダを寝室に連れていく。
だが、レダはすぐに寝ついたものの、カレルはマジーグに先ほど話した絵を興奮気味に見せびらかしてやまなかったので、寝かしつけるには結局いつもの倍以上時間がかかってしまった。
ようやく寝息を立ててくれたカレルからそっと離れ、マジーグはカレルの絵を手にしたまま、台所に戻った。すると、アネシュカがテーブルの前に座っている。マジーグには背を向けている格好なので、いま彼女がどんな顔つきかは彼には見えない。
なので、静かに声を掛けてみる。
「アネシュカ」
対して答えは、ない。
ただふわり、亜麻色の髪が揺れ、頭が下を向いただけである。
マジーグはアネシュカに近づき肩に手を置く。すると、彼女の身体が小刻みに震えていることがわかり、マジーグは息を飲む。
アネシュカは泣いていた。
彼女の手元には木炭、それと何かの線をひいた帳面が広げられている。そのうえに、涙の雫が、ぽつぽつと落ちては、滲んでいた。
「……アネシュカ」
「私、今日のエドがとても素敵だったから……描き留めておきたいと思ったのよ……あの青い衣装、銀糸の刺繍、瑠璃石の輝く剣、それに馬に乗るあなたの凛々しい横顔。美しいな、って思ったものを描き留めておきたいと思ったの。それが私が絵を描く理由だとわかったから……そうして私は生きてきたんだから……」
アネシュカは訥々と言葉を零す。嗚咽する。
震える指先で、帳面に木炭で描いた数多の線をなぞりながら。
そして不意に、その言葉が、爆ぜた。
「でも、描けないの! 全然思ったとおりの線が引けないの……! エド、私悔しい。やっぱり教えるだけじゃいや! 絵を描きたい!」
そう泣き叫びながら、アネシュカはテーブルに突っ伏した。
マジーグはそんな妻の姿に心痛を禁じえない。だが同時に、今日に至るまで、彼女が弱音を口にしようとしなかった事実に思い及び、彼は妻の頭を撫でながら、いま自分には何ができるか、なんと言葉をかければいいかを考える。
そうしてから、マジーグは咽び泣くアネシュカの肩に手を置くと、こう声をかけた。
「アネシュカ……泣きたいときは、泣いていいんだ。アネシュカ、頑張りすぎるな。俺がいる、お前には俺がいる」
「……エド」
「お前は俺に辛いことを話せと言ったが、俺だってお前の苦しみを分かち合いたいんだ。俺は……俺は、お前に五年もひとりで絵を描けなくなったことを抱えていてほしくなかったよ。確かに俺は頼りにならん男だが、そのくらいのことはさせてほしかった。だからこれからは、どうかそうさせてくれ」
静かで、でもなによりも自分を思いやる気持ちに溢れた夫の言葉を耳にして、アネシュカは顔を起こした。そして、涙で潤んだペリドット色の瞳でマジーグを見上げる。
口から溢れたのは、謝罪の言葉だ。
「ごめんね、エド」
アネシュカはマジーグに力無く囁く。
「私もあなたを傷つけていたのよね。私……口に出すのが怖くて……口に出したら本当に、私の人生から絵がなくなちゃうみたいで怖くて……あなたに言えなかったの。あなたが頼りないからじゃ、ないわ」
ふたりは顔を見交わした。
泣き濡れた瞳と、それを愛おしげに見つめる黒い瞳が至近距離で交差する。それからふたりは、どちらからかともなく、互いの胴に腕を伸ばし、抱き合った。まるでそうすることで互いの気持ちを交換できるかのように、強く抱きしめ合った。
どのくらいそうしていたのか。
アネシュカは、マジーグの手に一枚の紙が握られていることに気がついた。なので、彼女はマジーグから身体を離しながら、その紙を覗き込む。
「エド、その紙は?」
するとマジーグが微笑みながらアネシュカにそれを手渡す。
「ああ。これは今日カレルが描いた絵だそうだよ。なんでも手についた絵の具を押し当てて描いたんだとか。子どもって、面白いものだな」
アネシュカは我が子の描いた絵を手にして、それを眺める。それは、絵といっていいか迷うような、煩雑な模様が連なっているだけのものだったが。
そう、それは、押しつけられた手の跡が連なり、まるで一本の線のようにも見えるものだった。
アネシュカはそのことに気づき、目を見開いた。
それから、脳を稲妻の如く駆け巡った天啓に、心を激しく震わせる。
「……そうよ……」
アネシュカは呟いた。昂る気持ちを、口から溢れ出させるかのように。
「線を描くために必要なのは、線だけじゃない……そうよ、点でも描けるんだわ……なら、もしかしたら……」
次の瞬間、アネシュカは勢いよく椅子から立ち上がるや、家の扉に走り寄り、それを開けると庭に飛び出した。それから、どうやら納屋にしまっておいたらしい、かつて工房で使っていた愛用の筆と黒の固形絵具を手にして再び家に飛び込んでくる。
そうしてから彼女は、突然の妻の行動に唖然としている夫の前で、帳面に向かい筆を振るいだした。
息を飲むマジーグの前で、アネシュカは絵筆を動かす。彼女が帳面に描いてみせたのは、いくつもの小さな点だった。それらを腕を細かく動かしては、帳面の上に次々と置いていく。
やがて、その点は連なり、一本の線のようになっていく。
だが、アネシュカは、それを数回繰り返したところで、首を横に振った。
「だめ。点の集合じゃ、やっぱり線にならない……。それに黒と黒の重なりだと、どうしても《《だま》》になっちゃって、とても絵の主線にはならないわ……」
妻の小さな声を聞き、マジーグは彼女がなにをしようしとしてるのかようやく悟る。
そして、彼は、ふと思いついたことを口にした。
「じゃあ……青はどうだ?」
アネシュカがマジーグの顔を見上げる。これ以上なく真剣なアネシュカの視線を前に、マジーグはやや慌てながらこう語を継いだ。
「あ、いやいや、俺のような絵の素人には詳しくはわからぬが、青は黒ほど暗くないから、重なり合っても黒のようにはならないのでは……と思ってな」
「……青……」
「たしか、カレルに買ってきたマリアドル土産の青の絵具があっただろう」
そう言いながらマジーグは部屋の木棚に近づき、そこに置かれていた小箱を取り出した。そして、それをアネシュカに手渡す。
箱を開いてみれば、そこには深い青の絵具が詰められている。
あの青だった。
その日見たばかりの、あの、マジーグが纏っていたマリアドル風上衣の、艶やかで美しい青そのものだった。
その夜、アネシュカは夢中になって絵筆を振るった。青の点を帳面に重ね続けた。数えきれないほどの、点を。点の大きさ、小ささ、打つ強さ、弱さ、さらには濃淡をも変えて、いくつも、いくつも。
アネシュカがついに満足いく「線」を帳面に描くことができたのは、夜明けが近くなってからだった。
そのときアネシュカは、一睡もせずに黙って目の前で自分を見守ってくれていたマジーグに向かってこう叫びながら飛びついた。
「ねぇ……エド! 私、描ける! こうしていけば、思い通りの線が描ける! また絵が描けるわ!」
「すごい、すごいぞ、アネシュカ! お前はやはり世界一の絵師だよ!」
マジーグもそう叫びながら、胸に飛び込んできたアネシュカをきつく抱き留める。皺の多くなった顔をさらにくしゃくしゃにして笑い、妻を褒め称える。黒い双眼を熱く潤ませながら。
窓の外の空は曙に染まっている。
差し込む夏の朝の光のなか、ふたりはただひたすらに、喜びを分かち合った。
新しい一日が、また、始まろうとしていた。




