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絵師アネシュカは光を描く~チェルデ国絵画動乱記~  作者: つるよしの
第六章 同じ空の下にいるならば
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26 愛する人の祖国にひとり

 共に暮らしたこの二ヶ月の間、マジーグがアネシュカに故郷のことを語るのは稀だった。


 だが、九月も終わりになり、秋めいた澄んだ青色が空を覆うようになると、マジーグは庭仕事の手を休めて、懐かしそうな眼差しを頭上に投げかけていた。

 アネシュカは一回だけだが、そんな彼に故郷について問うたことがある。


「エド。マリアドルってチェルデより標高が高いのよね。もう今の季節は、寒いの?」


 するとマジーグは黒い双眼を柔らかく、すっ、と細め、アネシュカの顔を見つめる。それから今一度ゆっくり視線を空に戻しながら、こう答えた。


「いや。確かに標高差はあるが、そんなにここと違いはないな。ただ、空の青はマリアドルの方がもっと深い気がする。王都のシュタラもそうだが、俺が育ったマリアドル北部の空は、さらに突き抜けるような色をしているよ」


 長い黒髪を秋風になびかせながらの口調、そしてそのときの彼の眼差しは、アネシュカの瞳にはどこか切なげに写った。なので彼女はなんとはなしに、それ以上マジーグにマリアドルのことを聞くのを躊躇ってしまったわけだが、いまから考えれば、もっと聞いておけば良かったと思う。


 彼がどんな空の下で、どんな思いをして生きてきたのかを。


 とはいえ、まさか自分が、それからひと月の後、マリアドルの空のもとに立っているとは、思いもしなかったわけだが。

 それも傍にマジーグがいるわけでなく、たったひとりで。


 しかも、よりによって、トリンから拉致されるという格好で。



 絵画工房でアネシュカを襲った男の名はサグというのだと、シュタラに着くその日まで彼女が知ることはなかった。


 彼に薬を嗅がされたのち、気がついてみればアネシュカは後ろ手を縛られて薄暗い馬車の中に揺られていた。その傍には男が座っていて、アネシュカが意識を回復させたのを認めると、ニヤリと笑いかけてくる。


 その笑みがなんとも底知れぬ悪意に満ちていて、アネシュカは、ぼんやりとしながらも背筋を寒くしたが、かといって口を開かないでいられないのは彼女の性分だ。


「……あんた! どういうこと? いったい私に何の恨みがあってこんな目に遭わせたっていうの?」

「キイキイうるさいな。これだから、女ってのは嫌いだ」

「質問に答えなさいよ!」


 笑みそのものの冷たい声音で自分を向かいの席から見下ろす男に、アネシュカはなおも噛み付く。だが、男は悠然としたものだ。彼は余裕綽々といった仕草で短い黒髪を掻き上げた。瑠璃石と金の耳飾りと、耳元だけ紫に染めた髪が軽やかに揺れるのが、アネシュカの目に飛び込んでくる。


 そうしてから、男は嘲笑うようにアネシュカを見ながらこう言ったのだった。


「ほんと気が強えぇ女だな。あの方から言われた通りだ」

「……あの方……?」


 男の返答に、アネシュカの唇は震えた。


 ――なら、私を誰かの命令で、こんな目に遭わせてるわけ? じゃあ、この男、ただの盗賊でも人攫いでもない、ってこと? いったい、私はなにに巻き込まれたっていうの……?


 悪寒が胸中を走る。


 悪路を走っているのか、馬車が揺れるたびに座席はがたがたと揺れ、縛られ転がさせたままのアネシュカの背中に痛みが迸る。


 しかしながら、自分がなにか得体の知れない陰謀に陥れられたことを実感するに及び、それが意識から遠ざかるくらいに、彼女はいよいよ恐ろしくなった。


 すると、仄暗い車内の空気がすっ、と揺らいだ。目の前の男がすっと面白げに唇を窄めたのだった。

 そして、次に彼が放った言葉に、アネシュカは慄然とした。


「恨むなら、マジーグを恨むんだな」

「えっ……?」


 突如放たれた、誰よりも愛しい男の名を耳にし、アネシュカは縛られたままの身体を大きく跳ねさせる。同時に、ぶわっ、と彼女の白い肌は粟立った。

 再び胸中を駆け抜ける寒気に押されるように、思わず声が爆ぜる。


「まさか、あんた! エドにまでなにかしたんじゃないでしょうね!」

「エド?」


 男が窄めた口を、今度は斜め上に歪める。それから彼は、これは愉快だ、と言わんばかりの声音で笑う。


「おお、そうか。あいつをそう呼んでるのか。愛しい女に掛かりゃ、血濡れのマジーグも形無しだな」

「……エドをそんな呼び方しないでよ! 失礼でしょ!」


 アネシュカの怒声が車内に轟く。

 彼女の心は、じわじわ広がっていく暗い予感に激しく軋むばかりだった。


 動悸が高まる。息が苦しくなる。

 それでもアネシュカは、気力を振り絞ってペリドット色の瞳を見開き、らんらんと男を睨み続けることをやめなかった。

 暫し、仄暗い空間には沈黙が満ちた。馬車はなおも横に揺れ続けている。


 やがて、男がアネシュカを突き放すように語を放った。


「安心しな。お前の大事な男は無事だよ。まあ、だからといって、彼がこれからの自分の境遇についてどう思ってるかは、知らんがな」

「これからの境遇……って?」


 アネシュカは喉から声を絞り出す。

 だが、男はそれ以上のことを話す気はないようで、それから彼がマジーグについて口を開くことはなかった。


 ――エド、私、怖い。でも。


 アネシュカは必死の思いで、心の中で想い人に語りかける。


 ――……でも、私、泣かないわ。あなたに会うまでは。今度会えたら、私は思いっきりあなたの胸で泣いてやるわ。だからそれまでは、絶対に泣かない。そして、絶対にまた、あなたに巡り会ってみせる。私は、負けないわよ。


 アネシュカは唇を噛みながら、こみ上げる絶望感に抗い続けた。つん、と痛む鼻の奥からこみ上げるものを堪えながら。


 そうしている間に、車体の揺れはだいぶんゆるやかになっていく。馬車はどうやら荒野を抜け、平原に入ったようだった。



 アネシュカは、それから食事以外の時間は手から縄を外されることも許されず、座席に転がされたまま、男と睨み合った。

 そして体感で二日ほど時が過ぎたであろうか、ようやく男が馬車の窓を開けたとき、外には見たことのない灰色の石造りの町並みが視界に広がっていたのだ。


「ここ……どこ?」

「シュタラだよ」

「えっ、シュタラって、マリアドルの都の!?」


 驚きも冷めやらぬまま唖然としていれば、馬車が停車したのは瑠璃石に彩られた王宮の中庭で、流石のアネシュカもこれには、ぽかん、と口を開けて立ち尽くすしかなかったのだ。


「ご苦労だったな、サグ。殿下がお待ちだ」


 アネシュカの到着を待ち構えていたらしき兵士が、馬車を降りた男に話しかける。

 マジーグが語ってくれたように、空の色は確かに、抜けるような青だった。



 コツン、コツン、と灰色の石造りの廻廊に、アネシュカと兵士の靴音が響きわたる。


 ――ずいぶん奥まで連れて行かれるのね……。


 もう馬車から降ろされてから、だいぶんと宮殿のなかを歩かさせれている。手の縄はようやく解かれ、サグはいまは傍にいない。アネシュカはふたりのマリアドル兵に挟まれて長い廊下を歩んでいた。アーチ状に灰色の石が積まれた天井は高く、突き抜けるような青い空はいまは見ることはできない。


 そのかわりとでもいうように、足元には青い石のモザイクがびっしりと敷き詰められている。おそらくマリアドル特産である瑠璃石なのだろう。


 ――ファニエル先生の絵が入ってる、エドの青い首飾り。あれもきっと瑠璃石なのね。エドはこの十年間、あのなかにずーっと私の絵を入れて、大切にしてくれてたんだなあ。


 そのことを思うたびにペリドット色の瞳に、じわっと涙が滲みそうになる。

 マジーグは今ごろなにをしているのだろうか。あの家にひとり、ぽつねん、と佇み、自分の帰りを待っているのだろうか。必死に自分の行方を捜してくれているかも知れない。どちらにせよ、とてつもなく心配をかけているだろう。アネシュカは鼻の奥につん、込み上げる痛みを堪えながら、マジーグのことを思い続ける。


 思うほどに、あの優しい黒い双眼が愛しくなる。彼に熱く見つめられたくなる。逞しい腕で抱き寄せられたくなる。


 そして、それが叶わない今がどうしようもないほど、心細い。


 ――負けない。なにがなんだかわからないけど、とにかく、こんなことで、私、負けない。


 アネシュカはまたも、脳裏でそのことだけを念じ、切なさに耐える。


 そうこうするうちに、瑠璃石に金と赤の装飾、というこれまでになく煌びやかな壁が続く廻廊に彼女は足を踏み込んでいることに気づく。


 よく見れば、壁には絵も描かれている。大地を燃やす焔のなか、猛々しい顔の男が剣を払っている絵だった。マリアドルの兄弟国たるチェルデ人のアネシュカには、すぐ、それが創世神話の一場面だとわかる。だとするとこの男は、マリアドルの国神、軍神ガランなのだろう。


 ――国を護る神が描かれているということは、ここは高貴な方が住む場所なのかしら。


 途端に緊張が高まった。アネシュカはごくり、と唾を飲み込む。


 しかし、どう考えても、王宮の最深部に住むマリアドルの貴人がいったい自分に何の用があるのかが、思い浮かばない。他国の一介の絵師でない若い女を、こんな無理矢理攫うようなやり方でここに招く理由など、まったくもって思いつかない。


 なので、ようやく辿り着いた王族の私室らしい部屋にて待ち構えていた若い男が、まさかマリアドルの王位継承者だったとは、アネシュカにとりあまりに想定外の展開でしかなかったのだ。


 三つに結った茶褐色の長髪を背中に流し、紫色のローブを纏ったその男は、アネシュカが部屋に入ってくるや、彼女にこう言い放った。

 その翡翠色の双眼の光は鋭く、禍々しさに熱く燃えている。


「お前がアネシュカ・パブカか。私はハイサル。マリアドルの王子であり、近く皇帝に即位する者だ」


 アネシュカはまたも、あまりのことに、ぽかんと口を開けた。

 その日、二度目のことだった。

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