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絵師アネシュカは光を描く~チェルデ国絵画動乱記~  作者: つるよしの
第四章 それでも、私は描きたい!
22/71

21 天を描けど

「その後どう過ごしている。絵師、ファニエル」

「これはこれは、閣下。……私はもう、絵師ではないのですがね」


 チェルデ総督を辞し、王都トリンを離れマリアドルに戻る途中のマジーグが、自分の元に立ち寄ったのを見て、ファニエルはいつものように柔らかく微笑みを浮かべた。


 マジーグの要求により、ロウシャルから身柄をマリアドル軍に移されたファニエルは、王宮の工房には戻らなかった。彼はマリアドル軍により裁かれ、死罪にさえならなかったものの、チェルデのマリアドル支配地域へ流刑のうえ、生涯に渡り、己の絵を公の場へと晒さないことを宣誓させられた。


 彼はいま、チェルデの僻地で監視を受けながら、ひとり静かに暮らしている。


「それを言うなら、俺ももう、チェルデ総督ではない。今日はただひとりの人間としてここに来た。そう思ってくれると助かる」


 監視の兵士と同行の部下を遠ざけて、ファニエルの家にひとり入ったマジーグは、そう元宮廷絵師に語を放った。それから、訪問の目的をファニエルに告げる。


「頼みがある。俺のために、アネシュカの肖像画を描いてくれないか」


 懐かしく、愛しい弟子の名前を耳にして、ファニエルは、緩やかに琥珀色の瞳を細めた。

 そんな彼の前に立つ元チェルデ総督の顔は真摯さに満ちている。


「持ち歩けるくらいの小さな絵でいい。それに、他人には見せぬから命令違反にはならぬ」


 ファニエルは唇に笑みを浮かべながら、マジーグの依頼をただ黙って聞いていた。やがて、暫しの沈黙のあと、なにか納得したような顔をしつつ口を開く。


「……いいでしょう。私も、誰かのために絵を描く、ということをやってみたかったところでした。それに他でもない『女神』の絵ということでしたら」


 マジーグが訝しげな目をファニエルに向ける。


「女神?」

「生ける女神なのですよ。アネシュカは、私にとっては」


 ファニエルはマジーグにそのように告げると、さっそく絵具を作り始めた。マジーグは部屋の隅にあった椅子に座り、ただ黙ってファニエルの一連の作業を見守る。やがて彼は画材の準備を終え、掌に収まるほどの木片を手にすると、一気に絵筆を動かし始めた。


 

「彼女は、三度(みたび)、私の命を救ってくれました。最初は身を投げるため訪れたレバ湖湖畔で。二度目は処刑場で」


 誰にも真似できない素早さで、細かく筆を捌きながらファニエルはマジーグに語り始める。心にアネシュカの眩しい笑顔を思い浮かべながら。


「そして、三度目は、いま現在の私をです。人と競うこともなく、心のままに絵が描ける幸せを、私は彼女のおかげで得ることができました」


 ファニエルは手中の板に、ありったけの想いを込めながら、彼女の顔を描き込んでいく。幼さの残る輪郭が生き生きと浮かび上がり、その周りを亜麻色の髪が躍る。それは、確かに画神アルバと呼ばれた者の技だった。しかしいま、彼の口から零れる言葉は、神のそれではない。マジーグはなおも黙りこくってファニエルの言に耳を傾け、彼もまたひとりの人間として自分と対峙していることを感じ取る。


「芸術に勝ち負けなどないのです。一番大切なのは、自分の心が自由であることです。私は彼女に会うまで、それに気づけなかった……だから、いま、私にとっての女神は、バルシではなく、アネシュカなのです」


 木片に向き合うファニエルの顔は笑っていたが、いつしか琥珀色の瞳には、うっすらと涙が滲んでいることにマジーグは気付く。それでも彼は、そのことを指摘することもなく、絵を描くファニエルの前で口を閉ざしたままでいた。


「私はたくさんの天を描きましたが、結局は、猜疑と嫉妬にまみれ、どこまでも地を這う人間でしかなかったのです。人は女神とは結ばれません。ですから、どうか閣下、あなたが彼女と添い遂げてください」


 マジーグが静かに、ファニエルの涙に濡れた目へと、視線を投げる。それから彼は、沈黙を破り、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「それを言うなら、俺とて同じだ」


 マジーグの黒い双眼が、ファニエルの手に再び落ちた。

 そこにはあの、眩しい笑みが浮かび上がっている。あの、輝くペリドット色の瞳が見えている。


「俺も任務の遂行だけを長らく追い求めて生きてきたが、しかし実際は、血にまみれた罪人でしかない」

「それでもです」


 ファニエルが顔を上げ、マジーグの目前で彼の銀髪が、ふわり、揺れた。その髪の下を見れば、ファニエルの瞳からは、涙が一筋、零れ落ちているのが分かる。


 しかしながら、ファニエルは笑っていた。泣き笑いながらも、マジーグに向かって、こう語を継ぐのだ。


「それでも、閣下はアネシュカを愛しているでしょう。そして、彼女もそうです。ならば、ともに幸せになっていただきたいのです。人は愛を得ることで、神に近づけるのですから」


 それから、ファニエルは描き上がった木片をマジーグに手渡しながら、なおも涙を流しながら微笑み、こう告げたのだった。


「それは、私にはできないことです」


 やがて、ファニエルからアネシュカの肖像画を受け取ったマジーグが深くひとつ、頷いた。

 彼は、絵を懐から取り出した深紅のビロードの布で丁寧に包むと、ファニエルに向かって深々と頭を下げる。


 そうして、彼は黒い三つ編みと、同色の銀糸に彩られたマントを揺らしながら、もう生涯で二度と会うことのないだろう元宮廷絵師の家から去って行く。


 閉じられた扉を見つめながら、ファニエルは、ぽつり、と呟いた。頬を伝う涙に、数多の愛憎を込めて。


「……まったく、最後の最後まで余計なことをしてくれる女神ですよ……アネシュカ、あの子は……」


 窓の外には、緑が大地に萌えはじめた様子が見受けられる。

 チェルデは、春を迎えていた。

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