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51 マリアドル人を殺せ

 もとより、兄弟国でありながらいがみ合っていたふたつの国がひとつになるとすれば、両国の民の反発は計り知れない。そのことは、チェルデ=マリアドル国を実質的に支配するギルダム帝国とてよく承知していた。

 それも、内戦に膿み、混乱の最中にあるマリアドルよりも、占領下にありながら比較的平穏な暮らしが営まれているチェルデでの反発が大きいであろうこと、そのことも。


 だがその矛先がギルダム帝国に向かってはためにならない。


 だとしたら、どうするか。


 その答えとして示されたのがハニーンの即位、さらには彼女の出生を明らかにすることであった。


「そうすれば、チェルデ人の意識はハニーンに逸れるであろう。それによってチェルデ人が暴力を伴う激しい反発をするとしてもじゃ、その矛先は我が帝国でなく、ハニーン、それかいまも彼らが敬愛している女王を『孕ませた』マリアドル人に向かうことじゃろうよ」


 皇女ライルは赤い唇をぺろりと舌なめずりしながら、帝国の重鎮にそう語ったものだ。


 つまりは、ギルダム帝国は密かに、マリアドル人をチェルデ人の「生贄」とすることで、新しい国の統治の滑り出しをうまく乗りきろうと画策したのだ。帝国がハニーンを統治者として持ち上げ、さらにその出自を明かしたことには、そんな裏事情もあったのだ。


 そして結果から言えば、ライルの思い通りにことは進んだ。

 チェルデ人の反マリアドル感情は、急激に燃え盛りつつあった。


 そして両国の併合の公布より三日後。

 トリン自治区のマリアドル人居住地にて、夕暮れを前に、火の手が上がった。



 トリンのマリアドル人居住地は、市場の東隣にある。

 しかしそこは水捌けも悪く、石畳の間から湿った地表が剥き出しになった一角で、つまりはトリンで一番居住するに適していない区画だ。貧困層の住民が多く、治安も悪い。

 そこにマリアドルの混乱が続く近年において、マリアドル人の避難民が多く住むようになったのだ。その一帯を歩いてみれば、なるほど、通りを歩く民の多くが黒髪だ。


 その区域に住むチェルデ人と、流れ込んできたマリアドル人をがうまくやっていたわけでもない。当然、軋轢はあった。

 特に先住者であるチェルデ人の困民からすれば、よそ者に一帯が支配される恐怖を味わわずにはいられなかった。しかもその人間らは自分たちの国を侵略したのである。よって、チェルデ人とマリアドル人の小競り合いは日常的なものであった。


 しかしながら、他のトリン市民は近づきたがらない一角であったため、いままでその騒動はこの区画から広がることなく留まっていたのた。


 ところが、そんな区画から火災が発生したのである。

 告知から三日、不穏さを増す街の空気のなか、トリン市民はその火が誰によって放たれたかを瞬時に悟った。そう、おそらくチェルデ人の仕業であろうことを。


 そして火災の中で起こった禍いは、後世におけるまでトリンの闇の歴史として語り継がれることになる。


 トリンの一部市民による、マリアドル人虐殺事件、所謂「血濡れの宵」である。



 その日、工房での仕事を早めに終えて、馴染みの「楽神ラナムの馬鹿騒ぎ亭」で飲んでいたトルトは、ふと、看板娘であるイルマの顔が見えないことに気がついた。


 疑問を口にすると、店の親父さんがいうには、燻製肉が切れてしまったので、急遽まだ開いている市場の肉屋に駆け込みに行った、ということで、他の男と出掛けたわけではないことにトルトは安堵したが、そうこうしているうちに外が騒がしくなる。


 訝しげに首を傾げながら、扉を押し開けてみれば、外からは夏の夕暮れの蒸し暑い空気とともに、微かに焦げ臭い匂いが流れ込んできた。


「なんだ……? なんか空が赤いぜぇ。夕焼けだけじゃねぇなあ」

「火事かよ。東のほうが燃えてるみたいだな」


 匂いに顔を顰めた客たちが外に出て、トルトとともに空を見上げて口々に騒ぎ出す。

 するとそこに激しく泣き叫びながら飛び込んできた女がある。

 他でもないイルマだった。トルトは驚き、慌てて声をかける。


「どっ、どうした。イルマ」

「なんなのよ! あんなの……あんなの、正義でもなんでもないわよ!」

「落ち着け、落ち着けイルマ。何があった?」


 いつもの快活さはどこへやら、イルマは金髪を振り乱し、半狂乱で泣き叫ぶ。顔色といえば夕暮れの空の下でも青ざめているのがわかるくらいだ。


 とりあえずトルトは泣きじゃくるイルマを宥めて、酒場の奥のカウンターに座らせ、水を飲ませる。

 そうしてようやく落ち着いたイルマが、ぽつりぽつりと明かし始めた話に、トルトの全身は粟立ったのだ。


「市場に向かう途中、東の空から火の手が上がったのに気づいたの……。焦げ臭い匂いもしたから、すぐに火事だと気付いてそっちに向かったのよ。そうしたら、マリアドル人がたくさん住んでいる街並みが、炎に包まれ始めていて……。でもそれだけじゃなかったのよ、いっぱい人がいた。それも鉈や鎌を手にした人たちよ。軍服の人もいたわ。そんな人たちが口々に叫んでたの……『女王陛下を穢したマリアドル人を許すな』って……! 『野蛮人のマリアドル人を糾すのは正義だ』って……!」

「なっ……」

「あの人たち、手にしてた刃物で、炎から逃れようと出てきた無抵抗の人を捕まえては次々……髪を鷲掴みにして……! 私、止めようとしたのよ……でも、だめだった……逃げ出さないと、私が殺されていた……」


 嗚咽しながらのイルマの独白を聞く酒場の男たちは、いつしか呆然とした面持ちになっていた。


「信じられない! あんなことを、同じ街の人がやるなんて! 悪魔よ、悪魔の所業よ!」

「もういい、もう話すなってばよ、イルマ、しんどかったのはよくわかったから!」


 やがて男たちは口々にイルマを囲んでは慰める。だがイルマといえば、いまだ蒼白な顔を震わせて泣くばかりだ。


 あまりのことに自失呆然していたのはイルマの隣で立ち尽くしていたトルトも同じだ。しかし彼はあることに思い至り、次の瞬間、赤髪を翻して酒場を飛び出す。


「おい! どうしたんだよ、トルト!」


 誰かがそう声をかけてきたのを意識の片隅で感じながらも、トルトがその声に振り返る心の余裕はすでになかった。

 彼は暴れ始めた心の臓を右手で押さえながら、全速力で走り出す。炎の気配が烟る夕暮れのトリンの街並みを、王宮に向かって。



 アネシュカはレダとカレルの手を引きながら、王宮前広場を歩いていた。頭上には眩しい夕空が広がっている。


「お母さん、お空きれいだねぇ」


 カレルが母と同じ亜麻色の髪を揺らしながら、うっとりと茜色の空を見つめたので、アネシュカも頭上に視線を投げた。


「本当ねぇ!」


 世間はチェルデとマリアドル併合の話で慌ただしい。ハニーンが故エリカ六世の落胤という事実を伴っているとすればなおさらだ。たしかにトリンで働くアネシュカも、周囲の不穏な空気を肌で感じてはいた。

 しかしながら、自然は何もかわらず美しい。ちっぽけな自分や子どもたちをまるで包み込み、守ってくれるかのように。


 ――そして、もちろんエドをもよ。エド、皇帝陛下とちゃんとお目にかかれたかしら? うまくいったとしたら、そろそろ帰ってくるはずだけど。


 そう意識を疼かせたときのことだった。


「アネシュカ!」


 前から男の大きな声で名を呼ばれて、アネシュカの背筋は跳ね上がった。激しく厳しい口調で言われたものだからなおさらだ。

 だが、目前には親しい青年の姿があったので、彼女はひとまず肩を撫で下ろしながら尋ねる。


「トルト。どうしたの、そんな怖い顔して?」


 思わず笑みが溢れてしまったほどに、目の前に立つトルトの顔には余裕がない。額からは脂汗が垂れ、赤い髪を濡らしている。息も荒い。アネシュカは出会って以来、このような顔の彼は見たことがなかった。子どもたちでさえその異様さに気付いてしまったようで、いつものようにじゃれつきもせず、ぽかんとしている。

 だが、トルトは何にも構う様子を見せず、アネシュカの肩を掴むと、こう叫んだ。


「おっさん、まだ戻ってきてねえだろうな!」

「……どうして? エドならそろそろ帰ってくる頃だとは思うけど……」


 激しく肩を揺さぶられながらも、なにがなんだかわからないままにアネシュカは答える。するとトルトがより顔を険しくしてこう叫び、アネシュカの戸惑いは最高潮に達した。


「いいか。おっさんが帰ってきても家に入れるな」

「エドを? どうしてそんなことしなきゃならないのよ?」

「いいからそうしろ! そうしないと、お前、それに子どもたちが危ないんだよ!」

「え?」

「さっき、マリアドル人街が焼き討ちにあったんだよ! マリアドル人が狙われてるんだ! このままじゃお前らも巻き込まれる!」


 トルトの絶叫に、アネシュカの背筋は一瞬にして凍りついた。


 そして一瞬の自失呆然の後、次に彼女がしたことにトルトは目を剥いたのだ。

 アネシュカは幼子ふたりの手を掴み、トルトに差し伸べる。そしてこう叫ぶと、広場の石畳を蹴って駆け出した。


「トルト、子どもたちを見てて!」

「アネシュカ! どこ行きやがる!?」


 だがトルトの声に応じることなく、アネシュカは子どもとトルトを置き去りにして走り去っていく。

 城門、そしてその先にある家を目指して。


 夕焼けは宵闇の街をいよいよ眩しく、赤く照らしていた。

 だが、気のせいだろうか。先ほどと異なり、その下を駆けるいまのアネシュカには、その光は美しいよりも、禍々しく感じられる。

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