47 ファニエル、帰還
堅牢な石造りの城壁が、冬の弱々しくも柔らかな光に輝く。
懐かしい光景だった。最後にこの景色を見たのは十五年ほど前のことか。そして流刑人としてここを去ったのもその頃だった。
そのときは鎧戸を固く閉ざされた囚人専用の馬車に乗せられてだから、数多の思い出深い王都を振り返って見ることも叶わなかったが。
ファニエルは馬上から、ひさびさのトリンを眺め、感慨深げに呟いた。
「ついに、私の『そのとき』が来たのですね」
ギルダム帝国ライル皇女の署名入りの通行証を警備兵に見せれば、門は拍子抜けするほどにあっさり開かれる。
こうしてファニエルは、悠然と懐かしの王都へと帰還を果たしたのだ。
アネシュカが教鞭を務める学校は、修養所と名付けられ、王宮の中に急ぎ作られることとなった。
王宮内であれば、かつて使われてはいたものの、マリアドル侵攻後空き部屋になっていた建物はたくさんあったし、なによりアネシュカが働いていた絵画工房からも近く、必要な絵具や画材を揃えるにはもってこいの立地であった。
二月、アネシュカは春の開校を前に、慌ただしく修養所の建物内で過ごしていた。
今日は生徒が使う椅子や机を揃える仕事だ。アネシュカひとりの手には余る仕事だったが、幸いなことに工房からトルトが手伝いに来ており、おかげで彼女がすることといえば、運び込まれる机と椅子を数えるくらいしかない。
そして、唐突にそこへ現れた思わぬ男の姿に、アネシュカは仰天することとなる。
「……ファニエル先生!」
あの処刑台から十数年。
冬の陽を背にした銀髪にはちらほら白いものも見え、顔も厳しさを増してはいる。
だが、間違いようのない師の姿が、開け放たれた戸口にあった。
アネシュカは亜麻色の髪を揺らして、ファニエルの元に駆け寄る。
別れた頃はまだ幼い少女だった弟子のペリドット色の瞳が、涙に濡れながら己の元に向かってくる光景を、ファニエルは懐かしさに琥珀色の目を細めて見守った。
「おかえりなさいませ! ファニエル先生」
「長らく留守にしたね。ただいま、アネシュカ」
こうしてふたりの師弟は長らくの時を経て、顔を合せたのだった。ふたりの間に流れる空気は、離れていた時間を感じさせぬ、穏やかなものだった。
アネシュカが、師を歓待すべく修養所の近くにある王宮内で働く人間用の食堂に飛んでいってしまったので、室内にはトルトとファニエルが残された。
ひさびさのトリン王宮内を懐かしそうに眺めるファニエルに、トルトがやや気遣わしげに声を掛けたのは、アネシュカが場を去ってしばしの間を置いてからだ。
「先生は、俺たちの工房に戻って、再び皆を指導するおつもりはないんですか?」
するとファニエルは柔らかく微笑む。
そうしてから、どこか寂しげな口調で赤髪の青年に答えた。
「私にはもう、そんな資格はありませんよ」
「なぜです。俺たちはずっと、待っていたんですよ」
「私は工房の皆に、さんざ迷惑をかけましたからね。壁画を壊させ、意に沿わない絵を描かせましたから」
「やっぱり……その気はないんですね。じゃあ、先生が仰っていたトリンに戻る『そのとき』とは、いったい、どんなときのことだったんですか?」
予想はしていたことではあったが、師が工房で再び筆を執る気はないと分かり、トルトの声音は少し恨めしげだ。だが、ファニエルは意に介することなく、思うがままの言葉を述べる。
「私の『そのとき』とは、私がアネシュカになにか教えることが出来たとき、他なりませんよ。女神に恩を返せるのですからね」
「女神、ですか? アネシュカが?」
訝しげにトルトが問い返す。
自分たちチェルデ人にとっての女神とは、普通、バルシのことである。であるから、トルトには師の言葉が分かりかねた。
対してファニエルはその意味を説明しようとはしなかった。ただ、銀髪をかき上げながら、さらり、とこう返しただけだ。
「私にしかわからない比喩みたいなものです。気にしなくていいですよ」
トルトが師の曖昧な答えに戸惑うような顔になったところに、バタバタと外から足音が聞こえた。ついで、ノックがトルトの耳を打つ。
扉を開いてみれば、焼き菓子と茶器が載った盆を手にしたアネシュカが立っていた。
「先生、お待たせしました! ちょうどコックが試作品のルバーブのタルトを作っていたので、お願いしてもらってきちゃいました。さあさ、お茶にしましょ! 先生、チェルデ風のお茶、久しぶりですよね? ゆっくり召し上がって頂きたいです!」
彼女は頬を上気させ、息を切らしながら、部屋のなかへ駆け込んでくる。
その賑々しさがなんとも彼女らしく、ファニエルもトルトも顔を笑みに緩める。なので、男ふたりの会話はそれ以上広がることはなかった。
椅子や机が積み重なった落ちかない部屋のなかではあったが、茶会は和やかに進み、夕方が近付く。
やがてトルトは、一日中ここにいるわけにもいかないんで、と言って席を立ち、工房へと戻っていく。
赤髪の青年の姿が戸外に消えていくのに琥珀色の瞳を投げていたファニエルが、改めてアネシュカに向き合い、彼女の顔を見据える。
それからゆっくりファニエルの口から漏れた言葉は、アネシュカが思いもしなかったことだった。
「アネシュカ……私がなぜ、長らくトリンを離れ、今日に至るまで戻らなかったかの話をしましょうか」
「え? ええ……」
それまでと調子を変えて、まるで独り言のようにも聞こえるその小声にアネシュカは戸惑う。そして、それから放たれた語には、息を詰まらせずにはいられなかった。
「私はずっと、アネシュカ、お前が憎かった」
「……えっ……」
「どこまでも光を描けるお前が、憎かったのです。だから、私は本来、いまさら、お前の前にも顔を出せるような人間ではないのですよ」
ファニエルの言葉には澱みがない。
彼は、どこか苦笑いするような口調で、淡々とそれまで心底に溜めていた弟子への愛憎を言ってのけた。
まるで、何年もこれを言うときを待っていたのだと言わんばかりに、一言一言、アネシュカ、そして自分に言い含めるかのように。
アネシュカは、師の言葉の意味を図りかね、茶器を手にしたまま呆然とファニエルを見る。
結局、アネシュカは暫しの間を置いて、こう語を零すことしかできなかった。
「先生は……私のことが、ずっと、お嫌いだったのですか? チェルデにお戻りにならなかったのも、もしかして、そのせいなのですか?」
「そうじゃない、そうじゃないよ。アネシュカ」
弟子の言葉を聞いて、ファニエルは困ったように微笑んだ。そして一口茶を啜ると、また、アネシュカの顔を見据える。
「寧ろ、お前のことは好きですよ。そうでなければ、私は今、ここにいません」
「どういう意味ですか」
「私がチェルデに戻ることを決めたのは、私がお前に再び教えられることを見つけたからです。それまでは、お前の前に姿を見せるまい、そう思っていたのですよ。それが私の、お前にした仕打ちに対するけじめです」
「仕打ち? 私、先生になにかされましたっけ……?」
「分からないなら、それでいいのですよ。アネシュカ」
怪訝な顔をするアネシュカに、ファニエルは銀髪を揺らしながらまた微笑した。彼としては、そうすることしかできなかった。今さら彼女をなぜマジーグの私室に送ったか、その真実をアネシュカに知らせたところで、自分にはともかく、彼女には何の益もない。そうと思ったからだ。
代わりにファニエルはこんなことを口にして、アネシュカをますます当惑させた。
「私は神にもなれなかったが、人にもなれないのです。アネシュカ、お前と閣下が生きている愛の世界には程遠い人間ですよ。ですが、私はそれを悔いていません。たとえそれが、かつて私が芸術に心奪われたゆえの因果だったとしても。私にとっては、それが絵を描くことだったのですから」
修養所の室内に沈黙の帷が落ちた。窓から差す光はもう、夕暮れのものだ。茶器のなかからは、とうに湯気は失せている。
やがて、赤い陽の光と影の狭間で、アネシュカはこうぽつり、と呟いた。
「ごめんなさい……。私、先生の仰ってること、やっぱりよく、わからないです。私は今もって、先生に恩義しか感じていませんし……」
「そうですか」
ファニエルは反論するまでもなく弟子の言葉を受け止める。それから、冷えてしまった茶を一気に飲み干す。
そうしてから、またもアネシュカの顔を正面から見据える。今度は微笑みを封じた、それまでと異なる真摯さが浮かぶ顔持ちで。
「ではこれから言うことについてだけ、胸に留め置いてくれればいいです」
それから彼は息を軽く吸うと、アネシュカにこう語りかけた。
「アネシュカ。絵を決めるのは技量でも技法でもありません。絵の評価など見る人によって、天と地ほど違いがあります。ならば、これからは、お前のために、お前が思ういい絵を描きなさい。今度は誰かのためでなく、お前が信じる絵を描きなさい」
そう語を紡ぐ師の背後の窓からは茜色の陽が輝き、アネシュカにはその表情がよく見えなかった。だが、ファニエルの言葉は今までなく重く、同時に意味深だ。
アネシュカは少し黙りこくったあと、おずおずと思ったままのことを述べる。
「でも……先生、私はもう絵を描けません。教えることは出来ますけど」
「絵は『描く』ことだけが絵では、ありませんよ」
ファニエルの意表をついた答えに、アネシュカは思わず息を飲んだ。
目の前でゆらり、銀髪が揺れたのが視界を掠めた。どうやらファニエルの唇はまた、静かな笑みを刻んだようだった。
「それについて深く考えることもまた、絵です。さらにいうなら、それが芸術です。私がいまお前に教えられるのは、そういうことです」
部屋には早くも夜の冷気が満ちてきた。二月ならではの宵の寒さが、修養所内にも注ぎ込む。
その最中でファニエルは最後に、こう呟いて話を終えた。
「でも……私はもともと、そのことを、他でもないお前から教わったのですよ、アネシュカ」
アネシュカの亜麻色の髪が、薄寒くなってきまた空気のなかを揺れた。
彼女にとって、今日の茶会での師の話はあまりにも意外なこと、そして、改めて反芻しなければならぬことが多すぎた。なので彼女はついにどう答えればいいか分からなくなってしまって、下を向いてしまったのだった。
するとファニエルが椅子から立ち上がり、傍に掛けていたマントに手をかけた。どうやら辞するつもりのようだ。アネシュカも慌てて立ち上がり、師を見送るべく戸口へ向かう。
すると、別れ際にファニエルはアネシュカにこう尋ねた。
「それはそうと、修養所の開所式はいつだったかな?」
「あと一ヶ月ほど後です。三月の終わり、聖霊祭の二週間前の土曜日です」
「じゃぁ、アネシュカ、お前にそれまでに宿題を課しましょう。式ではお前から生徒に、挨拶をしてもらいます」
「えっ? 私が挨拶ですか?」
アネシュカはペリドット色の瞳を瞬かせた。そんな機会が巡ってくることは、想定していなかったのだ。
「当たり前ですよ、この学校の主たる教師はお前です。ワイダ様もそう考えてアネシュカを選んだのでしょうから」
「はあ……」
「だから、それまでにお前が、これから絵を学ぼうとする生徒たちに話せることがなにか。それをよく考えておくことだね」
戸惑うアネシュカにそう言い残すと、ファニエルは宵闇に覆われ始めた王宮の中庭に姿を消していく。
「絵をこれから学ぶ人に、私が話せることかぁ……」
師の背中が闇に溶けゆくのを見ながら、アネシュカは独り言つ。
その亜麻色の髪に吹き付ける夜の風は、早くも春の気配を孕んでいた。




