5 武力は文化を凌駕する
マリアドルの間者による、王宮内での女王を始めとした要人拘束が発生してから四日後。
白旗が掲げられた城門のもとを、エド・マジーグ将軍率いるマリアドル軍はなんの抵抗を受けることもなく、通過した。漆黒の軍装とマントを身に纏った黒髪の将校は、悠然と進む軍勢の先頭を馬に乗って進みながら、夢にまで見たチェルデの王都トリンの光景を見渡した。
目の前には自国マリアドルの王都とは規模が違う、大きな家並みや広い石畳の道、それに細やかな水路が連なっている。それらの造りは一目見て分かるほどに精巧で、マリアドルの技術をチェルデは高く超越していることを無言のうちにマジーグに示してくる。
――なるほど、流石、大陸に知れ渡るチェルデの文化水準だ。彼らが我らを野蛮人と馬鹿にするのは、たしかに一理ある。……だがしかし。
いつもは市民と多彩な国の商人で溢れかえっていると聞いた街には人影ひとつなく、トリン中が不気味な静寂に包まれていた。マリアドル軍の軍馬の蹄の響きだけが、静まりかえった王都に木霊している。
要人拘束、及び程なくマリアドル軍が襲来するとの報が市民に知れ渡ってから、トリン市民は外出を頑なに控え、家屋の中に閉じこもっているらしい。それを示すようにどの家屋の窓にも鎧戸が下ろされている。
各国の商人に至っては慌ててチェルデを出国したとか。
沈黙に支配された街を進みながら、マジーグは思う。
――しかし。いまや勝者としてこの街に侵入しているのは、野蛮人たる、我らだ。
マジーグは一本の三つ編みに纏めた長い黒髪を背で揺らしながら、唇を薄い笑いに歪ませた。
軍勢はいつのまにかトリンの最深部まで辿り着き、道はだんだんと急な坂になる。チェルデの王宮に近づいている証だった。しかし後続の兵士達は歓喜に沸くこともなく、黙々と歩を進めている。
マジーグは自軍の落ち着いた足並みに満足し、精悍な顔立ちに宿る黒の双眼を怪しく輝かせた。
――チェルデを掌握した俺のやり方は、他国、いや、おそらく故国でも、汚い手段だと罵られているだろう。だが、まずチェルデの要人を手中に落すこの手段でなければ、こうして軍を無傷のままトリンまで進めることはできなかった。俺を貶めたい奴は、せいぜい遠吠えしていればよいのだ。それに、悪名のひとつやふたつ増えたところで、俺にはもう、勲章でしかない。
そう心中で呟くうちに、彼の視界はいきなり開けた。
軍勢は王宮前広場についに辿り着いたのであった。マジーグは馬を無人の広場内に進め、周囲を確かめる。
たしかに目前には、王宮に通じる金色の壮麗な門があった。
そして、そこから少し離れた広場の壁には、中心に女神バルシが描かれた大きな壁画が飾られている。
それを目にしたマジーグの唇から、嘲笑めいた呟きが漏れた。
「ほう……派手に彩られた大きな木の板だな。俺にとっては、ただ、それだけのものだ」
それから、彼は馬を止め、広場に整列した軍勢に、王宮の門を潜るよう、静かに命を下す。
王宮内に進軍するマリアドル軍を遮る者は、王都入城の際と同じく、誰もいなかった。
チェルデ王宮に入ったマジーグは、長時間の行軍の疲れを取るべく休むこともなく、すぐにエリカ六世をはじめとした要人が軟禁されている王宮内の離宮に足を運んだ。
それから、女王のみを離宮の近くにある宮殿の一室に呼び出す。
マジーグに呼ばれて姿を現した女王は、憔悴しきった表情をしていたものの、一国を統べる者としての威厳は失っていなかった。人払いをされた部屋でマジーグと相対するやいなや、エリカ六世はらんらんと茶色の瞳を光らせて、黒髪の将軍に迫った。
「悠久の昔より、大陸の交易の要所たる我がチェルデは、何者であれ侵さないのがこの大陸の不文律だったはずです。なにより、このようなことをして、大国ギルダムが動かないとあなたはお考えなのですか? マジーグ将軍とやら」
女王は激しい怒りを露わにマジーグを質す。
しかし、マジーグからすれば、彼女の言葉はすべて想定内のものである。であるから、マジーグは丁重かつ、皮肉を効かせた言葉を持って、返答とする。
「なるほど、たしかに過去には、そのような不文律が存在したかもしれませんな。だが、歴史とは変わりゆくもの。いまや、そういう時代ではなくなったということです。いや、または、それを我が国が変革する時が来た、と言い換えた方が、聡明なる陛下にはご理解しやすいでしょうか」
冷徹で悠然たるマジーグの言を聞いて、女王はかっ、と目を見開いた。
それから暫しの間を持って、隣国の将軍を睨み付けながら、憎々しげに呻く。
「……マリアドルの野蛮人が……!」
「左様。我々は古より貴国に文化で劣り、よって武力に頼るしかない野蛮人です。ならば、貴国を暴力で凌駕するしかない。我が皇帝は、そのようにお考えです」
「皇帝……」
エリカ六世は呆然としたように瞳を瞬かせた。だが、胸にせり上がる絶望には屈さず、威厳を保ちつつ、こうマジーグに静かに問うた。
「この暴挙は、本当に貴国のガロシュ二世陛下の意向なのですか? 貴殿の独断に過ぎぬのではないのかしら?」
対して、マジーグも毅然とした態度を崩さず、冷たい笑いに顔を満たして占領国の統治者に応じる。
「ご冗談を。一国の軍が動いているのです。皇帝陛下の意向でないはずはありませぬ。それに……」
「それに、なに?」
「それに、我が皇帝は貴国に留学していた若き日、チェルデの人間から野蛮人と罵られたことを、いまもお忘れではないですよ。となれば、今日の事態を引き起こしたのは、陛下にとって自業自得といえるのではないですかな?」
マジーグが言い放った言葉に、女王は絶句した。
思わず、彼の国の皇帝の、古い親しい名前を唇から漏らす。
「……そんな、ルカ……」
弱々しく呟き、顔を悲痛に震わす女王をマジーグは、黒い瞳で見つめる。それはなにか、面白いものを見るような眼差しでもあった。
やがて、息を整え直したエリカ六世が、ゆっくりと、若い将軍を再び質す。
「マリアドルは、チェルデをどうするつもりなのです」
すると、マジーグが女王を追い詰めんばかりに、ゆっくりと、口を開いた。その口調は、捕えた獲物を嬲る獣そのものだった。
「ご安心を。なにせ同一の言語、それに神話を有する兄弟国ですからね、民衆には悪いようにしませんよ、民衆にはね。なにせ、下手なことをやっては、今後の占領政策に影響を及ぼしますから」
マジーグの勿体ぶった台詞に、女王の表情に、さっ、と恐怖の影が差す。
果たしてそれからマジーグが続けた言葉は、彼女の恐れを裏付けるもの他ならなかった。
「ですが、その代わりといってはなんですが、陛下および、この王宮の人間には、この事態の責任を取っていただきます……おい、入れ」
そのマジーグの声とともに扉が開き、長剣を携えたふたりの兵士が室内に入ってくる。
マジーグは顔を強張らせた女王に、助命の嘆願の機会すら与えなかった。ただ彼は、軽く兵士に目配せしたのみだった。
次の瞬間、ひとりの兵士が女王を羽交い締めにし、もうひとりの兵士の刃が、華麗な白金のドレスに包まれた胸めがけて翻る。
それは、彼女が悲鳴を上げる暇すらないあっという間の出来事であった。
そして惨劇の瞬間が過ぎてしまえば、マジーグの前に転がるのは、いまや骸となった女王の血濡れた身体のみである。
真っ赤な血潮が、床に臥した女王の豪奢なドレスをどす黒く染め上げていく様子を、マジーグはただ淡泊な視線で見つめていた。
兵士から女王の絶命を確認した旨、報告を受けると、彼は端的に新たな命令を発した。
「要人を軟禁している離宮に火を付けよ。ただのひとりも、炎の中から逃さぬようにな。それから、兵士にチェルデ王宮内での略奪行為を認める旨、命を下せ」
「将軍、よろしいのですか」
「構わん。そうでもせねば兵士らが納得しないだろう。ただし、手を出してよいのは物のみだ。人間は害するな。それと、今日から三日間の期限を守ることと、王宮内の一部及び、王宮外の市街には手を出さないよう、厳しく通達せよ。これは絶対だ。背いた者には厳罰を与える。俺も王宮内を巡回するから、見つけたときは容赦しないと伝えろ」
一息に語を放つと、マジーグは足早に血に染まった一室を出て行く。彼の背でひとつに結われた黒い三つ編みが激しく揺れた。
マジーグが、女王の死体に再度目を向けることはなかった。いまさら、ひとりの人間の死に意識を留める必要を、彼は感じなかったのである。
彼からすれば、一国の女王であれ誰であれ、自分の手であれ他者の手であれ、己が葬った人間がまたひとり増えた、それだけのことであった。
王宮内の離宮が燃えて二日が過ぎた。
ファニエルの工房では、ファニエルと彼の弟子一同が、嵐が過ぎ去るのを待つかのように建物の中で息を潜めていた。むろん、アネシュカもそのうちのひとりである。
ファニエルは、女王とともに宮殿にいたところをマリアドルの間者に襲われてから、すぐに工房に戻され軟禁状態にあった。もっとも、そのあとマリアドル軍が王宮に到達し、離宮に火を付け、宮殿内のあらゆる場所で略奪行為を行うようになってからは、外に出ようがなかったのだったが。
不思議なことに、マリアドル軍の略奪は、ファニエルの工房には一切及ばなかった。それでも絶え間なく建物の外から聞こえてくる悲鳴は、いま、王宮内がいかに過酷な状態に置かれているかを工房の人々にも克明に教えるものであった。
そんな状態がもう二日続いている。
流石に今日ともなると、外から聞こえる物音も絶えつつあったが、それはもう声を放てる人間そのものがいなくなったからなのでは、という恐れがまたアネシュカの心を凍らせる。
――まさか、こんなことが起こるなんて。ずっとずっと平和が続くと思っていた、チェルデに。
アネシュカは工房内に残されていた固くなったパンを、工房の仲間達と囓りながら、瞳を暗く翳らせる。
そのとき、大きな物音が工房の入口から聞こえた。
ファニエルと始めとした皆が顔を強張らせる間もなく、木の扉が斧らしきもので割られ、弾け飛ぶ。そしてマリアドル兵らしき三人の男が姿を現した。男たちの手にはどこからか奪ってきたらしき宝飾品がこんもりと盛られており、赤い顔からは、酒の匂いがする。
やがて男のひとりが、野卑な嗤い声を上げた。
「なんだなんだ、ここにゃ大分、まだお宝が残ってそうじゃないか」
「おい、ここは手を出すのは禁止されている場所なんじゃないか?」
他の男が、慌てたように嗤う男を止める。
だが、彼は酒の酔いからか、軍紀を気にする様子は見せなかった。男は工房入口に飾ってあった神像を乱暴に蹴りつける。
工房の護り神として置かれていた、木製の画神アルバの像が真っ二つに折れて床に転がった。
顔を皮肉に歪めたのはファニエルだ。
「流石の野蛮さですね、マリアドル流のご挨拶ですか?」
琥珀色の瞳を挑戦的に光らせて、ファニエルが男たちに微笑む。
だが、男たちは顔を顰めると、ファニエルの頭に手を回し、銀髪を鷲掴みにして彼をいきなり床に叩きつけた。さらに、呻き声を漏らしたファニエルの身体を足蹴にする。
それを見たアネシュカが立ち上がり、叫んだ。同時に、脇に置いてあった籠に手を突っ込む。
「ちょっと! 先生になにするのよ!」
「おい! やめろって、アネシュカ!」
隣に座っていたトルトが、アネシュカの行動を察して声を上げたが、そのときにはもう彼女は籠の中に詰った卵のひとつを掴み、侵入者の顔に向かって鋭く投げつけていた。
次の瞬間、べしゃり、と音がして、ひとりのマリアドル兵の顔が黄色く染まる。
男たちの視線はアネシュカに集中した。
「……ほう、チェルデの絵画工房には女がいるのか。これは面白いな」
「女子どもの分際で、俺たちに楯突こうとするとは、なかなか愉快な奴だ。なら、いいだろう。相応の目に遭わせてやるよ」
男たちはファニエルから足を離すと、野卑た嗤いはそのままに、アネシュカの元に歩み寄る。
逃げる暇もなかった。
気が付いたときにはアネシュカの両腕は屈強な男どもに掴まれ、工房の外に引きずり出されようとしていた。
「きゃあああっ!」
「アネシュカ!」
「あー、だからいわんこっちゃない!」
背後からファニエルが自分を呼ぶ声と、トルトらしき嘆きの叫びが聞こえる。
だがアネシュカは抗いがたい力により引っ張られ、もはや後ろを振り向く余裕もない。
顔色を蒼白に変えたファニエルが、床から起き上がるや男たちに引きずられるアネシュカに駆け寄る。
「その子に手を出さないでください!」
彼は銀髪を振り乱しながら彼女の腕を掴み、兵士からアネシュカの身体を引き離そうと試みる。
しかし次の瞬間、ファニエルは激しく胸を突き飛ばされ、再度床にその身を転がされていた。そして、彼は兵士たちの軍靴にまたも踏みつけられる。
「ファニエル先生!」
だが、すでにそのとき、師の名を叫ぶアネシュカの目前には、両眼を荒々しい色に染めた兵士の顔があった。
酒臭い息がアネシュカの顔を擽る。彼女は恐怖のあまり悲鳴を上げてもがいた。
「嫌ぁ! やめてよ! 離してよ!」
しかしながら、抵抗虚しく、アネシュカの身体は工房の外に投げ出された。
亜麻色の髪は土にまみれ、砂埃が口に入る。アネシュカは瞼を固く閉じて観念するしかなかった。
――ああ、もう、終わり! こんなの、あんまりすぎる! 私がここに来たのは絵の勉強のためよ、こんな目に遭うためじゃない!
そのときだ。
震える彼女の上で、剣が一振りされる気配がした。さらには、自分を放り投げた兵士が血を吹きながら地表に転がる気配も。
「……え?」
アネシュカは突然の出来事に驚きながら目を開ける。
彼女の瞳に映ったのは、長い黒髪を三つ編みにした男の姿だった。
兵士を斬り捨てた長剣を手にした男は、漆黒の軍服とマントに身を包み、険しい顔で屹立している。
長髪が映える彫りの深い精悍な顔立ちに宿る目は、獰猛な鷹を思わせるように黒く、鋭い。
それなのに、熱というものを感じさせない氷点下の冷ややかさが、男を見つめるほどにアネシュカの意識にじわじわ染み渡ってくる。
――この人もマリアドルの兵士? いいえ、ちょっと様子が違う。なんというか、位がもっと高そうな……。
戸惑うアネシュカをよそに、残りふたりの兵士が悲鳴を上げた。
「ひぃっ……! 将軍!」
「閣下、俺は止めたんですよ! ここは禁止されている場所だからって! それに、この娘は、少し懲らしめてやろうとしただけで!」
対して、黒髪の男の唇から漏れた声にも、ぞくり、とするほどに熱はなかった。
「言い訳なら地獄でしろ。せいぜい地底神ロアーンにでも耳を傾けてもらえ」
それだけ言い捨てて、男は表情も変えずにさらに刃を二振り、翻す。
工房の入口脇の地べたに転がったままのアネシュカの目に、残りの兵士ふたりも、血を流しながら崩れ落ちる光景が映る。そして、それを見届けた黒衣の男が、三つ編みを揺らしながら、背後を一瞥もせずその場から去ろうとする後ろ姿も。
アネシュカは慌てて半身を起こしながら、男に声を掛けた。
「あっ、あの、ありがとうございます!」
男が足を止めた。
それから、ゆっくりと、アネシュカに身体を向ける。
場違いに鮮やかな夏の陽と、焦げ臭さと血の匂いに満ちた風がふたりを包む中、アネシュカのペリドット色の瞳と、男の黒い瞳が交差した。
男の、銀糸に彩られた漆黒のマントが、ふわり、と翻る。
結局、アネシュカは、それ以上礼を告げることが出来なかった。男の目があまりにも冷ややかなままで、言葉を継ぐのを躊躇われたからだ。
数瞬の視線の交わりの後、男は再び彼女に背を向け、血の滴る剣を手に下げたまま歩き去っていった。
「アネシュカ、大丈夫かい」
呆然としたまま地面に座り込んでいたアネシュカの肩にそっ、と、手を置く者がいる。見上げてみれば、ようやく工房から這いずり出てきたファニエルがそこにいた。
「先生」
「怖い目に遭わせちゃったね。君は大事な私の弟子だというのに、すまなかった。だけど、君はときになかなか大胆不敵すぎて、肝が冷えるな」
「……すみません」
「さぁ、工房に戻ろう。外はまだ危険だ」
汚れた上衣に銀髪を乱した姿のまま、ファニエルは微笑みつつ少女の震える腕へと手を差し伸べた。 アネシュカは師の手に縋るようにして、ようやく立ち上がる。しかし、よろよろと身を持ち上げつつも、彼女は去って行く黒衣の男から、なぜだか意識が離せずにいた。
アネシュカは乱れた亜麻色の髪を揺らし、再度、遠ざかる男の背を見つめる。
じりじりと照りつける真昼の眩しい光に、彼の姿が溶け、消えゆくまで。
「閣下、巡回に行かれていたのですか」
マジーグは、チェルデ王宮の一室に置いてある自身の執務室に戻るや否や、副官のタラムに声を掛けられた。彼が手に下げた剣が赤く汚れていることに、敢えて副官は触れなかったので、彼は短く返答するに留める。
「ああ」
「そうでしたか。それはそうと、顔色が悪いですよ、閣下」
畏れ多いことですが、という口調ながら、鋭いタラムの言葉に、マジーグは一瞬、どきり、とする。
この父親のような歳の副官は妙に勘の強いところがあって、マジーグを時々怯えさせる。しかし、動揺をいまさら顔に出すような彼ではない。
執務室の、陽がさんさんと差す大きな窓に目を投げながら、マジーグはただこう答えるのに留めた。
「……気にするな。ここのところよく眠れてないだけだ」
お読みいただきありがとうございます。ここまでが第一章です。
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