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絵師アネシュカは光を描く~チェルデ国絵画動乱記~  作者: つるよしの
第五章 祖国からの昏い呼び声
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24 審議会からの暗転

 審議会の日、絵画工房に集められたのはファニエルの弟子だけではなかった。


 審議員として、トリンの目利きの画商や美術品愛好家も合わせて十人ばかり呼び寄せられている。どうやらロウシャルの命あってとのことらしい。


 よって、広い工房もその日ばかりは肩を寄せ合わせなければならない窮屈さであった。

 そして、集まった人間の全てが、工房の中央に置かれた画板に立てかけられた一枚の絵に熱い視線を投げかけている。


 それこそは、本日の審議の対象である、昨日トリンで見つかった、ファニエルの手によるものと思われる絵、他ならなかった。


 朝の光のなかで、絵に描かれた草原に立つひとりの女は、まるでその場に躍り出てくるかのような臨場感を醸し出していた。

 ふっくらとしたその唇はいまも呼吸を漏らしているかのように柔らかかつ、みずみずしく、彼女が手にした花束に至っては、まるで目前で風に揺れているかの如く、生命感に満ち溢れている。

 絵の周囲に立つ人たちは、誰もが感嘆のため息を漏らさずにはいられなかったほどだ。


 むろん、アネシュカもそのひとりだ。


 彼女も絵画工房の絵師として今日の審議への参加を求められていたのだ。

 アネシュカは、昨日ロウシャルと眺めたばかりの絵を、今一度、ペリドット色の瞳をらんらんと燃やして見つめる。


 ――見れば見るほど、すごい絵ね。こんな絵、私にはまだまだ、描けないなぁ。


 彼女は嘆息まじりに、そう心のなかで呟く。

 しかし、昨夜、マジーグからファニエルの死を知らされているアネシュカからすれば、ただ絵に心震わせているほど、単純な心持ちではなかったのも事実だ。


 ――これは、ファニエル先生が亡くなる直前にハルフィノで描いた絵なのかしら? だとしたら、エドの言うとおり、なぜ、誰が、なんの目的でトリンに?


 ざわめく人々のなかで、アネシュカの心は疑問に疼く。

 そしてファニエルがすでに死んでいることを知っているのは、この場では自分ひとりであるという事実が、気持ちを重くする。


 というのも、アネシュカはマジーグと暮らしていることを、いまだ、絵画工房の仲間たちにしか明かしていない。

 本当ならば、夫婦としていち早く認められたい。もちろんその気持ちはある。


 だが、トリンの都市法通りに婚姻の届けを出すとなれば、かつての総督であったマジーグがいまチェルデにいることを、当然、公にしなければならない。


 アネシュカにはそれが躊躇われた。


 トリンでは申請さえすれば、外国人との婚姻も認められている。マジーグは彼女の好きにするといいと言ってくれていたが、彼はかつて、トリン市民を支配していた側である。十年を経てもいまだ市民に占領の記憶は新しい。となれば、彼に恨みを抱いている者もいるかもしれない。アネシュカはそれを恐れたのだ。


 よって、アネシュカはマジーグからもたらされた師の消息を誰にも伝えられずにいる。再びロウシャルと顔を合わせる機会があれば、密かに伝えてみようとは考えてはいた。しかし、ロウシャルは自治区の重鎮だけあって、常に役人をはじめとした人間に取り囲まれており、アネシュカのような一介の絵師が容易に声を掛けるのは難しいのが現実だ。

 結果、アネシュカはひとり悶々した心を抱えて工房にいることを余儀なくされている。


 ――私は、どうすればいいのかしら? いまもそうだけど、この先もそうよ。ファニエル先生のことだけじゃない。エドが私と心から安心して暮らせるためには、このままじゃだめなのよね。だけど……。


 そこまで彼女が考えたところで、厳めしい表情で赤いマントを揺らすロウシャル、そして、自治区の役人が数人、工房に足音高く入室してきたのが瞳に映る。


 アネシュカの逡巡をよそに、まさにいま、ファニエルの絵を巡る審議会は始まろうとしていた。

 


 最初に討論されたのは、絵が描かれた時期についてだ。これについての意見はその場にいる全員が一致した。


「板の上の絵具にまだ、経年劣化の皸がほとんどない。酸化もしていない。だから、これは描かれたばかりの絵だな。おそらく一年以内と見ていいだろう」


 ただ、絵がどこで描かれたものかについてはそれぞれ見解が分かれた。使われている絵具の産地がそれぞればらばらで、統一感に欠けたからだ。


「この女性のローブに使われた朱色は赤鉄鉱だな。チェルデ北部の鉱山で獲れたものだろうか。だが、それにしては色味が少し濃い」

「黄は黄土であろうか。青は僅かしか使われていないが、これは瑠璃石か。だとしたら、おそらくマリアドルのものだろう。この大陸で瑠璃石の最大の産出国といえばなんといっても、あそこだからな」

「ただ、女の首飾りに使われているこの緑は、見たことがない。なんの石を用いたのだろうな?」


 そして、描かれた場所の特定を迷わせたのは、絵具だけではなかった。


「この女が持っている花束の花がなんであるかが、分からぬ。こうして絵の人物に持たせているだろうからには、この花がこの絵の主題といっても差し支えないと思うのだが」


 アネシュカたち絵師をも交えた、審議員たちの議論は白熱する一方だった。皆が皆、一様に一枚の絵に注視し、唾を飛ばし合っては謎を解こうとしている。

 部屋の中央に座したロウシャルも、口さえ挟まないものの、一同の議論に真剣な顔持ちで耳を傾けている。


 いつしか工房の窓から差す光は午後のものになっていたが、それを口に出す者は皆無だった。


 ようやく、ここで休憩を、とロウシャルが口にしたのは、午後二時過ぎになってからだ。審議員たちはひとまず、絵具の検証から離れて、画法に議論の主題を移しつつあった。

 休憩直前にひとりの画商から放たれた意見は、こうであった。


「画法はファニエルのものだろう。彼の絵画の特徴は人物によく現われている。特に女性の顔だ。この唇を見よ。輪郭の描き方が王宮に現存している故陛下を描いた肖像画と、酷似している」


 アネシュカも一休みとばかりに工房の外に出て、地面に腰を下ろす。そして昼食用にと家から持ってきたチーズとパンを口に運ぶ。

 しかし、咀嚼しつつも、彼女の意識は舌よりも先ほどの議論に注がれてしまっていた。


 ――画法はファニエル先生のもの。それは私もそう思うわ。先生が描く女性の艶やかさは誰にも真似できないもの。でも分からないのは描かれた時期よ。一年以内。昨日のエドの話が正しいなら、もうファニエル先生は亡くなっている時期に当たるわね。となると、先生の絵を真似て誰かが描いたものなのかしら? でもだとしたら、誰が、どうして? 


 彼女は昼食を摂りながら、考え続ける。


 ――それに、絵具も謎に満ちているわ。先生のいたハルフィノはチェルデ東南部。あそこは朱色の石が取れるチェルデ北部とは遠いわ。それにあそこはマリアドルの占領地なのだから、マリアドルで産出される瑠璃石が多用されていてもおかしくないのに、青色は僅かしか使われていない。緑に至っては誰も見たことがないというし。


 あとから思えば、そのとき、アネシュカは絵のことに考えを注ぎすぎていて、いささかぼんやりとしていたのかもしれない。


 ――そしていちばんわからないのは植物よ。女性が手にしている花、たしかになんの花だかわからないわ。架空の花なのかしら? それにしては緻密だけど。


 そこまで考えたとき、急に陽が翳った。

 朝から天気のいい秋の午後だったから、雲でも出てきたのかしら、とアネシュカは亜麻色の髪を揺らし、上を見上げる。


 赤い髪の青年が目の前に立っていた。


「アネシュカ、審議の続き、そろそろ始まるぞ。早くメシ食っちまえよ」

「あっ、もうそんな時間?」


 アネシュカは慌てて食べかけだったパンを口に運ぶ。

 その様子をトルトは、まったく世話が焼けるよ、こいつは、とばかりの表情で見下ろしていたが、不意に彼は後ろに人の気配を感じとった。

 その次の瞬間だ。


「……ぐっ!」


 トルトは腹部に猛烈な痛みを感じて、途端に膝から崩れ落ちた。背後の何者かに腹を殴られたのだ、という理解だけはなんとかできて、彼は疼く腹を抱えながら、後ろを振り向く。


 陽を背にして、見知らぬ若い男が目の前に立っていた。男の目は細く吊り気味で、青い石と金の耳飾りと、肩までの黒髪の耳元だけを紫色に染め上げているのがやけに鮮やかに視界に飛び込んでくる。

 そして、次にトルトが見たのは、突然のことに呆然として座り込んだままのアネシュカの口元に、男が白い布を押し込んだ光景だ。

 男が手にした布から漂う、つんとする匂いが、トルトの鼻腔を満たす。


 程なくアネシュカの顎はがくり、と落ちた。弛緩した彼女の身体は工房前の地に崩れ、手からは食べかけのパンとチーズがころり、と転がる。


「アネシュカ! おい、アネシュカ!」


 我に返ったトルトは声をかぎりに叫びながら、ぐったりと土に亜麻色の髪を乱したアネシュカに身体を向ける。

 だが、再びトルトの腹を鋭い殴打が襲った。しかも、今度は二発、三発と。


 トルトが意識を途切れさせる直前に見たのは、秋の午後の光のなか、アネシュカを抱き上げた男が無言のまま、その場から悠然と歩き去っていく後ろ姿だった。



 馬の嘶きを耳にして、マジーグは、おや、と思った。


 審議会は一日がかりだろうから、遅くなるかもしれない、そう自分に告げてアネシュカは今日、家を出て行ったのだ。それにしては早い帰宅だった。

 マジーグは豆を剥いていた手を止めると、アネシュカを迎えるべく扉に足を向ける。


 ところが扉を開けた途端に飛び込んできたのは、いつもアネシュカを送り迎えに来る、赤い髪の青年だったのだ。しかもその形相はいつものおどおどした様子とはまったく異なり、憤怒の色を湛えている。


 驚くマジーグが声を上げる間もなく、トルトは彼の胸元に掴みかかるや、叫んだ。


「おっさん! あいつ、黒い髪のあいつ! マリアドル人じゃないのか?」


 マジーグはトルトの絶叫の意味がわからず、黒い眉を顰める。

 しかしながら、次の青年の言葉を聞くにあたり、アネシュカの身に何事かが起こったのだと瞬時に悟り、彼もまた、声を荒げずにはいられなかった。


「なんなんだよ! お前、いったい、アネシュカに何するつもりなんだよ!」

「アネシュカになにかあったのか? おい、何があったんだ!」

「うるせぇよ! それはこっちが聞きてえよ!」


 背中を脂汗が流れていく。

 とりあえず、急激に胸を浸していく絶望感に抗うように、マジーグは、胸ぐらを掴みながら叫んで暴れるトルトを落ち着かせて話を聞き出さねば、と、赤い髪の青年の身体を引き離すべく身を捩った。


 その視線の先で、開け放ったままだった扉の向こうに立つひとつの人影が、ゆらめいた。


 ついで、息をのむマジーグの耳に、懐かしい声が響いてくる。


「おかげで知らせる手間が省けましたよ」


 マジーグの背筋は、赤い陽を背に立つ元副官の姿に粟立った。


「お久しぶりです。マジーグ閣下」


 秋の夕暮れの風は強く吹き荒む。

 ごおお、と音を立てて唸る。


 三者三様の表情で互いを見交わす男たちを、冷たく包み込んで。

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