49 教師の適性
アネシュカの所属する「トリン女子修養所」の一期生として集められたのは、十三歳から十七歳という年齢の、二十人ほどの少女たちだった。
ワイダの意向としては、合併するチェルデとマリアドルの全域から生徒を募りたかったのだが、いまだ両国の合併が発表される前であるので、結局のところトリン自治区に住む少女のみが選抜されてやってきたのだ。
といっても、本格的な試験をせねばならぬほど、人は集まらなかったので、そこは簡単な口頭試問で済まされた。また、全員トリンに家があるため、宿舎の用意は今回においては必要なかった。
また、生徒募集はロウシャルの命により自治政府を通じて急ぎ通達されたものの、周知のための時間は少なかった。そのため、集まった少女たちは政府に関わりがある絵師や工房の子女が多かった。
しかしそれでも、それまでまるで絵に関わりのなかった少女らの参加も僅かだが見受けられたのだ。聞いてみれば、開所式の日、アネシュカに声をかけてきたオルガもそうだという。
「公会堂に張り紙があったんですよね。私、絵にそんなに興味はなかったんですけど、なんだか面白そうだなあと思っちゃって。それに、私、このままだとさっさと嫁に出されるのわかりきっているから、だったらその前に少しでも、勉強したくて」
「オルガ、あなた、そのまま家にいたら、結婚させられちゃうわけ?」
「ええ。私の家、余裕ないんです。私が産まれる寸前に父が死んじゃったから。幸い、年の離れた兄が三人いるので、生活はどうにかなってきましたけど、これからもそうとは限りません。だったら、女はさっさと嫁に出た方が、家族のためになりますもん」
「そうかあ……」
開所から数日後、中庭で昼食を食べていたオルガたち数人とそんな会話を交し、アネシュカは少女たちが置かれた現実の厳しさについ、大きく嘆息する。なるほど、彼女のところどころがすり切れた綿のワンピースといい、家から持参したらしい食事の内容が黒パンのみという質素さといい、たしかに彼女の暮らしは貧しそうだ。
――私、恵まれていたんだなあ。たしかに私だってそのままセダ村にいて、絵師になるための道を選ぶことが出来なかったらまちがいなくケレン叔母さんは、さっさと私を村の誰かと結婚させていたわ。
アネシュカは自分の境遇を改めて振り返るにあたり、そう思わずにはいられない。自分がいま絵師を経て教師という仕事を得ていること、そしてマジーグという心から愛する男と暮らしていること、それらは決していまのチェルデの女たちにとって、普通のことではなかった。
いや、考えてみれば見るほど、むしろ奇跡に近い。
そのことに気付き、アネシュカはしばし己の世間知らずさに肩を落した。
――なんとか、オルガのような女の子が、すぐに結婚せずとも、他に暮らしていける道をここで作らないとなあ。
いつしかアネシュカは、教室で少女たちに相対するうちに、そんなことを考えるようになった。たしかに修養所にて過ごすことで、彼女の視野は新しい方向に広がっていったのである。
ただ、広がれば広がるほど、己の力不足に頭を悩ますことになるのも、また、事実なのだ。
修養所のカリキュラムとしては、アネシュカとファニエルが話合い、まずは素描の授業の時間をいちばん多く設けることにした。これは生徒の全員が絵の素人であったので、基本的な技術を身につけるため必須の課程だ。素描する対象物の種類も、静物から人物、さらには建物と細く種類を分けて、時間をかけて取り組むことをふたりで確認する。
そのほかの時間は模写、チェルデ絵画史や筋肉を主体とした人間の身体の造りなどの勉強に時間が割かれることとなり、また、ファニエルの要望により歴史と社会の授業も加えられた。
しかしながら、これらをアネシュカとファニエルが手分けして講義することになったのであるが、マリアドルの後宮でしか絵を教えた経験しかないアネシュカなので、授業の方法については経験豊富なファニエルにいちいち相談しないと、道筋すら立てられなかったわけである。
「え、えーと。先生。素描のための対象物、静物はどんなものがいいんでしょうか?」
「まずはなるべく単純な形で、立体の造りと、光と影の在り方をよく視認できるものがいいだろうね。私がハルフィノで村人たちに絵を教えた際は、林檎などの季節の果物や木の実をよく使ったかな。ああ、それになるべく、生徒らの生活に身近な物であるほうがいい」
「そういうものですか」
「そうだね。素描のために用意した物より、それまでも見続けてきた物のほうが絵を描くための目は養いやすいのではと、私は経験から考えている」
ファニエルの助言の一語一句を、アネシュカは必死に脳に刻む。ときには帳面に綴り、あとからそれを読み返す。
さらには、自分が絵をどうやって習得してきたかの記憶を、逐一探る。
すべてが手探りであったが、立ち止まるわけにはいかなかった。アネシュカの教師としての日々は、文字通り、試行錯誤の連続であった。
――私、大丈夫かしら? なにもかもがファニエル先生とは経験の差がありすぎるわ。こんなのじゃまず、生徒たちに呆れられちゃう。
彼女はそう胸中をびくつかせながら、毎日を懸命に過ごす。
ところが思わぬことに、生徒から教師として支持されたのは、ファニエルより、アネシュカの方だったのだ。
騒動が起こったのは、開所一週間を経てのことだ。
その日、午前の授業は歴史で、この講義はファニエルの担当だった。なのでアネシュカは控え室に籠もって、午後の授業の手順を反芻するべく机に向かっていた。午後はアネシュカの勤めていた絵画工房に生徒を連れて出向き、トルトらに絵具の解説をしてもらう予定だったのである。
ところが、まだ授業が終わる時間でもないというのに、廊下が騒がしい。
おかしいわね、と思ったアネシュカはそれまで没頭していた教本から目を上げる。そして様子を見に行こうかしら、と椅子から立ち上がったそのとき、目の前の扉が大きな音を立てて開き、それからなんと、少女がひとり、こう泣きながら部屋に飛び込んできたではないか。
「先生! アネシュカ先生! 私、ファニエル先生の仰ること、全然わかりません!」
「えっ、ええええ?」
うわぁぁん、と涙ながらにアネシュカの胸に飛び込んできたのは、十四歳のアリシアという名の少女だ。彼女は長い金髪を振り乱し、幼い顔をぐずぐずに崩してなおもアネシュカに身を寄せて咽び泣く。
するとそのあとからどやどやとアリシアを追って他の生徒が控え室に押しかけてくる。おかげで部屋の入り口は少女たちで大渋滞の趣だ。
アネシュカはなにが何やらわからぬまま、アリシアを宥め、そして廊下の向こうの教室に目を投げる。
すると、そこには生徒らの大騒動に呆れたような視線を向け、銀髪をやれやれとばかりに揺らす者がいる。
他でもない、ファニエルだった。
「私だって、なにも生徒を泣かせるつもりで授業を進めたわけではありませんよ」
「そりゃそうでしょうけど、憧れの先生にそんなきつく詰め寄られたら、普通泣きますよ……」
「そうですかねぇ」
控え室で話を聞き、呆れ顔になったアネシュカを前にしながらもファニエルは平然としたものだ。いつものように悠然と座し、いまはアネシュカの淹れた茶を優雅な所作で啜っている。
アリシアを宥め、昼休みをいつもより早く始めることにして少女たちを昼食に送り出し、ことの顛末を当のファニエルから聞き出したところで、アネシュカは思わず嘆息した。
ファニエルが話すところによれば、授業の中盤、アリシアが挙手して、こう語気強めにファニエルを質したことから騒動は始まったのだという。
「ファニエル先生。チェルデの歴史はわかりましたが……私、正直言って、先生がなぜこの授業を行っているかがわかりません。だって、絵の話はなにもでてこないじゃないですか。そうとなると私、教えて頂いた歴史からなにを学んだらいいのか、よく理解できないんですけど……」
「ちょ、ちょっとアリシア。やめておきなさいよ」
アリシアの思い切った発言に周囲の生徒はざわめき、彼女を引き留める声も上がった。しかしながら、アリシアはきっ、とファニエルを見据えたまま動かない。
一瞬にして教室には緊張の糸がぴんと張られ、少女たちは固唾を飲んでアリシアとファニエルの問答をはらはら見守ることになったのだ。
そうして、暫くの沈黙の後、琥珀色の目を挑戦的に光らせたファニエルの言に教室内には冷たい空気が満ちた。
「あなたはなかなか、面白いことを言いますね。ですが、あなたは私から何も学ぶつもりがなさそうだ」
「なっ……」
金髪の少女は思わぬ教師の言葉に顔を強張らせた。
「そっ、そういうつもりじゃないです……。私は早くいい絵が描けるようになりたいだけです。だって、先生の絵は素晴らしいじゃないですか、だったら、歴史などより、それをどうやって描いているか、それが私たちの知りたいことなんです!」
「私たち? なるほど、あなたはこの教室の意見を代表しているようですね。なら、ちょうどいい。ここで私は皆さんにはっきり言っておきましょう」
教師の厳しい口調にアリシアは十四歳ならではの激情で応えたが、ファニエルの言葉は容赦というものを知らない。ますます気まずい空気が沈澱した教室内で、そうしてから彼はこうきっぱりと言い切ったのだった。
「私は、皆さんに『素晴らしい絵』を教えるつもりは毛頭ありません。同時に、頭で考えようとしない人間に絵を教えるつもりもありません」
アリシア、そしてその他の少女たちは、ファニエルの厳しい声に、一同、呆然となった。だが構わずファニエルは朗々とした声を彼女らに続けて投げかける。
「たしかに私の絵は素晴らしいかもしれない。ですが、絵とは遺るもの。ですから、歴史が千年経過するころには価値観は変化し、たいした価値などなくなるでしょう。芸術などそんなものです。移り変わる時間と人間には何物も敵わないものです」
ファニエルは立ち尽くすアリシアの目前でなおも語り続ける。そしてもう、こうとなってしまっては、誰も眼光鋭く独自の芸術観を語る彼を止められる者などはいなかったのだ。
「繰り返しますが、絵は後に長く遺るものです。よって、その評価は後世の人によって下される事が多い。だが、その人びとは、その絵がどういった意識のもとで描かれたかは知り得ない。だから、絵の価値など実のところ、誰にも分からない。ですが……絵は人間がその世界にいる限り、求められ、また評価される。それだけはいつの世も変わりません。ですから、まず、あなたたちは人間を知りなさい。社会を知りなさい。そうしてこそ、いい絵とはなにかを考える視座が生まれます。そうではないですか? 答えてみなさい、アリシア」
「……えっ、えっと」
ファニエルの難解ともいえる論を、一方的に捲し立てられる生徒の心中は、たまったものではない。
しかしながらファニエルは、再びいまや半泣きのアリシアに向き直る。そして彼は全く手加減することなく、涙を浮かべる少女にこうとどめを刺した。
「ですが、私は考える作業を省いて絵を描こうとする人間を教えるつもりはありませんよ。たとえ私の話が理解できないからといって、自分の絵と真摯に付き合うことを怠ける人間は、そもそも絵師などにはなれません。あなたは、その程度の覚悟で絵師を目指すつもりですか?」
そしてファニエルは、最後にこう述べて長い講義を打ち切り、銀髪を揺らして生徒たちの前から立ち去ったのだった。
「いい絵とは何か、それを考えるのがあなたたちのこれからの仕事です。私ごときが教えられることではありません。それは天におわす神の領域に値する問い掛けです、私は神ではないのでね」
「先生、絵が初めての子たちにそんな授業したんですか……?」
「いけませんかね」
「いけませんよ!」
一部始終を話し終え、なお悠然と茶を啜るファニエルに、アネシュカの頭はくらくらする。そして彼女は、呆れを通り越した怒りの声を、ファニエルに爆ぜさせたのだった。
「先生の仰ったことって、長く絵を描き続けてる絵師ならわかることかもしれません。だけど、初心者にはなんのことやら、難しすぎるのではないですか? 相手の気持ちを考えてやってくださいよ!」
「これは手厳しいね」
「それに、そんなにきつく言われたアリシアが絵を嫌いになっちゃったから、取り返しがつかないじゃないですか! ひとまず私、生徒の様子を見てきますけど、もうそういうの、やめてくださいよね!」
迸る感情のまま厳しく師にそう言い捨てると、アネシュカは亜麻色の髪を翻し、控え室を飛び出していく。
廊下をばたばたと駆けていく教え子の足音を聞きながら、ファニエルは軽く唇を歪めた。
「相手の気持ちを考えろ、ですか……。相変わらず、私は神にも人にもなれぬようだ……」
それから彼は納得したようにひとり、頷く。
なるほど、ワイダが自分でなく、アネシュカにここの主たる教師に選んだのは、こういうことであるのか、と。




