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2 運命が動き始める

「えっ、こんな時間から出かける? しかも“女神の故郷(ふるさと)亭”に? あんな宿屋にあんたみたいな小娘が、なんの用があるって言うのかい? ……なんだって、絵を見てもらう?」


 夕暮れ時を迎え、畑仕事から戻ってきたアネシュカが叔母に、これから“女神の故郷亭”に出かけたい旨を伝えると、予想していたことだが、大きな怒鳴り声が跳ね返ってきた。

 親を早くに亡くしたアネシュカにとって、母親代わりである叔母のケレンは、自分の理解の及ばないことについては甚だ頭の固い性格だ。特に仕事を忘れんばかりに絵に没頭するアネシュカの姿は、ケレンには日頃から苦々しいものでしかない。


 そんなアネシュカが村の宿屋に自分の絵を見せに行くのだと言う。それも、なにやら位の高そうな男に。なにせ、アネシュカの絵などに価値があるとは考えたこともなかったケレンであるから、彼女にアネシュカの言が信じられなかったとしても無理はない。


「だって、今日の夜来るように、って言われたのよ。そう言われたら行かないわけにはいかないじゃない」

「本当なのかい? そんな夢見事みたいな言い訳をして、どこぞの男と逢い引きでもするつもりじゃないだろうね」

「違うわ! 本当のことよ。それにそう言った人、身分がかなり高そうな殿方だったわ。そんな人からの約束を無碍にして、この後なにかあったらどうするの? 私、叔母さんのせいにするわよ」

「……ぐっ」


 アネシュカの語気強い言葉に、ケレンは思わず呻いた。

 

 この娘の気の強さは、前から承知してはいたが、絵が絡むと遠慮というものを知らなくなるのだと、ケレンは改めて思い知る。それにアネシュカの言うことも、もっともではある。これで後々自分になにかあったら、たまらない。


 なのでケレンは顰めっ面はそのまま、ひとつ咳をすると、不承不承とばかりに声を放った。


「分かったよ。そうとまで言うなら行ってきな」

「……ありがとう! 叔母さん!」

「ただし、いくら帰りが遅くなっても、明日の朝の水汲みにはちゃんと行くんだよ。戻りも今日みたいに遅くならないようにね」

「分かっているって!」


 ケレンの許しの言葉を耳にするや、アネシュカの顔は、ぱあっ、と華やいだ。

 彼女は、傍に置いてあった自分のなにより大切な帳面を手にするや、緑の瞳を輝かせ、一目散に家を飛び出し、村の中心部にある宿屋の方向へと駆けて行く。


 外はすでに宵闇に包まれていたが、星明かりが眩い夜だったので、寂れた村の細い道といえども、走る分には問題ない。

 それに、カンテラを取りに行く時間ももどかしいほどに、アネシュカの気持ちは躍っていた。


 ――なんだか、誰だか、分からないけど、私の絵に興味を持ってくれている人がいる! こんなこと、生まれてはじめてだわ!


 アネシュカは心を逸らせながら、夜道をひたすらに宿屋へと駆ける。


 亜麻色の長い髪も、彼女の興奮を示すかのように、肩の上でふわり、ふわり、リズミカルに夜風に揺れていた。



 全速力で走ったものだから、村の中心部にはあっという間に辿り着いた。

 そこは夜分、貧しい村が唯一賑わう場所であって、数軒の酒場からは灯りと村人たちの声が騒がしく漏れ出ている。その光と影の合間をも駆け抜けて、ついにアネシュカの足は村に一軒しかない宿屋の前で止まった。


 扉上には、産まれたばかりの、泡をまき散らして湖上に佇む女神バルシを模った木の看板が揺れている。


 そここそが、あの男が口にした“女神の故郷亭”だった。


 アネシュカはおそるおそる扉を押し開けた。

 こんな時間に宿屋など訪れたことはなかったから、それだけで緊張する。しかもいまは自分の絵を見てもらう、という、青天の霹靂のごとき夜である。アネシュカの心からはそれまでの高揚が、すうっ、と引いて、言いようのない不安が代わりに満ちてくる。

 

 宿屋の広間には、数人、辺境を巡回している軍人らしき宿泊客がくつろいでいて、複数の視線が中に滑り込んだ彼女に突き刺さる。だが、アネシュカは怯まず、帳場で帳簿と向き合っている主人を認めるや、彼の前にずかずかと歩を進めた。


「あの! 私、ここに泊まっている方に会いに来たんです。これを見せれば、分かるようにしておくから、って言われて!」


 アネシュカは手にしていた帳面を主人の目の高さにかざす。すると主人が顔を上げてアネシュカの顔をしげしげと見つめた。そして驚いたように言う。


「……へえ、誰のことかと思ったら、やっぱりお前さんか。アネシュカ、でかしたな」

「でかした?」

「そりゃ朝っぱらから湖で絵を描いている娘なんて、村でお前しかいないだろうけどさ、それにしてもびっくりだよ。あんな偉い御方に目を掛けられるなんてなあ。なんせあの方ぁ、お前さんどころか俺たちだってそうそう関わりになれない人だぜ。なんせ王都トリンの王宮で……」

「え、お、王宮?」


 なにやら身分不相応な、華やかな遠い世界の単語が飛び出てきて、アネシュカは瞳を丸くして、主人の言葉を遮る。

 次の瞬間、宿屋の奥から聞き覚えのある低い声が響いてきた。


「その先は私から説明するよ」


 アネシュカが声の方向を見れば、朝、湖畔で会った銀髪の男が廊下に佇んでいる。相変わらずの柔らかな笑みを口に浮かべて。主人が途端に頭を垂れる。


「これはこれは、先生!」

「先生?」

「よく来てくれたね、アネシュカ。まあ、きっと来てくれるだろうとは思っていたけど」


 そう言いながら男がゆっくりアネシュカの元へ近づいてくる。そして、アネシュカの前まで来るや、状況が飲み込めず、棒立ちになっている彼女の顔をまっすぐに見据えると、彼はゆっくりと己の身分を明かした。


「私の名は、ラーツ・ファニエル。トリンの王宮で筆頭宮廷絵師を務めている」

「えっ……ひ、ひっとう、きゅうてい、えし……?」


 思わずアネシュカは驚愕の声を上げた。


 位の高い絵師とは想像してはいた。だが、明かされた身分は、高いもなにも、国の芸術界の最高峰に位置するもの他ならないでないか。


 あまりのことに頭が真っ白になったアネシュカを、ファニエルは面白げに見やると、にこり、と笑って、こう言いながらまた廊下の奥に身を翻していく。


「続きは客間で話をしよう。おいで、アネシュカ」


 アネシュカは我に返ると、慌ててどたばたとファニエルの後を追う。

 広間に座する軍人達と、宿の主人が、興味深そうに彼女の背を見つめていたが、もうアネシュカには、その視線を感じる余裕すら、なかった。



「驚かせちゃったみたいだね」

「え、ええ……」


 宿の客間でアネシュカはただただ、ぼーっ、としながらファニエルと向かい合って椅子に腰掛けていた。

 開け放れた窓からそよぐ夏の夜の風は涼しく、いっしょに聞こえてくる虫の音と合わさり心地よく肌を滑る。しかしその虫の声すら、いまのアネシュカにはなにやら別世界の物音のように耳に響く。


 一方のファニエルは悠然としたもので、またも興味深げにアネシュカの帳面を捲っている。


 ――まさか、そんなものすごい人だったなんて。宮廷絵師ってだけで、私からすれば雲の上のような存在なのに、しかも、筆頭、の? それもこんなに年若いのに?


 見た目こそ生来の気丈さを保っていたが、アネシュカは内心震えながらファニエルを恐る恐る見つめる。自分の絵を熱心に眺める彼の顔からは、身分の高さを誇示するような高慢さは微塵も窺えない。

 身なりこそいいものの、見た目は、王都であればどこにでもいそうな、物腰の柔らかな青年である。しかし、自分の絵を見つめるファニエルの琥珀色の瞳は、熱い光に満ちており、それは芸術家の眼差しと言われればしっくりくるものであった。


「やっぱり、いいな。この風景はこの土地の自然を見慣れている者にしか描けない味わいだ」


 やがて、ファニエルは満足気に息を吐きながら、アネシュカの帳面を閉じ、顔を上げた。

 途端に、アネシュカの瞳と、ファニエルの琥珀色の瞳が絡み合う。ファニエルの瞳はなおも、これは面白い、と言わんばかりの輝きをらんらんと放っている。


 その熱を一気に吐き出すように、ファニエルはアネシュカに語を放った。


「君、王都に出て、私の工房の弟子にならないかい?」

「弟子、ですか?」

「ああ、私はいま、王室の命でね、創世神話のあらゆる場面を描く壁画に取りかかっているのだが、これがなかなか大仕事の割に、人手が足りていない。だけどそれは、人数がいればいい、って話でもないんだ。絵の主題を感じ取って、それをいかに瑞々しく、生き生きと絵に表現できるか。絵師にはそのような才能が必要だ。だが、なかなかそういう人材はいないのが現実なんだ」


 目前の宮廷絵師の顔を凝視するしかないアネシュカは、自分を見つめて熱っぽく語るファニエルの言葉に耳を傾ける。思わぬ話の展開にどぎまぎしつつも、一語一句も聞き漏らすまい、といった真剣さを持って。


「だけどね、間違いない。君にはそういう才能がある。それが生まれ持ってのものか、このレバ湖近隣で生まれ育ったから得たものか、またはそうでないなにかがあるのか、それは分からない。ともあれ、君は、いまの私に必要な人材だ。どうかな? 弟子になれば絵の勉強に専念できるのはもちろんのこと、少しだが給料も出せる。悪くない話だと思うんだ」


 アネシュカに語りかけるファニエルの話は、彼女にとり申し分のないものだった。いや、むしろ、迷う理由を探す方が難しい魅惑に富んだ話といった方が良いかもしれない。

 アネシュカの心は、突然開けた輝かしい未来に、押さえようもなく高まる。


 だから、すぐに彼女がこう声高く叫んだのは、あまりにも自然の成り行きだった。


「行きます! 私、先生の元で絵の修行をしたいです!」

「それならよかった。よろしく頼むよ、アネシュカ」


 興奮冷めやらぬアネシュカの声に、ファニエルが静かに微笑む。

 彼は右手をアネシュカに差し出し、彼女と固い握手を交わす。


 しかし、握手を終え、アネシュカが何気なく放った一言に、ファニエルの心は翳った。


「そうか、私、分かりました。先生がこんな辺鄙な村においでになったのは、壁画を描くためだったんですね。神話の地レバ湖をその目で見て、より絵を素晴らしく仕上げようと!」


 対して、ファニエルは即答しなかった。


 数瞬の間をおいて、ただ、曖昧に笑いながらこう答えたのみである。


「……まあ、そんなところだよ」


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