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50 二十数年の追憶

 マリアドル王都、シュタラ。


 マジーグはマリアドルの都に到着すると、まずはトリン自治区の公館に向かった。

 そちらでロウシャルに頼んで用意してもらった文面を見せ、公使を通じてガロシュ二世への拝謁を取り持ってもらう手続きを済ませる。

 それには七日の時間を要したが、予想通り無碍に断られることはなかった。


 こうして五月はじめの日、マジーグは五年ぶりに王宮の門を潜った。むろん、アネシュカを人質に取られ無理やり祖国に引き戻されて以来のことだ。


 しかしながら、宿から王宮に歩むマジーグの目を射ったのは、街の荒廃ぶりだった。よって、瑠璃石の散りばめられた王宮の廊下を歩む彼の足取りは、重い。


 ――荒れていたな……。通りや建物もだが、なによりも人々の顔つきが。おそらく地方で家を焼かれて王都に流れてきたのだろう、路上で暮らす民もまた、多かった。こんなことは、俺がマリアドルにいた頃にはなかったことだ。


 そう思うごとにマジーグの心もまた、沈む。アネシュカに言われはしたものの、やはりマリアドルがギルダムに屈する機をつくった本人としては、責を感じずにはいられないのだ。


「なるほど、国が滅びるときとは、こういうことか……」


 自然と口をついて出た独り言が廻廊に響き渡る。王の私室に近い場所だったおかげで周りに人気がないのは幸いであった。そして己がいまだに、この場にひとりで足を踏み入れることを許されていることに、なんだか奇妙な気分になる。


 そのガロシュ二世のマジーグへの気安さを示すように、彼がかつての腹心に向けた笑みもまた、他の配下には見せぬやわらかなものだった。


「おお、久しぶりだな。マジーグ、達者であったか」


 マリアドル皇帝は、中庭に面して置かれた寝台にて半身を起こしていた。

 陽のひかりに照らされてもなお、彼の老いた顔は前にも増して血色が悪く、なにかしらの病魔に冒されていることを無言のうちに知らしめてくる。


 ――たしかに永くはないな。


 心中にこぼれ落ちた己の言葉に気持ちを翳らしたマジーグは、無言にて懐かしい君主に跪き、一礼する。


 そして、顔を上げてふたたびガロシュ二世と顔を合せたとき、彼は皇帝の寝台の横に、ひとりの若い女性が佇んでいることに気がついた。

 その翡翠色の瞳には、五年前に逝去した王族の面影があった。


 ――似ている。ああ、となるとこの方が――。


 そう脳内で反芻する間もなく、女はマジーグにこう語りかけてきた。


「お前とははじめて顔を合せますね。私はハニーン。亡くなったハイサルの妹です」


 そうして、ハニーンはゆっくり、そして深々とマジーグに頭を垂れる。

 ハイサルに良く似た茶褐色の長い髪と、王族にしては簡素なドレスがマジーグの目前で、ふわり、揺れた。


「マジーグ。聞いたところでは、兄がお前とお前の妻に酷いことをしたそうですね。申し訳ありません」

「あ、いや。お顔を上げて下さいませ、ハニーン様」


 マジーグは慌ててハニーンに声をかけた。だが、ハニーンが顔を上げたのは、それからたっぷり数十秒を経てのことだった。そしてようやく顔を見交わして見れば、彼女の翡翠色の双眼は、沈痛に翳りを帯びている。


「ハイサル様のしたことは、ハニーン様のせいではございません。ですから、そのように謝らないでくださいませ」

「そうは申しますが……私のたったひとりの兄でしたゆえ。本当にすまないことをしました」

「ハニーン、それくらいにしておけ。マジーグが困っておるぞ。大丈夫だ、こいつはお前のことを根に持つような男ではない」


 恐縮し合う娘とかつての腹心を見て、ガロシュ二世は苦笑まじりに声を放った。弱々しく掠れたその声音に、マジーグの臓腑はさらに冷えた。

 しかしながら、この方にしては物腰柔らかな言いようだ、とも同時に思う。そして、それはなにより実の娘を思いやる心がその声が満ちているからなのだ、という事実にマジーグは思い至る。


 ――陛下もお変わりになられたものだ。かつては親族にもこのように気さくに話される方ではなかったのだが。


 そんなマジーグの胸中をよそに、ガロシュ二世は寝台の上から浅黒い顔を彼に向け、親しげに話しかけてくる。


「髪を結っていないお前と会うのは、何年ぶりかな」

「二十五、いや、二十六年ぶりです。陛下」

「そうだな、初めて会ったときのお前がそうだった。まだあのとき、お前は十六才であったな……ところで、トリン公館からの文を読んだが……」


 昔語りを気さくな口調で述べながら、急に自分の訪問の本題に踏み込んできた君主に、マジーグの心の臓は人知れず震える。

 だが、続いてのガロシュ二世の言を耳にして彼はさらに驚くこととなった。


「裁判の開示の必要なら、ないぞ」

「どういうことでしょうか……?」


 突き放されたのか、とマジーグは息を飲みつつ、ガロシュ二世に疑問の声を投げかける。すると視線の先で、君主は寝台の横の卓に手を差し伸べていた。

 そして、置かれていた何かの書類を持ち上げると、マジーグに差し伸べる。


 こんな、思いもせぬことを言いながら。


「お前の弟の事件についての報告書だ。わしではない。五年前、タラムが死ぬ前に、再調査を依頼していた」

「……!」


 突如耳を突いた男の名に、マジーグは大きく息を詰まらせた。一瞬の間、喉になにか大きな石をぐい、と詰めこまれたかのようであった。

 その感触が消え失せぬまま、マジーグはガロシュ二世から紙の束を受け取る。その手といえば、知らぬ間に震えが走っていた。


 そうして覚束ぬ指先で、ゆっくりと書類を、捲る。捲りながら、そこに綴られた一文字一文字に、目を凝らす。


 ガロシュ二世とハニーンは、息をすることを忘れたようかの真剣な面持ちで報告書を読み耽る配下をただ黙って見守っていた。

 中庭からは、なおも初夏の眩しいひかりが漏れている。


「あれは、事故だったのだな」


 やがて、ガロシュ二世がぼそり、と語を溢した。


「あのとき、お前の父は病床にて、永くはない命だった。そんななか、庶子のお前に、どうしても家督を継がせたくなかった輩が存在したのだな。彼らが、お前の弟が死んだ際に居合わせた子どもらに言含めて、お前が弟の手を振り払った証言をするように仕向けた……そういうことだな」


 報告書の内容を正確になぞるようにガロシュ二世は静かに真実を述べる。長い間、あまりに長い間、秘されていた真実を。


「つまり、お前は罪人でもなんでもなかった」


 真髄に当たる一言を告げられたマジーグは、ただ、なおも書類に目を落として肩を震わすことしかできないでいる。

 そんなかつての腹心を痛ましげに見やりながら、ガロシュ二世は滔々と、報告書の再調査を依頼した男について語る。


「タラムは、一度だけだが、わしの元を訪ねてきて、こう漏らしたことがある。ほんとうにあの少年は家督のために弟を殺したのでしょうか、私からすればそんなことができるような子どもに思えません、と」

「……」

「いくらわしの命とはいえ、そのことに気づきながらお前と接したタラムの二十年もまた、複雑だったのだろうな……まあ、それを知ったところで、お前としては、さらにタラムへの憎しみが増すだけかもしれぬが」


 そのとき、マジーグの脳裏を過っていたのは、他ならぬあの男の面影他ならない。


 出会ったばかりの壮年の姿、そして時を経て老い、白髪の皺深い顔となったあの男。

 師であり部下でもあった、常に自分の人生を脅かす存在だった男のあの、眼差し。

 いつもなにか意味ありげな色を揺らしていたあの、瞳。


 マジーグは今にしてようやく、タラムの瞳の奥に揺れていたものがなんであったのかを思い知らされたが、乾いた喉からは、彼に対するなんの感情も絞り出すことができなかった。


 どのくらいそうしていたのか。

 マジーグが我に返ったのは、自嘲に満ちたガロシュ二世のつぶやきに鼓膜を打たれてからである。


「だとしたら、お前がわしに仕えた二十年は、お前にとってなんの意味もないものだったのだろうか」


 あまりにも力無い声だった。それに息を飲み、マジーグは顔を跳ね上げる。


「陛下」


 目の前のマリアドル皇帝の顔は、口調通りの弱々しい笑みに満ちていた。中庭から溢れる光を背に、病床でのその姿はあまりにもマジーグにとって心許なさすぎるものだった。


 なので彼は再び俯きながら、どう答えるべきか、考える。自分にとっての苦渋の三十年は、いったいなんであったのか。その答えを疼く胸中に探し求めながら。


 マジーグはゆっくり顔を持ち上げる。今は結ってない白髪混じりの黒髪を揺らしながら、ガロシュ二世の顔を真っ向から見据える。そうしてから、言葉を繰り出す。思いつくままに訥々と。

 だが、なによりも真摯な想いを込めて。


「そうかもしれません……ですが……そうではなかったと思いたい自分が、ここにおります、陛下」


 思わぬかつての腹心の答えに、皇帝の顔は驚きの色を成した。


「私は……自分の人生に満足しております。間違ったこともたくさんありました。遠回りもたくさんしました。ですが、これでよかった……そう思います。そしてこの年齢でそう思える自分を、幸せに思います」


 それから、頬に刺さるガロシュ二世の視線を受け止めるように、マジーグは静かに、しかしながらはっきりと、こう述べる。


「過去がどうあれ、私はいま、幸せです」


 マジーグは、最後にはちいさく微笑みながら、そう話を終えた。


「そうか」


 その顔を見て、ガロシュ二世もまたちいさな笑みを浅黒い顔に刻む。

 それから、今度は自分の番だとでも言わんばかりに彼も語を漏らす。囁き声ではあるが、これもまたはっきりとした口調で。


「お前が変わったことで、わしも変わったのじゃ。わしがなぜチェルデ制圧を諦めたか、話してなかったな。マジーグ……お前を見たからだ。わしはチェルデから戻ったお前の姿に、忘れ去ろうとしていた若き日のことを思い出した。チェルデで愛を交わした女のことを思い出した。そのうちに、彼女に詫びたいという気持ちが大きくなってしまったのだよ。つまり、わしも変わりたいと思ったのだ。お前のように」


 それからガロシュ二世はマジーグに明かす。

 彼もまた、ひた隠しに隠していた、マリアドルとチェルデ、ふたつの国に関する重大な真実を。


「お前とわしは同じなのだ。ハイサルとハニーンはチェルデ女王エリカ・カジュとの子だ」


 マジーグの心の臓は跳ねた。


「……なんと……」


 重大極まる君主の秘密を知ったマジーグは、咄嗟に語を継ぐこともできず絶句する。あまりにも思い寄らぬ現実を前に、彼は数分の間、ガロシュ二世、その隣に立つハニーンの顔を凝視しながら、臓腑を驚愕に打ち震わせるしか術がなかった。


 彼が再度口を開けたのは、たっぷり数分の間を置いてのことだ。


「ライル殿下がハニーン様こそ両国の統治者にふさわしい、と仰っていたのはそういうことでしたか。そうであれば、ハニーン様は、チェルデとマリアドル双方の王族の血をお引きになっているのですから……なるほど」


 マジーグは声を掠れさせながら、ライルの意味深な言葉を思い出しては合点する。

 すると、いまだ驚きに打ち震わせる彼に声をかけてきたのは、ガロシュ二世ではなく、それまで黙りこくっていたハニーンだった。


「マジーグ」


 彼女の顔には、寂しげな笑みが刻まれていた。


「我が国は滅びます。ですが、マリアドルが滅ぶのはあなたのせいではありません。我が兄、ハイサルの野心が国を滅ぼしたのです。兄の乱こそが、帝国につけいられる隙を作ったのですから。どうか、そのことをよく覚えておいでください」

「ハニーン様、ですが」

「いや、マジーグ。ハニーンの言う通りだ」


 抗弁しようとしたマジーグに、今度はガロシュ二世が語りかける。


「お前が今日の事態に責を感じることは、なにもない。それにお前がわしを変え、チェルデ征服を諦めさせたのだから、結果としてお前は、チェルデを救っているのだよ。お前の大事な女の故郷、チェルデを。だから、マジーグ、それを誇れ。お前は、お前のしたことを誇りに思え」


 午後の陽はすでに傾きつつあった。部屋には赤みを帯びた光が満ちている。余命わずかなマリアドル皇帝、そして彼の後を継ぐ王女を、夕暮れは寂しく、だが同じくらい優しく包み込んでいる。


 その光と影の狭間で、ガロシュ二世は、最後マジーグにこう告げた。


「マジーグ、チェルデで生涯、幸せに暮らせ。そうしてくれることで、わしも幾らか救われる」


 マジーグは深々と礼をする。

 親しき君主との永遠の別れに際して、どう答えればいいのかわからぬまま。気の利いた言葉は口から繰り出せなかった。それでも、万感の思いを込めて頭を下げる。


 皇帝の私室から退出する間際、名残惜しく振り返った部屋の向こうの中庭に、なにかが置かれているのが視界を掠めた。


 ――空の、鳥籠……。


 そう気づいたマジーグの目の前で、王の部屋の扉は音もなく、閉ざされた。



 チェルデとマリアドル全土に、ギルダム帝国を後ろ盾としての両国の併合が公布されたのは、マジーグがガロシュ二世との面会を終え、シュタラを後にした数日後である。


 同時に、マリアドル皇帝ガロシュ二世が、王女ハニーンに譲位する旨、そして、併合されるチェルデ=マリアドル国の統治者となる旨が告げられた。


 なぜマリアドル王族の兄ふたりを差し置いてハニーンが統治するのか、それを聞いた民は混乱のなか、首を傾げた。

 そしてほどなく、その理由が明かされたそのときが、チェルデ人に真の衝撃を与えた瞬間だったのである。


 ――「ハニーン王女は、マリアドル皇帝ガロシュ二世と、故チェルデ女王エリカ六世との間に成された子である」――。


 その知らせはチェルデ全土に雷のように轟き、これ以上なく激しく民心を掻き乱したのだ。


 これが後に「初夏の嵐」と呼ばれることになる、チェルデ、それもトリン自治区を中心とした騒乱の始まりであった。

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