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53 マジーグ、最悪の夜

 壊された扉にトルトが間に合わせの板を渡し、ひとまずの修繕をしている間、アネシュカはずっと部屋の床に座り込んでいた。五月末の初夏ではあるが、夜となれば吹き込む風は冷たい。


「カレルとレダは、とりあえず俺の家に置いてるよ。寝かしつけてからここに来たんだ。あいつら、こんなことになってるのも知らねえで、すやすやといい寝顔してやがる……」


 トルトの呟きを聞きながら、アネシュカは亜麻色の髪を微風に流し動けないでいた。指先といえば先ほどから赤黒く汚れた床を力無く摩っている。その赤はマジーグが吐いたと思われる血痕だった。


 それでも次にトルトが溢した言葉に、アネシュカの背は瞬時に跳ねた。


「軍服を着ていたってことは……軍の奴らだな。だったらトリンの軍詰め所に連れて行ったのかもしれない」


 途端に我に返ったアネシュカは、飛び上がるように立ち上がり、外に向かって駆け出そうとする。

 だが、その前にトルトが立ち塞がった。


「そこを退いてよ! トルト」

「アネシュカ、あいつのことは諦めるんだ」

「嫌。諦めないし、エドが死んだら、私も死ぬ」

「馬鹿言ってんじゃねえよ!」


 目を怒らせて放たれた苛烈なアネシュカの言葉に、トルトはそれ以上の激情をぶつけた。彼はアネシュカの両肩を掴み、激しく彼女を揺さぶりながら、こう怒鳴りつける。


「お前、カレルとレダ、どーするんだよ? あいつらを放りだしてお前らだけ死ぬのか? そんなこと許されるわけねーだろうが!」

「そりゃあそうだけど! 私、エドがいなかったら生きていけない!」

「俺が! いるだろ!」


 唐突にトルトの口から爆ぜた言葉に、アネシュカは瞳を見開く。

 息をのみながら目前のトルトを見返してみれば、彼の顔もまた震えていた。それから、トルトは両手までも震わせながら、息も切れ切れに、こう語を吐いたのだ。


 ずっと、ずっと、長らく胸に秘めていたアネシュカへの思慕を、よりによってこんな場面で明かすことになるとは、と半ば呆然としながら。


「こんなときに言いたくなかったけどさ……俺だってお前のことが、ずっと、ずっと好きなんだよ……あいつに負けないくらい好きなんだよ、だから生きてくれよ……俺のことはどうでもいいけど……アネシュカ、お前は生きなきゃだめなんだよ……」

「……トルト……」


 夜の丘の上の家を沈黙が支配する。それからトルトはアネシュカの肩から震える手を離すと、口を噤んで黙々と扉に板を打つ。アネシュカといえば、よろよろと室内に身を戻し、台所の椅子に座り込み、荒ぶる呼吸を整えている。


 テーブルに置かれたカンテラの光に引かれたのか、羽虫が一匹紛れ込んで羽音を響かしているのが、やけに大きく鼓膜を擽る。


 やがて、なんとか亀裂を塞いだ扉を嵌め直したトルトが、アネシュカに静かに問うた。


「それはそうと、お前、どうするんだよ……この家にいちゃ、危ねえぞ。また奴らが来ないとも限らない」

「うん……」

「なあ、ほとぼりが過ぎるまで、俺の家来いよ。狭いけど。カレルもレダもいつまでもお前の顔が見えなきゃ不安がるだろ」

「そうね、あの子たちにまで辛い思いをさせちゃいけないわね」


 アネシュカはちいさく頷いた。

 そうしてから、寝室に足を運び、当座の衣服などの荷物をまとめる。むろん子どもたちの洋服もだ。

 台所に戻りそれらをトランクに詰めるアネシュカの顔はなおも悲痛に引きつっており、いつもの明るい彼女を愛おしく思っているトルトとすれば、胸が潰れる思いだ。


 アネシュカはマジーグの衣服もトランクに入れていた。彼女からすれば、それだけがこの酷い現実に抗う行動だった。反対に言えば、いまの彼女にできることは、そのくらいしかない。


 荷物を手に、家の外に出てみれば、まだ花の蕾も付いていないワバーハラの茂みが、黒く、ざわわと風になびくのが視界に入った。

 考えたくなかった。認めたくもなかった。このささやかな庭で、あの愛しい男と青い花を見ながら安らぐひとときが、幻のものになろうとしていることについては。



 トリンのトルトの家は、王宮前広場から二区画城門の方向に下った路地にある。靴屋の二階にあるちいさな部屋だ。

 急遽片付けた痕跡が残る部屋のなかに寝台はひとつしかなく、そこを我が子ふたりが占領して眠りこけてるのを見て、流石にアネシュカはトルトに申し訳なく思った。だが、トルトは気を悪くした様子もなく、アネシュカに話しかける。


「お前ら三人で寝ろよ。俺は床で寝るからさ」

「ごめん」

「謝ったってどうしようもねぇことは謝るな」


 それだけ言ってトルトは床に寝転ぶ。予備の毛布こそ敷いてはいたが、それでも冷たいだろう。アネシュカは気にかかったが、口にはせず、幼子ふたりの隣に横になる。


「血濡れの宵」とのちに語られる夜の続きにしては、静かだった。


 いまこの瞬間もマリアドル人街は燃えているのだろうか。マリアドル人が殺されているのだろうか。考えるほどに目は冴え、とても眠れそうにない。

 そしておのずとマジーグがいまどうしているかに思考が及ぶ。


 結局アネシュカは一時間も経たぬうちに身を起こした。そして、トルトと子どもたちを起こさないように寝台から降り、トランクを開ける。そしてマジーグの着替えを取り出す。


 アネシュカが衣服を胸に抱えて、そろそろ階段を降りていく音を、トルトは床に横たわったまま耳にしていた。やがて足音が石畳を走り去るに及び、薄目を開けて毛布の上でちいさく呟いた。


「気を遣ったつもりだろうが、ばればれだよ……アネシュカ。まあ、お前はこんなときにじっとしていられるような女じゃねーことは、百も承知だけどさ……」


 時刻は未だ夜半。

 日付すら変わっていないトリンを包む闇は暗く、濃い。



 アネシュカは軍の詰め所の面会室らしき一室にいた。 


 詰め所の警備をしていた若い兵士に駄目元で事情を伝えれば、幸いなことに彼はアネシュカに深く同情してくれ、なんとか便宜を図ろうと中に通してくれたのだ。マジーグの素性についてはだいぶんぼやかした説明とはなったが。


 ただし、こんなこともちいさな声で零しながら。


「マリアドル人襲撃は軍の跳ねっ返りがやったことらしくて、実のところ俺たちも実情は知らされていないんだ。だが、軍の上層部も関わっているみたいで、どこまで要望に応えてやれるかはわからないんだよな」


 それでもアネシュカにはありがたい心遣いだ。彼女は心を逸らせながらマジーグと会えるときを待ち望む。いきなり解放はされずとも、せめて着替えの衣服は渡したかった。彼女は膝の上に載せていたマジーグのシャツを落ち着かない気持ちでそっと撫でる。


 ――エド、連れて行かれるとき、怪我してた……。大丈夫だといいんだけど。ああ、できることなら彼をこのまま連れて帰りたい。カレルとレダに会わせてあげたい。どうか、また穏やかに暮らせる日が来ますように。


 どれだけ待ち続けただろうか。時計などない簡素な部屋であるが、体感では二時間ほど経過したように感ずる。夜も更けてきた。

 祈る気持ちでずっとひとり佇んでいれば、いつのまにかに心細さが増して泣きたくなる。それでもアネシュカは涙を堪えて、ただそこに座していた。

 そして、不意に部屋の鉄の扉が開く。


「エド!」


 開かれた扉の向こうには、思い焦がれていた男が立っていた。

 だが、顔は殴られた青痣で腫れているし、頭にも切り傷を負ったらしく、頭頂部の黒髪は赤く汚れている。痛みを堪えているのだろうが、表情と言えば眉間に深く皺が寄っている。着衣も乱れたままだ。それでも、マジーグが生きて無事な姿を見せてくれたことにアネシュカの顔は光に満ちた。同時に気が緩んでしまって、瞳は潤んでしまったが。


 マジーグもアネシュカを見ると、血に汚れた顔を笑みに緩ませる。

 ただ、その顔が笑顔にしては引きつっており、また黒い双眼がこれ以上なく悲痛な光を湛えていることが、アネシュカには気に掛かる。それでも彼女は部屋のなかにひとり歩を進めたマジーグの胸のなかに飛び込んだ。とにかく無事でいてくれたこと、それがなによりアネシュカには嬉しかったのだ。


 だから、優しくアネシュカを抱き留めたマジーグが、こう耳もとで静かに囁いたとき、アネシュカの心は絶望の底へと突き落とされた。


「アネシュカ、お別れだ」

「え……?」

「ここに来る前に彼らにはっきり言われた。『最後の慈悲』だと」


 信じがたいマジーグの言葉に、アネシュカは頭を殴られたような衝撃を受け、亜麻色の髪を跳ねさせてマジーグの顔を見上げる。

 すると、寂しげな笑みに唇を歪ませた夫の顔が見えた。


 そして、同時に気付く。部屋の扉はまだ開け放たれており、廊下では、おそらくマジーグを連れてきたと思われる軍服の男ふたりが剣を手にこちらを監視していることを。


「俺はもう、助からない」


 あまりのことに、アネシュカの身体はがたがた震え出した。全身から血の気が引いていく。事態を飲み込めずに、彼女はただマジーグの前で立ち尽くす。返す言葉も見つからずに、誰よりも愛しい夫の顔を見つめ返す。


 すると、目の前でマジーグがまた笑った。それはとても微かな笑みだった。同時に切なさを滲ませた黒い双眼が音もなく瞬いた。

 その眼差しのまま、彼が言う。


「俺は、お前に出逢えて、本当に幸せだったよ」

「そんな……」


 アネシュカはからからに渇いてしまった喉から声をなんとか絞り出す。

 そして、一瞬の後、激情が爆ぜた。


「そんな、最後みたいなこと言わないでよ! エドが私の元に来てくれたのは、こんな運命を突きつけられるためじゃないのよ!」


 対してマジーグの口調は、どこまでも静謐だった。彼は、アネシュカの両手をそっと握りしめる。そしてこんな、聞くに堪えないようなことを言う。

 残酷極まりない言葉なのに、柔らかく笑いながら言う。


「カレルとレダを頼む。苦労をかけるが、幸せに生きてくれ」

「やめてよ! やめて! そんなの、聞きたくない!」


 ついに堪えきれず、ペリドット色の瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。アネシュカは泣き叫ぶ。髪を振り乱してマジーグの身体にしがみつく。あまりにも愛おしい熱を求めて。


 だが、その熱がふっ、と自分の肢体から離れた。はっとしてまた見上げれば、マジーグの両肩は軍人ふたりに荒々しく掴まれていた。

 そして、彼らから冷たい宣告の声が漏れる。


「もういいだろう。時間だ」


 呆然と立ち尽くすアネシュカの前から、ゆっくり、だが確実にマジーグがまた連れ去られていく。いまこの手に感じたばかりの熱が、消え失せていく。永遠の向こうに。


 それでも、扉の向こうに姿を消すその瞬間、マジーグは黒髪を揺らし、肩越しにアネシュカにこう声を掛けた。


「ありがとう。アネシュカ」


 刹那、アネシュカの目には黒い双眼が優しく煌めいたのが映った。そして、重々しい音を響かせて鉄の扉が閉まるのも。


 あまりのあっけない再会の終焉に、アネシュカは床にひとり崩れ落ちた。涙はとめどなく流れ落ち、あらゆる感情が身体の中を駆け巡った。


「エド……私たち……こんな……こんなお別れなんて……!」


 やがて、若い兵士が気の毒げな顔をして部屋に入ってくる。

 しかしそれでも、アネシュカの慟哭は止むことがなかった。

 渡せなかったマジーグのシャツの上に、涙は雨のように注ぎ落ち、無数のぼやけた染みを形作っていく。



 両脇を男ふたりに囲まれたマジーグが、そのままの足で連れて行かれたのは、軍人ら数人が待ち構えているちいさな部屋だった。彼らの軍服を見るに、将官らしき身分のものも見受けられる。


 初夏だというのに暖炉に火が焚かれ、そして四方は鉄板に囲まれているのを見るに及び、彼はすぐにこの部屋の存在意義を理解する。理解したところで、特に恐ろしくもならなかったが。


 いつ頃からか、チェルデで暮らすからにはこんな未来も想像がついていた。今日に至るまで、アネシュカに打ち明けることをしなかったのは、マジーグの意地だ。


 なので彼は、淡々と語を吐いた。


「裁きもせずに、俺を殺すつもりか」

「裁くまでもねぇ。だいたいお前は、たくさんのチェルデ人を裁判もせずに殺しただろうが」


 マジーグはなにも答えず、視線を冷たい床に落とす。言われなくとも、彼にその自覚はあった。


 すると周囲を取り囲んだ軍人から、口々に罵声が飛んでくる。


「俺は家族をマリアドルの野郎に殺されてなあ!」

「簡単に死ねると思うなよ! ぎりぎりまで苦痛を味わわせてやる!」

「チェルデ人の恨みを身をもって思い知るがよい!」 


 やがて苛烈なまでの憎悪は、彼らの腕を突き動かす。

 荒々しい手つきでマジーグはすでに乱されたシャツを脱がされ、半裸になる。瑠璃石の首飾りは乱暴に外され、床に投げ捨てられる。

 ついで、両手は後手に鎖で縛られた。


「おう、立派な古傷がたくさんある身体だなあ。傷の数は、お前さんの罪の数だよなあ」


 男たちのひとりがそう言いながらマジーグを蹴り飛ばし、一旦床に崩れさせてから上半身を引き起こす。

 そうしてマジーグは、己の背中になにか、灼熱の物体が差し伸べられたことを肌で感じとる。


「熱した鉄は、熱いよなぁ?」


 次の瞬間、マジーグの絶叫が広くもない部屋に轟いた。


「うがぁ……っつ!」


 しかし、その叫びは決して、外に漏れることはないのだ。 


 続いて二度、三度と赤く焼けた鉄棒がマジーグの背中に押し付けられる。

 耐え難い苦痛に身を捩ろうとするも、手を縛められた身としてはそれも叶わない。息が詰まり、鼻腔は焦げ臭い匂いに擽られる。気が遠くなりそうなのに、自分の皮膚が焦げる音と匂いがやけにはっきりと認識できるのが、痛めつけられる男には不思議だった。


 口から呻き声が漏れる。

 微かに残存していた意地が、二度と悲鳴は上げてやるまいと主張していた。だが、重ねて押し付けられる鉄の熱さにいつしかそれも朧げになる。身体といえば、とっくに前に折れているというのに、髪を掴まれては無理矢理引き起こされる。


 そしてまた、背中に熱が迸る。


「ざまあねえや」

「そろそろ反応も出来ねぇか。もう一思いに殺してやっても、いい頃合いかなぁ」

「死んだら王宮前広場に晒してやるからな。死体になっても嬲られるといいさ。それだけお前を恨んでいる人間はチェルデにたくさんいるんだ。死んだら妻子の元に戻れるなぞ、考えるなよ」


 誰かが口々にそう言いながら自分に唾を吐くのが、意識を掠めた。


 それがその夜の彼の最後の記憶だ。

 ついに完全に意識を失なったマジーグは、拷問部屋の固い床にその身を転がした。


 だから彼は、そのとき、唐突に扉が押し開けられた音と、部屋に轟き渡った怒声を感じ取ることはできなかったのだ。

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