20 最後の夜も、あなたのために
冬の終わりの日、ガロシュ二世は執務室にて、タラムからの報告書に長い間、目を落していた。
そこに記されていたのは、ひと月前となったトリン攻防戦の顛末である。
マジーグが独断でファニエルの罪状を市民の前で暴露したこと。その責をとってチェルデ総督を辞し、配下の将官に任を譲ると宣言したこと。ロウシャルとは一時休戦の条約を結び、対チェルデ政策は後任者に一任したこと。書面にはそれらが詳しくタラムの几帳面な筆跡により綴られていた。
ガロシュ二世は傍にいた配下へ、ぽつり、と穏やかに語を零す。
「あいつも所詮は、人間であったか」
「……はっ、して処置はいかが致しますか? 彼がチェルデ総督としての任を全うしなかったことは、明白です。ならば、帰国を待たず、タラムに命じて、手を下してしまうのも一案でございますが……」
すると、皇帝は、配下の感情を排した言葉を、さりげなく遮った。愉快そうな口ぶりで。
「よいではないか。マジーグの帰国を認めてやれ」
「よろしいのですか?」
「あいつはまだ役に立つ。チェルデの制圧は他の人間に任せて、また十年、別の任に当たらせれば良い。それに……」
そこで一旦、語を区切ると、ガロシュ二世は呟いた。独白の如く。
「それに、余も興味があるのだよ。あいつが興味を持った少女とは、どんな人間であるかを。余は、そのことを、あいつの口から直接聞いてみたい」
そして、この件は終わりだとばかりに手を振る。慌てて部屋を退出していく配下を見送りながら、ガロシュ二世はなおも微笑み、独り言つ。
「マジーグ、お前もチェルデで美しい夢を見たのだな、余と同じく。さて、その夢が、泡沫ではなければいいが……」
一方、アネシュカがマジーグの私室に呼ばれたのも、時を同じくしてであった。
自然は春の兆しを孕みつつも、部屋を過ぎる夜の空気はなおも冬を感じさせる。
アネシュカは今夜がマジーグとの別れの時であると、なんとはなしに予感していた。しかしながら彼女は、いつもと同じく、髪を結い、口に紅を差し、薄桃色のチェルデ伝統のドレス姿に帳面と画材を抱え、彼の部屋を訪れた。
そして、いつものようにマジーグと向かい合わせで、椅子に座す。座しつつ、ふたりはなにから口にすれば良いか迷いつつ、蝋燭の炎が照らす互いの顔を見交わす。
やがて、どんな任務の前でもこんなに緊張したことはない、という面持ちのマジーグが口を開いた。
「アネシュカ。俺は明日、トリンを離れ、マリアドルに帰国する」
その唇と声は僅かに震え、精悍な顔は、仄暗い部屋でさえ分かるほどに赤い。
右手に至っては、落ち着きなく、己の黒い三つ編みを弄っている。アネシュカはそんな彼の様子を、ちょっと面白く思いながら黙って見守る。
それでも、続けてマジーグがこう語を放った時、彼女の心臓はどくん、と跳ねた。
「俺は、お前が好きだ。十一も年下のお前に、こんな気持ちを抱くのは、おかしいことかもしれぬ。だが、俺は、お前に傍にいてほしいんだ。だから……どうか、俺と一緒に、マリアドルに来てくれないか」
そうして目の前の男が、テーブル越しに自分の手を、おずおずと、だが、精一杯の優しさをもって握りしめる。
彼の肌は、初めて熱を触れあわせたいつかの夜と同じく、あたたかい。
アネシュカは胸を高鳴らせながらも、それが嬉しくて、心安まる思いがした。
だから、彼女も躊躇うこともなく、マジーグの黒い瞳をまっすぐ見据え、こう告げることが出来た。
「私も閣下、あなたが好きです」
そのアネシュカの告白にマジーグの表情が、ふっ、と緩んだ。
それまで刻まれていた眉間の皺が消える。双眼の光はゆらり、揺れ、やがて、心からの安堵の色に満ちる。
アネシュカは、そんなマジーグを見つめながら、語を継いだ。
「あのとき……ファニエル先生を救って下さったとき、私も、閣下を好きだと気付いたんです。閣下の想いをひしひしと感じました。いまも胸が熱いです。閣下のことを思うと、焦げるように熱いのです。私にはまだ経験がありませんでしたが、きっと、これを……恋と呼ぶのだと思います。ですが……」
そこで言葉を区切ったアネシュカに、マジーグの赤い頬がぴく、と動いた。そこからも瞳を逸らさず、なおもアネシュカは男に語り続ける。
「私は、いまは、チェルデで絵を描いていたいんです。学びたいんです、閣下と私を繋げてくれた絵を、もっと」
途端にマジーグの顔に陰が差し、アネシュカの手を握る力が、ふっ、と弱くなった。アネシュカはすかさずその手を強く握り返す。ここからが肝心なんです、と言わんばかりに。
「だから、だから、閣下の軍務が終わる十年後に、私を迎えに来て下さいませんか? いまの私は閣下にとても釣り合わない子どもです。でも私、十年後にはもっと、成長していたいんです。いろんなことを勉強して、閣下の隣にいられるような人間になりたいんです」
アネシュカの言葉が夜の静寂に響き渡る。最後には、彼女は必死だった。ペリドット色の瞳を見開いて、懸命にマジーグに訴えかけた。想いが伝わるようにと、ありったけの願いを込めて。
それが通じたとアネシュカが知ったのは、数十秒続いた沈黙の後、マジーグが表情を優しく和らげて、こう彼女に告げたときだ。
「……分かった。俺はお前を迎えに行く、必ず」
それからマジーグは、両腕をアネシュカの肩に差し伸べると、テーブル越しに彼女を抱き寄せながら、呟いた。
己の覚悟を質すように、はっきりと。でも、心から幸福そうに。
「それを望みに、俺は、あと十年を生き延びてみせる」
アネシュカとマジーグは、想いが通じ合った幸せを噛みしめながら、深く、互いの身体を抱きしめ合った。交わされた腕から、また熱が伝わる。
「閣下……生きて下さいね、なにがあっても」
「ああ、俺は死なぬ。お前が待っていてくれるというなら、俺は、生きる。どこまでも生きる。アネシュカ、お前も生きろよ」
「もちろんです」
マジーグの黒い三つ編みとアネシュカの亜麻色の髪が絡み合う。双方の髪がふたりの頬にかかり、些かくすぐったい。
だが、ふたりはそれを払うこともせず、ただ、ふたつのぬくもりを寄せ合い、抱き合ったままでいた。
どのくらいそうしていたのか。
急に、アネシュカの肩にマジーグの身体が、ずしり、とのし掛かった。ついで黒い頭が、アネシュカの身体をゆっくり滑り落ちていく。
「え?」
慌ててアネシュカが、力の抜けた彼の身体を椅子に座らせながら確かめてみれば、マジーグの双眼は閉じられていた。耳を澄ませば、彼の唇からは規則正しい呼吸音が漏れている。
「閣下、寝ちゃった、の……?」
アネシュカは一瞬呆れたが、それから、彼女は唇に微笑みを浮かべた。
「仕方ないなあ……」
椅子に背もたれたマジーグの寝顔は、これ以上なく穏やかで、アネシュカの胸中をより喜びに満ちさせる。彼女は、この愛しい面影を心に留めておこう、とじっ、と見つめる。
結果、アネシュカの手が帳面と木炭をいつのまにか掴んでいたのは、もはや、絵描きの習性だといっていいだろう。
「閣下、かわいい」
マジーグの眠りを妨げぬように、小声で、アネシュカは眠るマジーグを前に、にこり、と笑い、囁く。帳面を滑る木炭は止まらせずに。
やがて、マジーグの寝顔を数枚描き上げると、アネシュカはそのうちの一枚に、なにやら言葉を書き添える。それから、それを帳面から切り離し、テーブルに置くと、アネシュカはマジーグを起こさぬよう、静かに部屋を出て行った。
激務による疲労と、アネシュカに想いを告げる極度の緊張から解き放たれ、肝心要のところで睡魔に負けてしまった男の前で、ふわり、夜風に紙が持ち上がる。
紙に描かれた絵には、男の寝顔、そして、その横にはただ一言、「待っています」との言葉が綴られていた。




