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34 国境の砦

 兵士に後頭部の黒髪を鷲掴みにされ、そのままの勢いで床に顔を押し付けられる。頭部に走る痛みと、頬に触れた床石の冷たさに、マジーグは端正なその顔を歪ませた。

 頬に掛かるは解かれ乱れた長い黒髪で、着衣も漆黒の軍装でなく、捕虜に与えられる粗末な白い綿の衣だ。瑠璃石の首飾りでさえも、取り上げられてしまった。


「して、エド・マジーグ。お前が我が国にくだった腹づもり、それはなんじゃ?」


 目の前の椅子にはギルダム帝国の皇女、ライルが座している。

 マジーグがギルダム軍に逃亡し、早くも三日が経過し、ようやく求めていた国の重鎮への拝謁が叶ったものの、彼の立場は厳しい。


 ギルダムに降ってみれば、マジーグを待っていたのは容赦のない尋問で、マリアドル国境の砦に連行されてみれば、即座に冷たい地下牢に放り込まれる。そんな三日だったのだ。


 しかしながら、それもむべなるかな、とマジーグは思う。

 チェルデ王都のトリン総督を務めたこともある、マリアドル軍の漆黒の鬼神の名は、マリアドルでも知られている。

 その男がたったひとりで助けを求めてくるなど、ギルダム側からすれば青天の霹靂以外の何物でもないだろう。そのくらいの予想はつく。そして、己がなんらかの策謀を目的にギルダムに降ったと詮索されるのもまた、当然のことだろう、と。


 その現実を示すように、目前の皇女の顔もまた、険しい。


「ワイダとは私も親しい。姉のように慕った仲であった。たしかにこの絵の署名は、彼女のものと私も認めよう。そして神官を寵姫として扱っているなどとは言語道断、それだけでハイサルを攻める理由にはなる、しかしだ。お前は何を目的に、ハイサルを討てと私に申しているのじゃ。お前の国の王族だろうが」

「ですから、何度も申し上げているではないですか。私も事情は同じです。大事な女が、ハイサル殿下に囚われています。それもワイダ様と同じ後宮に」

「ほう」


 ライルは形の良い眉を釣り上げながら、赤銅色の髪を掻き上げた。齢二十を超したばかりの女にしては鋭い眼光だ。それもそのはずで、ライルは年若くもマリアドル国境付近のギルダム軍を統べる立場にあった。

 それだけに、紅を軽く差した唇から漏れ出た声音といえば、皮肉に滲んでいる。


「それは聞いているが、誠か。それが真実だとしたら、驚きよのう。マジーグ」


 そのままの口調でライルは静かに腰の長剣を抜く。優美な金の彫刻を施された鞘から、鋭い細身の刃が現われる。

 柄に散りばめられた孔雀石が篝火の焔に、きらり、色鮮やかに煌めいた。


「女のために祖国を裏切るというのか。なんとも奇特よのう。まさか我らを脅かしていた男が、こんな腰抜けだったとはな。笑止千万ぞ」

「……私について何と言われても、構いませぬ。どうか、信じてはいただけませんか」


 なおも床に顔を押しつけられているマジーグの表情は、ライルには窺えない。だが、長い黒髪を床石に散らして言葉を継ぐ、敵国の男の声はどこまでも真摯だ。切羽詰まってさえいる。そのことがライルの気分をさらに苛々とさせる。彼女はゆっくり立ち上がり、マジーグに近づくと、優美な所作で手にした剣を振りかざす。


 俯いたままのマジーグの喉元に、鈍く光る刃が突きつけられた。そしてライルは声を荒げる。


「そんな簡単にお前を信じると思うか! 我らはお前に長らく騙されていた身ぞ、私は瑠璃石を用いて父王の寵姫に取り入り、我が宮廷を好きに動かそうとしたマリアドルの策謀を忘れてはおらぬ! あれはマジーグ、聞けばお前が全ての指揮を司っていたというではないか!」


 激するライルに刃を突きつけられながらも、マジーグには返す言葉もない。


 なぜなら、ライルの言葉は全て真実であったから。長年マリアドルがギルダムに仕掛けていた策謀、確かに己はその責任者であった。

 こんなところで過去の行いが裏目に出るとは、とマジーグは人知れず唇を噛みしめる。


「なんだったら、裏切り者としてマリアドルにそなたの首だけ送り返しても良いのじゃぞ。マジーグ」


 結局、その日の皇女との拝謁は、ライルの無慈悲な言葉で終わった。吐き捨てるように告げられたその声に鼓膜を打たれながら、またもマジーグは地下牢に引き戻される。


 ――こんなことでは、アネシュカを救えぬ。後宮の加護はいつまで持つか。思う以上に時間はないはずだ、どうすれば……。


 じめじめとした暗い牢の中に、ギルダム兵がマリアドルの漆黒の悪鬼を蹴り入れる。

 床を浸す泥水のなかに、黒髪を乱し転がるマジーグの胸中は、色濃い焦りに覆われつつあった。



 事態が思わぬ方向に動いたのは、その日の夜半のことだ。


 暗闇に閉ざされた地下牢を、ゆらり、カンテラを持ったふたつの人影が揺らめいた。

 彼らは監視の兵士に密やかに金品を渡した後、足早にマジーグの牢に近づくと、疲れから深い眠りに陥っていた囚われの男に声を掛けた。


「おっさん! 無事かよ!」


 聞き覚えのある若者の声に、マジーグは目を覚ます。

 重い瞼をこじ開けてみれば、カンテラの頼りない灯りのなかで、ふたりの赤髪と銀髪が煌めいた。


 それが誰かを認めたマジーグは、驚愕のあまり、もう少しで大声を上げるところだった。なんとか唇を血が滲むほどの強さで噛みしめ、言葉を飲み込む。それから呻くように、彼は目の前の人間の名を呟く。


「トルト……! それに、お前は……」


 すると、銀髪の男が、闇のなかでも分かる琥珀色の瞳を細め、その場に似合わぬ優雅な所作で、マジーグに一礼しながら声を放った。


「お久しぶりです。マジーグ閣下」

「……ファニエル! 生きていたのか……!」


 黒い双眼と琥珀色の眼差しが、湿気た空気が立ち込める闇のなか、至近距離で交差する。

 あの十年前の春以来のことだった。



「たしかに私はハルフィノでの戦乱に巻き込まれました。ですが、家が燃えたのを見計らって、ハルフィノの村民たちが、私をギルダムに逃してくれたのですよ。私が死んだことにしてね」

「そういうことであったか……」


 マジークは牢の格子越しに穏やかな口調で真相を話したファニエルに、ちいさく零した。夜気にランタンの明かりがゆらゆら、揺れている。

 そのひかりのもと、なおも元宮廷絵師はマジーグに微笑む。


「閣下、マリアドル人のあなたには分からないかもしれませんが、元チェルデ領のハルフィノでは、マリアドル軍に対して反発も強い。占領が長きに渡ればなおのことです。それゆえ、反マリアドル感情を抱くあまり、ギルダムに与する住民も多いのですよ」

「そうなんだぜ、おっさん! 俺もさあ、あの爺さんに刺されて転がっていたところを、墓の管理人がすぐに駆けつけて、止血して助けてくれたんだ。どうやら墓に、なにやら訳ありのマリアドルの軍人が訪れたのを察して、気を向けていてくれたらしいんだ。あとは先生と同じさ。マリアドル兵の目をかいくぐって、ギルダムにいる先生の元に送ってもらったってわけさ。どーだ、マリアドルざまあみろ、ってもんだろ!」


 そうだ、そうだ、とばかりにトルトが得意げに口から唾を飛ばし、マジーグは彼の明るさに救われたような気分になる。トルトの陽気さは、彼を助けられなかったことを悔いていたマジーグの気持ちを和らげる以外の何者でもなかった。


 だが、彼はトルトの次の言葉に、少なからぬ違和感を覚える。


「あのおっかない爺さんに、肩は刺されちまったけどよ! 急所は外れてたみたいで、致命傷にはならなかったんだ。おかげで、もうちょっと養生すれば、元通りに動くってギルダムの医者も太鼓判を押してくれたぜ!」

「急所が、外れていた? ……あの、あいつが?」

「それはそうと、私にはあまり時間があるわけではないのですよ、閣下。ほら、トルトも大声は控えなさい」


 首を傾げて、ふと考え込みそうになったマジーグを見てファニエルが小声で促す。それはそうだ、監視兵は買収してあるとはいえ、そうのんびりともしていられない。もし他の兵士に見つかったら、ややこしいことになるだろう。

 マジーグは思考を目の前の現実に戻し、表情を引き締めた。


「そういうわけで、私は今、ギルダム帝国に仕えております。王族のなかでもライル皇女に気に入られましてね、従軍絵師としてこの砦に来ているわけです。私の近況としては、そんなところですよ」


 カンテラの明かりに包まれて、元宮廷絵師は積もる話をそう締めくくる。

 仄暗い牢に座するマジーグの黒い双眼のなかで、琥珀色の瞳が意味ありげに、ゆらり、揺れた。マジーグはなんとはなしにその様相に、ぞくり、とする。


 すると横から、先ほどの明るさとは一変した切羽詰まった口調で、トルトが言った。


「そうだよ、おっさん、のんびり話している場合じゃあないんじゃねーの? どうすんだよ! 聞いたぞ、アネシュカのこと! 後宮にぶち込まれたんだろ? あいつ、めちゃくちゃやばいじゃねーか!」

「そうなのだ。それでライル皇女に助太刀を頼みにギルダムに来たわけだが、どうにも信用されぬ。どうしたらいいものか頭を抱えておる」

「くあーっ、なんだよ! あれだけアネシュカが好きだとか言いながら、いざとなるとそれかよ。情けねえなあ、おっさん! でもさ! そういうことなら、先生、俺たちが役に立てるんじゃね?」


 力なく呟いたマジーグを容赦なく罵ったトルトが、横に立つファニエルを見上げた。対するファニエルはなにもトルトの問いに答えず、ただ微笑みをひかりのなかで揺らすのみだ。


 その何とも言い得ぬ表情に、マジーグの背中は、再び嫌な予感に震えた。


 だがトルトはそんな師を意に介さず、意気揚々と口を開いた。


「よし! なら、決まりだな。実のところ、おっさんが俺を見捨てて去っちまったのはさぁ、流石に許しがたいんだけどさ、アネシュカのためなら仕方ねえよ」

「あれは……見捨てたのでなく、もうお前は手の施しようのないように思えたからだ。すまなかった」

「まあ、それはそうならいいよ。だけどさ、言っておくけどよぉ、俺らはおっさんのために手を貸すわけではないぜ。アネシュカの命がかかってるからだぞ。そこは勘違いするなよな!」

「待ちなさい、トルト」


 流暢な弁を滔々と述べるトルトに、ファニエルが柔らかく声を掛けた。

 そして、彼の次の言葉に、トルト、そしてマジーグは目を剥くこととなるのだ。


 ファニエルは微笑みを崩さぬままに、こう言ってのけたのだった。


「私は閣下に、手を貸すと決めたわけではありませんよ」

「へ?」

「……なんだと?」


 牢に、トルトの間抜けな声と、マジーグの呻き声が重なり、響き渡る。


 同時に、マジーグの胸中はこのような思いに満たされた。

 なるほど、先ほどからの悪寒はこの予感であったか、と。


 しかしながら、対するファニエルは平然としたものだ。彼は呆然とするトルトに構うことなく、牢の格子にぐっ、と顔を近づける。

 まるで、戸惑うあなたの顔をよく見せて下さい、とマジーグに言わんばかりに。


 それから、マジーグの目前でファニエルの唇は、ゆっくり、このように蠢いた。


「私はライル皇女から信頼を得ていますゆえ、私の方から、エド・マジーグは嘘を付くような男でないと、皇女に口添えするのもやぶさかではありません。ですが、私にもギルダムに仕える者の立場と言いますか、絵師としての意地みたいなものがございましてね。いや、ちょっと前から試したいことがあったというのが、正しいでしょうか」


 言葉をなくしたマジーグの前で、彼はなおも微笑する。

 そして、最後に、ファニエルはこう告げてきたのだった。


「つまり私は、閣下を絵で試したいのですよ。他でもない、私の絵でね」


 カンテラの光と地下牢の闇の狭間で、ファニエルの銀髪が、ふわり、と音もなくさざめいた。

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