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絵師アネシュカは光を描く~チェルデ国絵画動乱記~  作者: つるよしの
第六章 同じ空の下にいるならば
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27  アネシュカ、暴れる

 ハイサルはしばらく、呆然としたままのアネシュカを面白げに見つめていた。


 いや、見つめていた、というより、その視線はどこまでも「見下す」色合いの濃いもので、普段のアネシュカなら即座にそれに気づいて、むっ、となったであろうが、それもできないほど彼女は目の前の男の素性に驚いていたのだ。


 そして、驚きが収まってくれば、新たな恐怖が込み上げてくる。


 ――マリアドルの王族が、この私をわざわざ攫うよう指示したの? なんでなの? 私、やっぱり、知らないうちにとんでもないことに巻き込まれているんじゃ……。


 すると、ハイサルが口の端を歪め、語を放った。それもまた慇懃な声音だ。


「安心しろ。俺はお前をどうこうする気はない。お前はここでおとなしくしてくれていれば、役目として充分だ」

「役目?」

「そうだ、しかし、お前をただ無益に置いておくわけではないぞ。ありがたく思え。俺はマリアドル人にしては芸術に理解があるのでな」


 そう言いながらハイサルは傍のテーブルに置かれていた箱に手を伸ばした。金と青の装飾が眩しい、木製の箱だった。

 そして、それをアネシュカに見せつけるように高々と掲げてから、彼女の目前に下ろす。


「これをお前に与えよう」

「これ……?」


 アネシュカは押し付けられるように渡された壮麗な箱の蓋を、恐る恐る開ける。

 すると、震える指先の向こうに現れたのは、これまた金糸の装飾が表紙にあしらわれた帳面、そして数本の絵筆だった。それも自分がいつも使っている筆より相当高価なものだ。馬の毛で作られたらしい、毛先の艶やかな輝きがそれを教えてくれる。


「帳面と……絵筆!? それもこんなに立派な?」


 驚愕に瞳を見開いたアネシュカを、ハイサルはいよいよ楽しげに見守る。


「気に入ったか? 絵具の一揃えだ。チェルデの品には敵わないかもしれぬが、当国随一の技術を結集した品だ」

「大変立派なものだということは、わかります。でも、なぜ、私にこれを?」

「つまりは、お前を我がマリアドルの宮廷絵師として雇ってやろうというんだ。聞けばお前は芸術に名高いチェルデ王宮の絵画工房で働く、なかなか優れた絵師だと聞いておるからな。女の絵師とはなんとも珍妙だが、まあ、チェルデでそれなりに経験を積んでいるということは、役に立たぬこともないだろう」


 戸惑うアネシュカに、ハイサルはなおも高飛車に言い放つ。その彼の態度と言葉に底知れぬ悪意を感じ、アネシュカは思わず眉を顰めた。

 そして、ハイサルの次の言葉を耳にしたとき、彼女の困惑は最高潮に達したのだ。


「それに夫がマリアドルに尽くしている間、妻もそれに殉じているとなれば、なんとも夫婦として美しい在り方ではないか」

「……夫?」


 アネシュカは突然ハイサルの口から飛び出た語句に、また呆然とする。

 そして、彼の言葉がなにを示しているかを察するにあたり、彼女の頭にはある疑念が浮かんだ。

 心が急速に、嫌な予感に黒くひたひたと浸されていく。


「もしかして、エドのことですか? どうして彼の話になるのです? それに、マリアドルに尽くす、って……それって、まさか……」

「漸くわかってきたようだな」


 ハイサルが禍々しさはそのままに、薄く笑った。そうして彼はようやく己の企みを吐露した。

 目の前の女をゆっくりと、嬲るかのように、わざとらしいほどに勿体ぶった口調で。


「アネシュカ・パブカ。お前をこの国に連れてきたのは、彼を、マリアドルに生涯忠誠を誓わせるための手段だ。それ以上でも、それ以下でもない。マジーグは引き続き、マリアドルで召し抱える。彼ほどの人材を国外に出すのは、我が国にとって大きな損害なのでな」


 そのとき、アネシュカの頭のなかでは、不確かながら組み合わさりつつあった疑念の破片が符合したのであった。


 そして思い知る。

 自分が攫われたのは、己を目的にしてのことではなく、マジーグを再び故国に縛り付けるがための謀略であったという真実を。



「……エドをまだ軍務に縛りつけるのですか? どういうことです?」


 全てを知ったアネシュカがまず目の前のハイサルに放った声は怒りに掠れ、震えていた。むろんハイサルからすれば想定内のことでしかない。

 なので彼は茶褐色の三つ編みを跳ねさせながら、高らかに、ははは、と笑う。その唇は次にアネシュカが繰り出した抗議の声を耳にして、ますます口角を吊り上げていく。


「だって……彼はマリアドルの皇帝陛下に、弟殺しの罪を贖うため三十年の軍務を命じられて、それを今年全うしたのではないですか? その約束を……反故にするってこと?」

「察しがいいな。なかなか頭のいい女だ」

「酷い!」


 その声と同時に、亜麻色の髪が激しく肩の上に波打った。アネシュカのペリドット色の瞳は、いまや隠すこともできぬほどに燃えている。それは堪えようがない怒りの光、他ならなかった。


「エドがどんなにこの三十年、苦しみながらあなたの国に尽くしてきたのか、お分かりでないわけではないでしょう? それに、あなたの父君によって為された約束ですよ!」


 するとハイサルの顔が皮肉に歪んだ。

 それから彼は吐き捨てるように冷たく言い放つ。


「父上は甘いのだよ。俺は父とは、違う」

「そんな! エドの気持ちをなんだと思っているのよ!」

「彼の気持ちなど俺の前では、なんの価値も無いさ」


 アネシュカのもはや敬語を殴り捨てた怒号に怯むこともなく、平然とハイサルは言ってのける。

 その口調の冷ややかさにアネシュカは、思わず背を震わした。そんな彼女の前でハイサルは悠々と語を継ぐ。

 らんらんと燃えるペリドット色の瞳のなかで、金糸の刺繍がなされた紫色のローブが音もなく、ゆらり、揺れた。


「それに、俺はチェルデ人が嫌いだ。奴らのことを思うと吐き気がする。そんな奴らの元へと、のうのうと祖国を捨てて行き果てたマジーグも同じだよ。まあ……とにかく、そういうことだ。夫婦でマリアドルに忠誠を誓って生きていくが良い。しかしながら、マジーグだけではなく、妻のお前の未来も考えて、マリアドルに迎え入れた俺は、なかなかに情が篤いであろう?」

「ふっ、ふっ、ふっ、ふざけるんじゃないわよー!」


 突如、アネシュカの声が大きく爆ぜた。

 ハイサルの私室中に彼女の怒声が轟き、背後に控えていたふたりの兵士が身体を震わせた。いや、兵士だけではない。ハイサルも突然のアネシュカの大声に、びくり、と動いてローブを浮かす。


 しかしながらアネシュカの罵声は止まらない。

 彼女は声を限りに、ハイサルに憤怒の感情をぶちまける。もはや、アネシュカの怒りは臨界点を超えていた。沸々と煮えたぎる感情の前では、相手が隣国の王位継承者であることも、もう彼女にはどうでも良いことだったのだ。


「こんの! この……人でなしの最低男!」

「なんだと?」

「知らないの? 嘘つきってのはね、人間として最低なのよ。そんなことも知らないの! それで国を統べようなんて笑っちゃうわよ、思い上がりも甚だしいったらありゃしない! とにかくあなた、最低! 最低が過ぎるわ! 人でなし以下よ!」

「……おい、よさないか! 無礼者!」


 アネシュカのあまりの剣幕に恐れをなした兵士たちが、彼女に駆け寄り、肩を抑えつけようと手を伸ばす。


 だが、アネシュカの動きの方が寸分早かった。

 彼女は大きく腕を旋回させ、持ったままだった木箱から帳面を取りだし、ハイサルに向かって鋭く投げたのであった。

 それだけではない。続いて今度は絵筆を、その次は固形絵具をと、次々と箱の中身を手にしては、ぽんぽんぽんぽん、怒りのままに投げつける。


 ぐちゃっ、という音が部屋中に響き渡った。

 固形絵具がハイサルの顔面を直撃して、彼の顔右半分を赤く染め上げていた。


 慌てたのは兵士たちだ。

 彼らはばたばたと暴れるアネシュカを押さえつけながら、口々にハイサルを気遣う声を放る。


「こっ……この女、なにしやがる!」

「で、殿下、お怪我はないですか!?」

「なにするのよーっ! 離しなさいよ! 馬鹿馬鹿馬鹿!」


 対してハイサルは冷静であった。

 否、冷静に見えた。しかしながら、彼と付き合いの長い兵士たちは気づいた。その刹那、ハイサルの翡翠色の双眼が僅かに吊り上がり、続いて怪しい光を宿したことを。唇といえばますます口角の角度を増し、笑っているのか怒っているのか一見判定が付かぬが、兵士らにはわかる。

 そのハイサルの顔は、彼の胸中を憤怒が暴れ狂っているのを雄弁に示すものだった。


 一方、兵士たちに床へと押さえつけられたアネシュカはハイサルの表情の変化に気づく余裕もなく、いまだ亜麻色の髪を振り乱していた。

 さすがに手足は屈強な男の腕に掴まれて、もう動かすことは叶わなかったが、彼女は息を荒げたまま、絵具に汚れたマリアドルの王位継承者の顔を睨みつける。


 それから暫しの間、ハイサルの私室には、アネシュカの荒い呼吸音だけが響き渡っていた。なんとも気味の悪い沈黙が続く。


 やがて、ハイサルが小さく語を吐いた。


「……お前はなかなかに、面白い女だな」

「なによ! 一国の王族だからって、調子に乗るんじゃないわよ!」

「よし、なら……いいようにしてやろうじゃないか」


 ハイサルが表情はそのままに、乾いた唇を、舌でぺろりと舐め、アネシュカはどきり、とする。獲物を前にした狡猾な蛇のような仕草に、彼女には思えたのだ。


「よかろう。絵師にならぬというなら、それで良い。だが……どうせなら、もっといい待遇にしてやろう……そうだな、お前は後宮に送ることとする」

「……は?」


 アネシュカはハイサルの思わぬ一言に、思わず、間抜けな問いを唇から漏らした。そして、唖然として目の前の男を見る。


 見てみれば、いまや彼の翡翠色の瞳はわかりやすいほどに禍々しく燃えていた。その目のまま、彼は一息にアネシュカに残酷な命を言い放ち続ける。


「安心しろ。俺の相手をしろと言っているのではない。後宮といってもな、寵姫にもさまざまな地位があるのだよ。お前には最下級の位を与える。この王宮に仕える下級官吏や兵士の相手をする寵姫の位をな。つまりは、王宮の男どもの慰み者だ。これからそこで人生を過ごすが良い。良いではないか。生涯、衣食に苦労はせぬぞ」

「……なに言ってるの! 私にはエドがいるのよ!」

「それがどうした」


 あまりのことに食ってかかるアネシュカを見下ろす瞳はなおも、怒りに満ち溢れている。


「お前がこの王宮の庇護下でしか生きられないとなれば、マジーグにとってもいい覚悟となろうよ。マリアドルに生涯尽くす覚悟の、な。俺は彼を逃しはせぬ。お前も自由にはせぬ。俺は、欲しいものは全て手に入れる男だ。臣下も、国も。父上とは違うのだよ」

「ちょっ……ちょっと! 勝手に決めないでよ! 人でなしが過ぎるでしょうが! あなたみたいのが皇帝なんてちゃんちゃらおかしいわよ!」

「なにを言う。俺には皇帝たる、正統な理由があるからな。それもマリアドルだけではなく、チェルデをも統べる覇者としてのだ。……おい、早く連れて行け!」


 顔半分を赤く染めたままのハイサルより激しく命令が爆ぜ、兵士ふたりは慌てて頭を垂れた。そして、床に押し付けていたアネシュカの両腕を乱暴に引っ張り上げると、部屋から連れ出すべく、彼女を引きずる。


 アネシュカは扉に向かってずるずると身を引きずられながも、なおもハイサルに向け叫んだ。叫び続けた。声が枯れるまで。


「ふざけないでよーっ! 本当に、本当に馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 最低男!」


 アネシュカの罵声は、私室の扉が閉まってからもなお、ハイサルの鼓膜を叩き続けた。

 しかし、それもいつしか遠ざかる。


 再び静寂が戻った部屋のなかで、ハイサルは絵具に汚れた顔をようやく部屋にあったハンカチーフで拭う。

 拭いながら、独り言つ。


「そうだ……俺はマリアドルならず、チェルデをも手中にしてみせるんだ。俺は、父上とは違う……違うのだよ」


 ひとりの私室に人知れず響いたその独白は、呪詛の響きにどこまでも近かった。

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