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48 はじまりと終わりの春

 ファニエルの帰還から数日後。


 月は三月を迎え、修養所の準備もたけなわとなった冬の終わりの日、子どもたちの寝かしつけを終えたマジーグが、台所の机で書きものをしていたアネシュカにこう話しかけてきた。


「アネシュカ。話があるのだが」

「なあに、エド。そんなかしこまって」


 夫の黒い双眼がいつになく真剣であるのを見てとり、アネシュカは訝しげに彼に、正面の椅子に座るよう勧める。


「うむ。お前も開所を控えて忙しいところに何なのだが……ファニエルが戻ってきたということなら、少しは負担が楽になったのかと思い、話すのだが」


 暖炉の炎の陰影が、彫りと皺の深いマジーグの顔立ちをゆらりと映し出すなか、彼はそう言いながら座する。

 そして少しの沈黙のうち、マジーグはアネシュカの顔をまっすぐ見据え、こう語を継いだ。


「俺の我が儘を聞いて欲しいんだ」

「我が儘? どうしたの、エド」


 思わぬことを言い出したマジーグに、アネシュカは驚く。

 そんな彼女の前で、マジーグはまた少し黙りこくっていたが、やがて、ようやく、こう言った。


「アネシュカ、俺はもう一度、祖国に帰りたい」

「マリアドルに?」

「ああ」


 ペリドット色の瞳が大きく目の前で見開かれるのを見ながら、マジーグは頷く。そうしてから、彼はその理由を静かな声音で話し始めた。


「俺は、弟の死の真相を知りたい。そうしないままでは、俺は心から安堵して今の生活を続けられないように思うんだ」


 アネシュカはただ黙ってマジーグの言葉に聞き入る。彼が落ち着いて思いの丈を話せるように。


「五年前、タラムは……あいつは、死ぬ前に俺にこう言ったんだ。『あなたは弟君を殺してはおりませんよ』と」

「タラムさんが?」

「そうだ」


 タラムの死に際した言葉を初めて知ったアネシュカは息を飲む。その前でマジーグは重々しくまた、頷いた。


「死に際において、俺の心を軽くしてやろう、あの言葉は奴のそんな気まぐれだったのかもしれぬ。だが、俺の知っているタラムという男は、そういう奴じゃないんだ。善意を投げかけるときも、悪意も投げるかけるときも、ある意味率直な奴だった。皮肉にくるんで言葉を放るわかりにくいやり方をしながらも、あいつは、俺に対してはそういう男だったんだ。だから俺は知りたい。タラムの言葉が本当なのかを。ずっと……ずっと心の奥底に、弟のことがあった。この二十五年、ずっと……。だから……」


 なおも室内では薪が爆ぜ、炎が明るく暗く揺らぐ様子が見受けられる。隣室からは、幼子ふたりの寝息が響く。

 春を間近にした、静かな夜だった。


「それに、この間ロウシャル閣下に呼ばれたとき、こうも言われた。ガロシュ陛下が俺に会いたがっている、そして、あの方はそう永くないとも。ガロシュ陛下は君主として俺の裁判記録を開示させる力をお待ちだ。だとしたら、俺は確かめたい。陛下にお目にかかりお力を借りて、俺は本当に弟を殺したのか、そのことを」


 マジーグは、長い語りをそこで一旦区切る。すると、アネシュカがゆっくりとした仕草で右手を夫に差し出す。そうしてから、妻の掌は優しくマジーグの左手を触った。


 マジーグは突然の妻のぬくもりに驚きながらも、数瞬ののち、自分も掌を重ねる。

 そして、妻のペリドット色の瞳を見つめ、ちいさく、真摯に、語を零す。


「アネシュカ、俺は、マリアドルに行っていいか」

「止められるわけないわよ。エド」


 アネシュカもマジーグの黒い双眼を見つめながら、囁いた。それはもう、柔らかな、優しい声音で。


「正直、あなたが留守をするのは寂しいわ。けど、なによりも大切なことをあなたが確かめに行くのなら、そうしてほしいわ」

「アネシュカ」

「子どもたちのことなら大丈夫。修養所の傍には王宮の下女の控え室があるの。だから、そこで子どもたちを見ていてもらえないか頼んでみるわ」


 アネシュカは夫の両手を取った。

 そして、いかついふたつの掌を指先で包みながら、こう伝えた。


「いってらっしゃい、エド」

「ありがとう、アネシュカ」


 微笑んだ妻に、マジーグは顔を寄せ、軽く口付ける。するとさらにアネシュカの顔が嬉しそうになるのが、彼にはなんとも愛しかった。


 そこで、マジーグの視線は机の上の帳面に落ちる。そこには、アネシュカの文字が綴られていた。


「ところで、何を書いているんだ」


 問われたアネシュカは少し恥ずかしそうに明かす。


「あのね、開所式の挨拶文」

「挨拶? アネシュカ、そんなことをするのか」

「うん、ファニエル先生に言われてね。そうだわ! エドに読んでもらおうかしら。ねえ、こんな感じなの。どうかしら」


 そんなわけで、差し出された帳面をマジーグは手に取り覗き込む。そして、暫し黙りこくって文面を目で追った。


 アネシュカは息をつめて、そんなマジーグを見守る。よく、考えてみれば、出会って以来、絵は数えきれないほど交わした間柄であったが、文章を読んでもらったことはないのだった。


「どう?」

「いや……絵画に疎い俺には、果たしてこの文がいいのか悪いのかはわからぬが……お前はこんなことを考えながら、絵を描いていたんだな。それを知ることが出来て、よかったよ」


 マジーグの言葉にアネシュカはひとまず安堵の吐息を大きく漏らした。

 漏らしつつも、なおも不安は口から溢れたが。


「思っていることを率直に話すしかないと思ったんだけど、これで、大丈夫かなあ……」


 すると、今度はマジーグがアネシュカの手を握る。そして、彼女を励ますように、こう告げた。


「自分を信じることだ、アネシュカ。お前は俺の自慢の妻であると同時に、世界一の絵師だ。そのお前が言うんだから、間違いなかろうよ」


 黒い双眼はどこまでも自分を慈しむ光に満ちていた。


 夫のその眼差しに、心の籠った言葉に、アネシュカはまた微笑む。

 夜が更けていく。

 そして胸にじんわりと広がるマジーグの優しさに感謝しながら、話題を彼のマリアドル行きのことに移すのだった。



 それから十日を経て迎えた修養所の開所式の日が、図らずもマジーグの旅立ちの日にもなった。


 アネシュカの了承を得た夜から、旅の準備を急ぐが吉とばかりに進めた結果のことだ。偶然ではある。しかし、アネシュカもマジーグも、ふたりの人生ににとって新たな旅が始まるその日を同じく迎えたことは、なにか運命的なものを感じざるを得ない。


 アネシュカは絵師から教師の道へ。

 マジーグは長い間心を苦しめてきた事柄を確かめ、未来を生きるための道へ。


 ふたりはそれぞれの感慨を持って、お互いの顔を見交わした。


「父さん、気をつけてね!」

「おとーさん、かえってきたら、いっぱいあそんでよー!」


 子ども二人が名残惜しげに自分に声を掛けるのを、マジーグもまた寂しい気分で聞く。だが、それは僅かな時間のことに過ぎないのだと己に言い聞かせて、つい目が潤んでしまいそうになるのを堪える。


「カレル、レダ。母さんの言うことを良く聞くんだぞ。土産を楽しみにしてろよ。なに、マリアドルにもチェルデに負けない品はあるんだ」


 ふたりの頭をわしゃわしゃいかつい掌で撫で回しながら、マジーグは精一杯の愛情を込めて、我が子に声を放る。

 そうしてから、妻に目をやれば、彼女はにこにこと笑っている。

 この十五年あまり、ずっと自分を見守ってくれた笑顔だった。

 きっと、これからも。


「いい旅をね。エド」

「ああ。アネシュカも修養所、がんばれよ」


 ふたりは言葉を交す。

 それがつかの間の別れだと、露ほども疑わぬまま。


 そうして、マジーグは身を翻す。向かうのは東。マリアドルへと通じる街道の方向だ。


 アネシュカは夫の黒い頭が、道の向こうに消えゆくまで、子どもと一緒にただひたすらに手を振った。彼の旅の安全を心からひたすらに願って。

 そして、マジーグの姿が彼方に溶けた時分、彼女もまた顔を上げる。


 アネシュカの瞳の先にはトリンの城壁が、初春の光に輝いている。

 あのなかにある修養所で、今日、新たな人生が始まるのだ。


「よっし……! がんばるわよ!」


 アネシュカは亜麻色の髪を揺らしながら大きく声を爆ぜさせると、カレルとレダの手を繋ぎ、春の朝の陽のもと、トリンの街へと歩き出した。


 遥か上空から、雲雀らしき鳥の鳴き声が耳を掠める。



 下女の控え室には、マジーグから旅の話を打ち明けられたその次の日には話を通してあり、おかげでアネシュカはカレルとレダをそこに預けて、修養所に向かうことができた。


 幸いなことに下女たちにふたりの子どもはたいへん気に入られ、可愛い可愛いと、ひっきりなしに頭を撫でられる有様だ。


 カレルは生まれてはじめて母と引き離される恐怖で少しだが泣き、アネシュカのスカートをきつく握りしめてしばらく離そうとしなかったが、それも下女たちの必死の慰めによりなんとかことなきを得た。

 一方レダといえば、兄と全く同じ状況であるのに関わらず、早くも髪を引っ張るにあたりお気に入りの下女を見つけ、彼女から離れようとしない。


 アネシュカは子どもふたりに見送られながら、新しい仕事場に向かう。

 この日のために整えられた建物に入ってみれば、集会室とされた大きめの部屋には早くも多くの人間が詰めかけていた。


 そこにはどうやらこれから自分の教え子となるらしい少女らがたくさんいる。彼女らはみな、チェルデ風の刺繍が映える民族衣装に身を包み、緊張した面持ちで椅子に座っている。

 皆、年の頃は十代半ばから後半というところか。


 ――ちょうど、私がファニエル先生に連れられて工房に弟子入りした年頃の子たちだわ。


 そう思うほどに、アネシュカの心にはその頃の思い出が広がり、郷愁に満たされる。いまでは遠くなったレバ湖畔での景色すら、心に過ぎる。


 だが、そうとばかりはしていられなかった。

 よく見てみれば、部屋の前方には既にこれまた正装したファニエル、そしてロウシャルら自治区の重鎮も顔を見せているではないか。

 アネシュカは慌てて、自分の控え室とされた小部屋に駆け込み、身支度を整え、化粧をする。


 その最後に鏡を覗いてみれば、その昔、マジーグの私室に通っていたときのようなドレス姿の自分がそこにいた。

 しかしながら、そこにいるのは幼い娘の自分ではもう、ない。

 齡三十を過ぎ、すっかり大人となった、ペリドット色の瞳に亜麻色の髪の女性がいた。


 アネシュカはそんな己を暫し、熱い想いのまま見つめた。


 そして、挨拶文の綴られたあの紙を懐に差し込むと、扉を力強く押し開けて、集会室へと足を向けた。



 式はつつがなく進んだ。


 ロウシャルが先日アネシュカたちに明かした通り、いまだチェルデがマリアドルの併合の末、ギルダム帝国の属国になる旨は公表されていなかったので、来賓のなかにはライルやワイダはいない。


 しかし、トリン駐在のギルダム人らしき人間は数人、場を窺うべく来所しており、事情を知らないチェルデ人たちは少しながら落ち着かない気持ちになった。


 しかし、それを吹き飛ばすにあまりあるのが、トリン占領以来十五年の時を経て再び姿を現した天才絵師の存在だ。

 なんせファニエルはかつて筆頭宮廷絵師として王宮前広場の壁画を若干二十二才にして手がけ、そのあと創世神話の改竄する名目でマリアドル軍から金を奪いロウシャルを支援し、その後は流罪となるも帝国に仕えて今日に至る、トリンでは伝説的とも言える人物なのだ。


 まだ齡四十を過ぎたばかりだというのに、あまりにも劇的なその経歴は、人々の興味を引いてやまなかった。ここが王宮内でなかったら、彼の姿を一目見て讃えんとする一般市民が大勢押しかけたことは想像に難くない。


 だが、当のファニエルといえば、アネシュカの隣に座り、琥珀色の瞳を楽しげに光らせては悠然と式の進行を見守っている。

 アネシュカといえば緊張してそれどころでないというのに。


 しかし、その彼に、こうちいさく声をかけられて、ようやくアネシュカは意識を目の前のこの場に戻すことができた。


「アネシュカ。お前の挨拶の番ですよ。ほら、前に出て」


 アネシュカは弾かれたように椅子から立ち上がる。


 途端に室内の全ての人間の視線が自分に突き刺さり、彼女はもう動転しそうだった。それでもなんとか、えっちらおっちらと壇上まで歩を進める。慣れないドレスの裾を踏んで転倒しなかったのは、後から思い起こせば奇跡に近かった。


 アネシュカはぺこり、と礼をした。

 

 目前に座する人間のなかで、やはりより熱い眼差しを自分に投げかけているのは、最前列に座った二十名ほどの少女たちである。彼女らの様々な色の眼が、アネシュカの顔を熱く射ぬいている。


 その光景に気圧されそうになりながら、アネシュカはなんとか、声を喉の奥から絞り出した。


「教師を務めるアネシュカ・パブカです。えっと、こういう場って初めてで、なにを話せばいいかわからないんですけど……絵について、私が思っていることを、三つほど、話します」


 そこまで話したところで既に喉はからからに乾いている。だが、逃げ出すわけにもいかない。

 そうしてアネシュカは、ごくり唾を飲むと、懐に携えていた紙を取り出す。もちろん、マジーグに読んでもらった挨拶文の原稿だ。


 そして彼女は、声に出して、挨拶文を一語一語、丁寧に読み上げていく。

 どうか少女たちの心に少しでも響くようにと、真摯に祈りながら。


「ひとつ。まずは絵を楽しんで描いてください。その喜びが、みなさんの絵描きとしての人生を支えていくんだと思います。ふたつ。それができたら、誰かのために描いてみてください。できたら、あなたの大切な人のために。その人の幸せのために。笑顔のために」


 室内の静寂を縫うように、アネシュカの声が広がっていく。

 話していくうちに、次第にその声からは緊張よりも、言葉に籠めた情熱が感じ取れるようになっていく。そのことに気づいたファニエルは、人知れず柔らかく目を細めた。


 そんなことに気づく余裕もなく、アネシュカは話し続ける。

 そして、挨拶の最後の段落にやっと辿り着くに及び、彼女は一旦口をつぐむ。そして大きく息を吸ってから、そのあとは一気に語を放った。


「そして……みっつ。これは私も試行錯誤中で、また、ファニエル先生からの受け売りでもあり、あまり偉そうなことを言えるわけではないのですが……自分のために絵を描いてください。他でもない、あなた自身のために。どんなに素敵な絵が描けたとしても、自分が辛くなってしまっては、なんの意味もないと思うんです。どんなに描くことで苦心したとしても、最後に心に残るものは、喜びとか、幸せであってほしいんです。これはいろんな芸術に言えることなんでしょうけど……そうでなければ、絵を描く意味を探すのは……あなたにとって、そして、教える私にとっても、とても、とても難しいことになってしまうと思います。ですからどうか、絵を通して見るあなたの生活が美しいものであるように、してください」


 アネシュカの言葉は最後まで流れるように、とはいかなかった。それでもその場にいた人々の心を掴んだのは、彼女がこう話を終えた途端に起こった観衆の反応からして、明白だった。


「あなたたちにとって、ここでの学びが意味あるものでありますように。……以上です」


 言葉の最後は鳴り響く拍手に打ち消され、アネシュカの心といえば、反響の大きさよりも、自分がなんとか無事に話し終えた安堵感に浸ってしまっていた。

 それでも大切な師が誰よりも大きな音で手を叩いてくれているのが視界に映ったとき、ようやく彼女の顔は笑顔になった。


 そして、式次第が全て終了した瞬間、散会する人々の間を縫ってアネシュカのもとに駆けてきてくれた栗色の髪の少女がこう声をかけてきたとき、彼女はさらに破顔した。


「先生、とてもお話、感動しました!」


 少女の青く若い瞳はきらきらと輝き、興奮からか頬は赤く上気している。

 その姿と言葉にアネシュカの心は、これ以上ない喜びに満たされた。


「ありがとう! うまく話せたかどうかわからなくて、気になっていたの。だから嬉しいわ! あなた、名前は?」

「オルガです、オルガ・ペテルレと言います! トリン在住で、今年十五才になりました! これからよろしくお願いします、絵の勉強、私、頑張ります!」


 オルガと名乗った少女は栗色のふたつに垂らした三つ編みを振り乱す勢いで、アネシュカの前で捲し立てるかのように語を継ぐ。


 アネシュカには、これから教え子とするそんな年若い少女の姿が、まるでかつての自分のようで、愛おしくて仕方がない。


 窓の外ではマジーグと別れた朝と同じく、春の陽光が優しく光っている。


 心華やぐ季節はすぐそこだった。


 今日このとき、この場にいた人間の多くが、この春がチェルデと呼ばれる国の最後の春であることを、いまだ知らないでいる。

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