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45 揺れ動く世界

 翌日、アネシュカは朝の洗濯と掃除を終わらせたあと、所在なげに台所にひとり、佇んでいた。


 ――さて、心機一転、新しい生活を始めることにしたのはいいのだけど。


 庭では、どうやら絵を描いていたカレルにレダが掴みかかったらしく、ふたりの悲鳴とも叫びともつかぬ賑やかな声が聞こえてくる。

 しかし、その最中にいながらも、アネシュカの意識からはそれらは虚ろだ。


 彼女はいまさらながら、自分が絵師を辞め、一家の主婦としてこのちいさな家のなかのみで生きることに、戸惑いを隠せなかった。


 ――考えてみれば私、家のこと、いっぱいエドに任せていたんだなあ。炊事に洗濯、そしてカレルとレダの相手。とくにレダを産んだときは、産後の調子がいまいちだったから、それからは、ほぼエドに頼りっきりね。


 今日はマジーグはトリンまで買い物に出かけおり、朝から不在だ。

 このような暮らしももう五年。慣れたとはいえ、どんな人間がいるかもわからぬトリンの雑踏の中に彼を送り出すのは、不安に心が満たされる。それでも第二子の出産後、体調のすぐれない妻を見るに及び、マジーグはそれは自分の務めとばかり、日々の買い出しを請け負ったのだ。


 そして、それがいつのまにか、当たり前になってしまっていることにアネシュカは気づく。


 ――エドに偉そうなこと言っちゃったけど、私もしっかりしなきゃなぁ。でも実際のところ、家事全般、エドの方がみんな上手くこなすのよ。貴族の生まれなのにね。そうとう、軍務のなかで仕込まれたんだろうなあ。


 アネシュカは物思いに耽りながら、無意識のうちに右手で髪をかき上げた。


 そのとき、頬まで手を持ち上げたものだから、右手の腕半分から掌にかけて、微かに残る細長い赤い傷が視界に飛び込んできた。アネシュカは我に返って、右手をゆっくり下ろし、傷を見つめる。


 それから彼女はため息を吐きつつ、独り言ちた。


「実のところ、絵師を辞める覚悟はとっくにできていたんだけどなあ……」


 五年前、マリアドルからチェルデに帰国し、斬られた手の違和感に気づいたとき。傷が癒えてから、恐る恐る木炭を手に帳面に向かっていたとき。

 そのとき、アネシュカにはよくわかった。自分は、もう、工房の絵師足りえないことを。


 それはものすごい衝撃であった。それこそ天地がひっくり返るような。

 不安で眠れず、眠るマジーグの腕を握りながらじっ、と夜を明けるのを待った、そんな晩もあった。


 だが、そのときすでに自分は妊娠しており、意識はどうしてもそちらに逸れたし、その後の二度にわたる出産と育児の慌ただしい日々が、ちょうど良くショックを誤魔化してくれていたのだ。

 今日の今日まで。


 いま、部屋の隅には、工房から持ち帰ってきた荷物が鎮座している。仕事場に置いていた私物は大した量ではなかったが、それでも、こんもりと一塊にはなっており、それらは所在なげに朝のひかりのなかで、ただ、そこにある。


 アネシュカはその荷物の山に近づき、一本の筆を手に取った。

 工房に弟子入りした頃から使っていた愛着ある筆だ。毛先はばさばさと散り、柄の木の部分もだいぶ古びてしまっている。

 しかしながら、アネシュカの絵師としての日々を支えてくれた、愛おしい存在他ならない。


「私、ほんとに、もう絵を描けないんだなぁ……」


 アネシュカは筆に目を落としながら、ぽつり、呟いた。

 それから、こうとも。


「これから……どう生きていけばいいのかな、私」


 そうは口に出してみたものの、絵を描けない自分の未来、いや、今日から始まっている現在がどのようなものなのか、彼女にはぴんと来ない。


 そのことを考えているうちに、急激に胸を競り上がったのは、感じたことのない、巨大な空虚感だ。


 アネシュカは、そのとき初めて、いまこの現実を生きることが怖くなった。



 人間の逡巡をよそに、その年の夏は日照りも災害もなく、穏やかに過ぎ去った。


 しかしアネシュカらが暮らすチェルデ、そしてマジーグの祖国マリアドルを取り巻く国際情勢といえば、なおも激しい。


 マジーグによるチェルデ侵略から十五年。

 マリアドルを襲ったハイサルの乱から五年。


 マリアドルは瀕していた。


 もとよりチェルデ侵攻、それに続くギルダムとの戦いで国力が疲弊していたところに起きたハイサルのクーデターはマリアドルを真二つに割った。

 国内では復位したガロシュ派とハイサル派の残党の内紛が生じ、この混乱が収まるまでにクーデター後、三年の月日を要した。

 その間にこれ以上なく国土は荒れ、民衆は等しく飢えたのだ。よって国外に流れる民もまた多かった。


 加えて、ハイサルのクーデター鎮圧に力を貸したギルダムの影響力も、もはやマリアドルは無視することができない。


 実際のところ、マリアドルがいまも国として形を保っていられるのは、ギルダムの力に依ること大きく、よって、正式な敗戦の宣言さえ行っていないものの、マリアドルはギルダムに敗れたのは、いまや誰の目においても明らかだ。


 それどころか、現在マリアドルはギルダムの属国となり失せたと表現する方が、実情に近い。


 一方、ロウシャル指揮の元、自治を保ち続けているトリン自治区は、ハイサルの乱を契機としてギルダムと組んだ。

 これはトリン自治区の立場を著しく好転させ、トリンはいよいよ大陸の要の都として繁栄している。

 その益は、マリアドルになお占領されている旧チェルデ領でのチェルデ人の抵抗運動に流れ、マリアドルをますます苦境に追い込んだのである。


 ただ、トリン自治区の繁栄も、ギルダムの後ろ盾あってこそという現実においては、トリンもマリアドルと立場は同じであった。


 つまりはトリン自治区の命運の全てはいまや帝国に握られており、それは、隣国マリアドルと同じくギルダムの属国的立ち位置に他ならない。


 大陸の覇者は、ギルダム帝国である――これがいま現在、この大陸に生きる人間の共通認識である。


 帝国の意向が、トリン、そしてマリアドルの今後の命運を決める。


 五年を経て、アネシュカとマジーグを巡る国際情勢は、このように変化していたのであった。


 その年はやがて秋になり、冬を迎える。


 政情に大きな異変は見られず、時は穏やかに移ろったように思えた。

 しかしながら、その水面下では大きな変革が生じていたのである――。



 新年が明けた。


 その年の一月はトリンには珍しく雪がちらつき、積もりこそしなかったものの、地の底からはいあがるような冷気が人を凍させた。


 今日はマジーグは用心棒の仕事の日ではなかった。なので朝からのんびりと、台所の椅子に座し、茶を嗜んでいる。

 膝にはレダが乗っかって、あいもかわらず父の髪で遊んでいたが、今日はもう二度叱られ、いまは不機嫌そうな顔のままマジーグの胴にしがみついている。

 兄のカレルといえばこれまたいつものとおり、卓上の帳面に向き合っている。


 暖炉では赤赤と炎が揺らぎ、アネシュカは火の頃合いを見ながら、そろそろ炭になってしまったかしら、といくつかの薪を焚べた。


 冷えはするが、穏やかな冬の朝だった。


 静寂が破られたのは、屋外から馬の嘶きが響いてきたときのことだ。

 アネシュカとマジーグは顔を見合わせる。この家に馬でやってくるのはトルトくらいのものだが、彼は今の時刻なら工房で仕事に励んでいるころだ。


 訝しみながらマジーグがレダを膝から下ろして、扉に近づく。

 警戒しながら細くドアを押し開けてみれば、見知らぬ男の声が冷気と共に響いてきた。


「エド・マジーグ殿のお宅であるな。突然ではあるが、これから我らといっしょに王宮に来てもらえぬか。ロウシャル閣下のもとに貴殿への客人が来ておる」


 客人はロウシャル麾下の軍人だった。

 申し出された用件と、その厳しい声と顔つきにマジーグは驚き、即答を躊躇したが、それを聞き、アネシュカは暖炉の前から彼に声をかける。


「そういうことなら、エド……行ってきたら? 閣下からのご用事なら、おかしなことは何もないでしょうし」


 ところが、次に軍人は、思わぬことを口にしたのだ。


「ああ、マジーグ殿だけではない。奥方も一緒だ」

「……私?」

「そうだ、閣下はおふたりに来てほしいと言っておる」

「えっ、でも……急にそう言われても、この子たちもいますし……」


 すると、軍人は頷く。そして突然の来客にぽかんとしている幼子ふたりを見ながら、こう続けた。


「承知しておる。だから、子どもを連れてでもよろしい。とにかく、おふたりに来ていただかなければ意味がないと、閣下からの要望であってな」


 そこまで言われては断る術もない。

 アネシュカとマジーグは慌てて子どもを奥の部屋に連れて行き、家にあるなかでいちばんあつらえの良い洋服に着替えさせる。

 むろん、親ふたりも同じくだ。


 こうして、ゆれうごく世界は、ふたりの運命をまたも変えるべく動き出したのであった。



 アネシュカの勤めていた工房は、王宮の中にあったが、そこは広大な王宮内の僻地に過ぎない。だからアネシュカとて、奥にある主宮殿にへと足を踏み入れるのは久しぶりだ。

 そう、当時総督であったマジーグの私室に通ったとき以来だ。


 彼女は懐かしさに身を震わせる。

 遠い思い出にはなってしまったが、初めての夜、恐怖に身を震わせながら、タラムに連れられてマジーグの部屋を訪れたときのことはいまも脳裏に鮮やかだ。

 いま、その他でもない男と添い遂げ、互いの子どもの手を引きながら隣を歩いていることはあまりにも意外な運命の悪戯としか言い表しようがない。


 王宮のそこかしこには黒く煤けたり、金銀細工が剥がされた箇所があり、マリアアドル軍の掠奪の跡は時を経てもまだ生々しい。

 しかしそれでも、チェルデの芸術を極めた技が光る壮麗な装飾はなお輝いていて、見る者の目を奪わせるのに充分だった。


 冬の日差しに照らされた、煌びやかなステンドグラスの天窓を見上げて、アネシュカと手を繋いでいたカレルが母を見上げる。


「ねぇ母さん、昔、ここにお勤めしてたの?」

「そうよ。宮殿ではないけどね」

「すごいねぇ、きらきらしてるねぇ。きれいだなぁ」

「きらっきらー! きらっきらー!」

「レダ、頼むから閣下の前で髪を引っ張らないでくれよ……」


 レダもすっかり興奮して、歓声を上げる。そんな娘の手を引くマジーグとはいえば、ちいさく幼子にそう声をかけるばかりだ。彼としては懐かしさよりも、子ども連れというこの状況に気が逸れてしまっている様子だった。


 アネシュカにはそんな夫が微笑ましい。なにより高まるばかりの緊張を和らげてくれるのがありがたい。マジーグも己の過去に思いを馳せて、苦しい気持ちになってしまうのでは、と彼女は密かに案じていたので、なおさらだ。


 それでも、いったい自分たち夫婦がなぜロウシャルに呼ばれたのか、そのことはかなり気がかりだ。気を緩めれば、進む足が震えてしまいまそうだ。

 そうして辿り着いた王宮奥のロウシャルの執務室に、アネシュカ一家は足を踏み入れる。


 さほど広くはないが、白と金を基調とした上品な調度品に囲まれた美しい部屋であった。かつては王族の居室であったのだろう。


 そしてそこにはふたりの人間がいる。ひとりは軍装のロウシャル、もうひとりは異国の装束を纏った赤銅色の髪の若い女だ。


 その女を目にした途端、マジーグが驚きの声を上げた。


「あなたは……ライル様……!」

「久しぶりじゃのう。マジーグ」


 ギルダム帝国皇女、ライルは久方ぶりに見るマジーグを見やり、人の悪い笑みを紅い唇に浮かべた。


「エド、お知り合い?」

「ああ、この方はギルダム帝国の皇女たるライル殿下だ。俺がお前を助けに帝国に降ったとき、助けてくれた御方だよ」


 アネシュカは思わぬ女の正体に、唖然とした。だがライルは構うことなく、マジーグの横で目を丸くしているアネシュカの顔を舐めるような眼差しで見渡す。


「そうか、そなたがマジーグの女か。傾国の美女にしてはなんとも、あのファニエルの絵の通り、可愛らしい女子おなごだのぅ」

「けっ、傾国の、美女? 私、そんなのじゃないですけど……」

「そう言われても間違いはあるまい。そなたのためにマジーグはマリアドルを捨てたのだからな。まったくもって、二度国を滅ぼした男だのぅ、エド・マジーグは。チェルデだけではない、祖国もじゃ」

「え……?」


 意味深なライルの言葉にマジーグが眉を顰めた。


 それを見て、それまで黙っていたロウシャルが、ようやく苦笑いしながらライルに話しかける。


「殿下、そこまで話すには流石に急ではありませんかな。まずは順を追いませんと。マジーグ殿も奥方も、我らに呼ばれた訳もわからず、ぽかん、としておられる」


 するとライルがまたもにやり、と笑う。

 それを認めるとロウシャルは改めてアネシュカとマジーグ、それと子どもふたりに身体を向け直し、朗々とした声でこのように言葉をかけてきた。


「よく来てくれた。実はお忍びでライル殿下がトリンに来ておられてな。せっかくだからマジーグ殿にお会いしたいとのことだったのだ」

「そういうことでございましたか」


 マジーグが納得したかのように語を漏らした。

 だが、彼としてはそれだけで会話を終わらすのには、先ほどライルから投げかけられた言葉が、気になって仕方ない。


 結局、数瞬の躊躇いの後、彼はこう問うた。

 となりでは大人たちの話などわからぬ子どもたちが所在なげにしている。カレルは落ち着かずに貧乏ゆすりをし、レダといえば父の髪に熱い視線を投げていたが、こうとなっては構ってはいられなかった。


「ですが、私が国を二度滅ぼした、とは、一体。私はたしかにチェルデには攻め入りましたが、マリアドルまで、ということですか? それは……どういうことでしょう?」


「それは(わらわ)から話そうかのう。だが、他言無用じゃぞ」


 マジーグの疑問に、ライルが再度唇を蠢かす。

 そうして、相変わらずの舐めるような視線でマジーグ、そしてアネシュカを見渡すと、さりげなさを装った口調で、とてつもなく重大な言葉を放ったのだった。


「マリアドルは近々、滅ぶ」


 その衝撃的な言に、マジーグとアネシュカは息を飲む。

 しかしながら、衝撃は一撃だけではすまなかった。特にチェルデ人たるアネシュカにとっては。


 果たして、ライルは次にこう述べたのだ。

 目前に佇むチェルデ人とマリアドル人の夫婦を眺めながら。


「だが滅ぶのはマリアドルだけではないぞ。チェルデも共にじゃ」

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