44 貴方の苦しみ、私の痛み
トルトとイルマふたりの手によって自宅に担ぎ込まれ、ほどなく目を覚ましたマジーグをまず襲ったのは、アネシュカからの容赦のない罵声である。
「ここ一週間、全然眠れていなかったぁ? なのに、たくさんお酒飲んだ? そりゃぁ、倒れたって当たり前でしょう! エド、あなた、ばか?」
アネシュカのペリドット色の瞳は怒りと呆れにらんらんと光り、顔は赤く上気している。
マジーグは寝台の上で弁解の言葉も浮かばず、ひたすらに黙りこくっていた。隣室から聞こえてくる幼子ふたりの安らかな寝息が、さらに彼の罪悪感を掻き立てる。
結局、マジーグがおどおどと謝罪の言葉を述べたのは、数分もの時間が経過してからだ。
「すまなかった……」
「謝れば済むってもんじゃないわよ! 酒場にトルトの他にエドのこと知っている人がいたら大変なことになっていたのよ? それなのに酔い潰れるなんて! なんでこんなことになったのよ? だいたい眠れてないって、どうしたのよ!?」
「……悪夢を見てしまって、眠れなかったんだ。ひさびさに……悪霊に追い回された」
「……なんで……?」
「俺は……、俺は、お前を守れなかったのが、申し訳なくて……」
「はあっ?」
詰問の末に夫が口にした言葉を耳にして、アネシュカは目を吊り上げた。そして、口から再度怒声が飛ぶ。
「そうやってひとりで抱え込んでも仕方ないでしょ! あなたに何かあったらどーするの! あなたには私もいるし、この子たちもいる! あなたはもう、ひとりじゃないのよ!」
亜麻色の髪を振り乱す妻の怒りはあまりにも苛烈で、マジーグとしては肩をすくめながら聞き入るしか術がない。
それでも、アネシュカがこのように言われたとき、マジーグは頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。
「だいたいねぇ! 絵が描ける描けないは、あなたの問題じゃないの! 私! 私の問題! で、工房を辞めたのも私の決断! それをなんでエドが責任感じて、悪夢を見るほどひとりで塞ぎ込むのよ? おかしいでしょ!? 私を心配してくれるのは嬉しいけれど、この問題に関して、いちばん辛いのは私。だけど、私はそれをよしとしたのよ!」
マジーグとしては、ぐうの音も出ない。
アネシュカの言葉はたしかに、正論でしかなかった。彼女のことを思いやって心を痛めたつもりが、自分ひとりで悩みを抱え込み、挙句の果てに酩酊して、結果としてとてつもない心配を当人にかけた。
と、なれば、たとえアネシュカのことを案じての結果だったとしても、結局は自分ひとりが苦しみに酔っていたと詰られても、反論のしようもない。
ことに、項垂れるマジーグの胸に、ぐさり、深く刺さったのは、この一言だ。
――この問題に関して、いちばん辛いのは私。
彼は唇を噛みながら、その言葉の重さを臓腑に深く滲みさせる。マジーグは、アネシュカにかける言葉もなく、寝台に半身を起こしたまま、下を向いた。ばさり、と己の白髪の目立つ黒髪が、頬と肩にかかるのが目を掠めた。
それでも、謝罪の言葉を述べないわけにはいかない。
「アネシュカの言うとおりだ」
マジーグはしばらくののち、喉から声を絞り出した。
「……すまん。アネシュカ。俺は、何よりもお前の心に目を向けなきゃいけなかった。もう少し、人の気持ちに気をかけないといけないな。悪かった」
老いた男は項垂れて長髪を力無く垂らしたままでいる。
アネシュカは目を吊り上げたまま、そんな夫を見つめていたが、やがて、怒らせていた肩から力を抜く。
そして、表情を柔らかく緩めると、こう声をかけながら、ゆっくりと彼の両肩に手を差し伸べた。
「わかってくれればいいのよ、エド。そんな顔しないで。まるで叱られた仔犬みたいよ」
庭のワバーハラの茂みからだろうか、虫の鳴く音が遠く家の中まで響いてくる。突如訪れた夏の夜の静寂に、それらのざわめき、そして隣室から変わらず聞こえてくるふたつの寝息が重なり合い、ふたりの鼓膜を擽った。
僅かに開けた窓の隙間から、夜風が吹き渡り、カーテンを音もなく揺らす。
「ほんと、もう。エド。あなたは昔からひとりで抱え込みすぎなのよ」
やがて、アネシュカが唇に苦笑いを刻み、こう囁いた。
「そうよ、弟君のことだってそうだわ」
「弟のこと……だが、あれは……」
「いいえ、エド」
言い淀んだ夫に、アネシュカはやさしく視線を投げた。だが、そのペリドット色の瞳には穏やかながらも、真摯な光が満ちている。
そして、それからマジーグの耳を打った言葉もまた、真摯この上ない響きに満ちていた。
「いつも言わずにいたけど、今日は言わせてもらうわ。あなたが本当に弟君を手にかけたのか、それは私にもわからない。だけど、そのことであなたがこの二十五年というもの、ずーっと苦しんできたのは知っているわ。いえ、今もあなたは苦しんでる」
マジーグの肩がびくり、と震える。
ちいさな動きではあったが、アネシュカにとっては、彼が深く胸を突かれたと知るには十分な挙動であった。だが、彼女はなおも語を継ぐ。
いつかは、言わないと、と思っていたことだった。
だったら、いま、アネシュカは言わずにはいられなかった。
「でもそのことは決して、私には言わないのよね。それもわかってる。そう、口に出すのも辛いんだろうなあとも思う。でもねエド、繰り返しになるけど、あなたはもうひとりじゃないの。それは、私たちと生きていく責任があるってこと。そして私も同じく、あなたとともに生きていく責任がある」
夜風に吹かれ屋内に迷い込んできたのであろうか、寝台脇にカンテラの傍では、一匹の羽虫が灯の周りを飛び回っている。
数多のざわめきが耳を騒がすも、そのほかは静かで穏やかな夏の夜だった。
ふたりが大事なことを分かちあうにはぴったりのひとときだった。
「だったら、辛いことは分かち合うべきだわ。それが、私たちが十年の時を経て、やっと一緒になって、そのあともいろんなことがあって、でもこうして子どもを授かって暮らしているならば、するべきことなのよ。そうして初めて、私たちは死ぬまでいっしょに生きていけるんじゃないの? 違う?」
アネシュカが長い語りを終えた。
肩に置かれた彼女の両手から伝わる熱が温かい。マジーグはなおも俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
そして、真っ直ぐ妻の顔を見つめると、ちいさく、またも詫びの言葉を呟いた。
「すまん」
「エド、謝らないで。謝るのは一回だけで十分」
アネシュカが微笑む。
それから、彼女はマジーグの耳元に唇を寄せると、こう、囁いた。
「ねぇ……謝るくらいなら、私を抱きしめてくれる?」
アネシュカの亜麻色の髪が、マジーグの黒髪とふわり、触れ合う。
マジーグは頷くと、アネシュカの細い胴に腕を回して、きつく抱きしめた。するとすぐ傍で声がする。
幸せの色が滲む、甘く、優しい声音が。
「あったかい。私、エドの腕のなか、大好き。世界で一番落ち着くわ」
「俺もだよ、アネシュカ」
それから、ふたりはどちらかともなく、唇を重ね合わせた。その口付けは、いつものそれより長く、深かった。
そうしてから、ようやく顔と顔を離したところで、ふたりは至近距離で瞬くお互いの瞳を覗き込んだ。
「今夜は、ふたりでいよう」
「もちろんよ。エド、夜の仕事がここのところ多かったから、うれしいわ」
「俺もうれしい」
素直なマジーグの声にアネシュカの顔には満面の笑みが浮かんだ。そうして、逞しい夫の胸にもたれかかり、彼の腕の中で呟く。
「エド、あなたは苦しむことをしすぎ。弟君のことだけじゃない、昔のことも。あなたは確かにチェルデを占領したけど、それはあなたの責任じゃない。マリアドルのことだってそうよ。祖国は祖国。あなたはあなた。エドはここで私と幸せになることに、なんら問題なんてないのよ」
マジーグは黙って、腕に抱いた妻の言葉に耳を傾け続ける。肩にかかる亜麻色の髪を撫でながら。
「ひとりで苦しみを背負っても、なんもいいことないわ」
「……アネシュカ、だけど考えてしまうんだ。俺はこんなに、幸せでいいのかと」
やや間を置いて、マジーグが語を零す。
「俺はな……祖国での軍務において……最初の十年はありとあらゆる策謀を教え込まれ、チェルデ制圧のための諜報任務に就いた。そして、トリン総督を辞して降格された十年は戦線の前線に身を置いた。その間に、多くのマリアドルとチェルデの人間を不幸にしたと思うんだ。だからいまも……考えてしまうんだよ。齢四十も過ぎ、残りの生も少ないとなれば……なおさらだ」
そのように語った夫の口調がどこまでも沈痛で、苦しげなことに、アネシュカは深い悲しみを覚えた。
密やかに、夏の夜が流れていく。昼間よりかはだいぶん涼しげな風が部屋を過ぎる。
その夜、肌を重ねながら、アネシュカはこうマジーグに告げた。
「私は、あなたがマリアドルでなにをしていたかは、知りたいと思わない。だけど……エド、あなたは愛される価値のある人間よ。そのことだけは、なにがあっても、誰がどんなことを言っても、私は譲らないわ」
それから、こうとも。
「たとえあなたが、なにをしていたとしても、この先なにがあったとしても……私はあなたを、愛している」




