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4 長閑な日々は儚く潰えて

 アネシュカの工房生活の始まりは、最初の顔合わせをすませてもなお、波乱含みだった。


 まず揉めたのは、アネシュカの宿舎だ。

 通常なら、弟子はファニエルの工房の二階に住み込むのが常である。とはいえ、流石に年若い少女がそこに加わるのは、要らぬ混乱を招くと、弟子という弟子が反対した。


 ファニエルにもその意見は分からないわけではなかったので、論議の末、ファニエルが宮廷に相談し、工房の近くにある下女の寝所にアネシュカの寝床を確保してもらうことで問題は解決した。


 こうしてアネシュカは王宮に到着した翌日から、そこから工房に通いはじめた。


 しかしながら、工房に通うようになって分かったのは、あの憧れのファニエルが工房に顔を出すのは稀で、また、弟子入りしたとはいえ、絵の制作にすぐに関わることは出来ず、まずは数多の絵の勉強と、工房の雑用をこなす必要があるという現実だった。


 アネシュカの指導係になったトルトは、ふたつ年上の十七才ということだった。

 彼はまず彼女にこなすべき課題がびっしり書き込まれた帳面を渡した。アネシュカはそれを読んで、瞳をぱちくりと瞬きさせる。そして、途方に暮れた声でトルトに尋ねた。


「えっと……まずは静物、人物、建物の素描、それに絵の模写、それから、人体解剖図と、我が国の絵画史の本を読む……、と。私、いったい、なにから手をつけたらいいのかしら?」

「知るかよ。それは俺なんかじゃない、偉い人に聞け」

「ファニエル先生に?」


 すると、トルトが赤髪を揺らしながら、アネシュカを睨んだ。彼の視線は明らかな侮蔑の色に満ちている。


「ばっか、か? お前。画神アルバの再来、千年に一度の画才と言われる先生にそんなことさせられないだろ。俺よりもっと先輩の助手がいるだろ、ここには」


 トルトの口調は乱暴なほどにぶっきらぼうで、アネシュカは思わず、むっ、としたが、ここは抑えどころ、と心の中で唱えて、表情にて不満を現すに留める。


 ――自分が歓迎されてないことは分かっているもん。こんなことでいちいち、腹を立てていたら、もたないわ。


 そう思いながらアネシュカの瞳はぐるぐると、先輩たちが作業を行う工房内を見回す。

 すると、部屋の隅に見慣れたものがあった。

 卵がぎっしり詰まった籠だった。


 思わず彼女は籠に近寄り、卵に手を伸ばす。途端に、トルトが大声で喚く。


「あーっ! お前もう! 勝手に触るなよ、置いてあるものに! その卵、仕入れたばかりなんだぞ、割ったらどーすんだよ!」

「どうして、卵が、ここにあるの? 皆さんのお昼ご飯用?」

「……ほんと、お前、無知なんだな」


 不思議そうな顔をしながら腕を引っ込めたアネシュカに、トルトが吐き捨てるように言う。

 それから彼は声高に、アネシュカに向かって説明を始めた。


「あのなあ、俺たちが使う絵具はなぁ、卵黄と顔料と、そのほかいろんなものを混ぜて作るの! そういう作業も俺たちの仕事!」

「そうなんですか」

「そう。それに、絵だって板に直接描くわけじゃねーよ。(にかわ)と石膏を混ぜた下地を何層にも重ねて、それでやっと先生が木炭で下絵を描けるんだよ。そういう下地作りも一から弟子がやるの! お前にも覚えてもらうからな」

「へぇ……。いろいろあるのね。でも知らなかったわ、まさか食べる以外に、卵の使い道があるなんて」


 トルトの言葉はアネシュカの知らないことばかりだった。彼女は腹を立てたのも忘れて、つい、ぽろり、と素朴な感想を口から零す。


 それを聞いたトルトが、嘲笑いに唇を歪めた。


「まったくもって、女の発想だよな。これだから女は、絵を描くのに向いていないんだよ」


 その暴言に、アネシュカの眉がぴくり、と動いた。


「なんですって?」


 すると、顔に怒気を露わにしたアネシュカをなおも馬鹿にするように、トルトは言葉を継ぐ。


「言ったとおりだよ。所詮、女に絵なんか描けない、ってことさ」


 次の瞬間、アネシュカの瞳は苛烈な光を放ち、口からは激しい言葉を爆ぜさせた。結局のところ、彼女はトルトへの憤懣を隠し通せなかったのだ。


「なに言っているのよ! それを言うなら、私の死んだ母さんの絵を見てからにしなさいよ! 私の母さんはね、父さんといっしょにいつも絵を描いていたわ。村の人たちの肖像画を描いたりしてね、そりゃあ、たいした儲けにはならなかったけど、すごく喜ばれていた! そして、そのお金で立派に私を育ててくれた! だから叔母さんだって嫌々ながらも私が絵を描くのを認めてくれたし、王都で修行することも許してくれたのよ!」

「そ、それがどうしたっていうんだよ、い、田舎の絵描き風情が、え、偉ぶるなよ!」

 トルトが慌てて、ひとつに結んだ亜麻色の髪を振り乱して怒るアネシュカの剣幕に怯みながらも、声を震わせながら抗弁する。

「田舎で悪かったわね! でも絵に田舎も都もないでしょ? 人が喜ぶような絵が描けていれば! それに父さんが母さんに向かって、女だからどうの、と言うのは聞いたことないわ! あんたとは大違い!」

「お前らうるさいよ、いい加減にしないか! 作業が進みゃしねえ! ふたりでお互いの素描でもしてろ!」


 ついに耐えかねたとばかりに、大きな木板に下地を塗っていた助手のひとりが、刷毛を手にアネシュカとトルトを怒鳴りつけた。


 その声に工房全員の動きが止まり、途端に工房に沈黙の帳が落ちた。えも言われぬ、気まずい空気が部屋に満ちる。

 口をつぐんだアネシュカとトルトは、渋々と言った顔つきで工房の隅の椅子に座り、言われたとおり、互いをモデルに素描の練習を始める。


「……なんだよ、おっかねぇ女!」

「……あんたこそ、つまんない男!」


 ふたりは忌々しげに、憎まれ口を叩き合う。


 だが、それも少しの間だけのことだった。

 次第にアネシュカとトルトは、目の前の課題に深く集中していった。



「どうしたの? なにやら物憂げな様子ね、ファニエル。それともなにか、身体の具合でも悪いの?」


 我に返ったファニエルは、視線を画板から、目前に座するエリカ六世に移した。


 この秋には齢五十二を迎える女王は豪奢な白銀のドレスを身に纏い、ファニエルの手により肖像画を描かれている最中であった。

 彼女の顔には皺が深く刻まれてはいるものの、肌はいまだ透き通るように白く、整った顔立ちともに若い日の美貌を輝かしく保ち続けている。

 しかしファニエルを見つめる茶色い瞳は、彼の様子を案じる気配に満ちていた。


 ファニエルは、些かぼんやりとしていた表情を引き締めて、女王に向き直ると、言葉少なに彼女へ詫びる。


「ご心配をおかけして、申し訳ありません、陛下。今日は少し、集中力が欠けているのか、筆がうまく運ばないのです」


 すると、エリカ六世は紅を差した唇を軽く歪めながら、苦笑まじりに微笑んだ。


「ファニエル、あなた、また宮廷から逐電するつもりじゃないでしょうね。いくらあなたが、常日頃から才能のことに悩んで姿を消しがちとはいえ、この間は本当に心配したのよ」

「……申し訳なく思っております。ですが来春の、陛下の戴冠二十周年記念式典で披露する、創世神話の壁画は、必ず間に合わせますゆえ」

「いいのよ、そのことを私は気にしているわけではないの。心配なのは、ファニエル、なにかと真面目すぎるあなたのこと。もっと自信を持ちなさいな。あなたは三年前、弱冠二十二才のときに、広場のあの壁画を仕上げてみせた天才なのよ?」


 彼女は床に目を伏せるファニエルを励ますべく、孔雀の羽で作られた扇で顔を煽ぎながら、語を紡いだ。


 しかし、その言葉が自分をさらに追い詰めると女王は理解していないのだ、とファニエルは密かに嘆息する。

 いや、分かりようがないのも仕方がない。だいたい、己の才能への猜疑心を、おいそれと進んで他者に明かす芸術家など、この世界では敗者でしかないのだから。


 そう、ファニエルにとって、そのような話題を敢えて話す相手がいるとすれば、彼が若くして宮廷入りしたときから、なぜか気が合い、時に酒盃を囲む仲であるロウシャルくらいだ。


 ファニエルはそれを思い、続いて、そんなロウシャルはいま、どうしているだろうかと考えた。ファニエルが王都に戻り、あの偉丈夫と王宮の廊下で会話を交わしてから、すでに五日が経過している。風の噂では、彼は緊張する国境地帯を窺うべく、あのあとすぐ軍を率いて出征していったとのことだった。


 そこまで思考を巡らせたときのことだ。


 突如、女王とファニエルふたりがいる居室の東側の窓から、複数の火薬によるものらしき爆発音が響いてきた。

 女王が慌てて窓に目を向ける。


「なにごと? あれは主宮殿の方角だわ」


 眉を顰めながら、彼女は椅子から腰を浮かした。

 そこに扉の外から、人の気配に乱される慌ただしい物音が響いてくる。そしてすぐに、居室の重い扉が押し開けられ、突然の異変に身動きがとれずにいる女王とファニエルのもとに、衛兵が駆け込んできて凶報を叫んだ。


「お逃げ下さい、陛下! 正体は分かりませぬが、宮廷内が賊に襲われています!」

「なんですって、賊? この堅牢な宮殿に、どこから侵入したというの?」

「それが、まったく不明……ぐっ!」


 女王の問いに応じようとした衛兵の言葉は、途中で途切れた。

 衛兵の背後に数人の男女の一団が風のような早さで現れるや、その中のひとりが衛兵の背を短剣で貫いたのだ。


 崩れ落ちる衛兵の向こうに現れた者どもは、それぞれ給仕や下女の衣装であり、いずれもこの王宮に仕える者の装束を纏っていたが、目つきは鋭く、禍々しい光に揺れている。


 やがて、下男らしき格好をした中年の男が、衛兵の血が滴り落ちる刃を、呆然とする女王とファニエルに見せつけるように高くかざしながら、静かにこう言葉を放った。


「チェルデ国エリカ六世陛下、それに、ファニエル筆頭宮廷絵師でございますな。これから少しばかり、我々の指示に従っていただけますかな?」



 同時刻、王都トリンの城壁警備隊の兵舎に、何者かが城外から放った一本の弓矢が突き刺さった。

 矢には文が結びつけられており、そこに綴られた文章に目を通すや否や、警備隊長は、思わず絶句した。 


「我がマリアドルの間者は、貴国の宮殿内にて、エリカ六世女王陛下をはじめとした、チェルデ国王族および要人を拘束済みである。

 我が軍に王都トリンを無血開城せよ。

 本日、国境に展開していた我が軍は、貴国の軍を完膚なきまでに殲滅した。よって、数日のうちに我らはトリンに達する。

 陛下をはじめとした人間の命が惜しいなら、くれぐれも悪あがきはせぬように。

 これは忠告だ。


 マリアドル国軍 将軍 エド・マジーグ」


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