19 刑場に掲げる絵
それから二日。
半壊したトリンの城壁付近で、マリアドル軍とロウシャル軍は睨み合っていた。
トリンに残されていたマリアドル軍からすれば、圧倒的に己の軍備面での劣勢は否めない。無理に打って出ればカゾの毒矢に襲われる。
一方のロウシャル軍からすれば、優勢とはいえ、トリンには多くの市民が残されている。城壁を崩す以上の攻撃に出れば、同胞にも犠牲が出かねない。
それがロウシャル軍のトリン包囲から数日の双軍の事情であった。よって、相手の出方を見守るしかない膠着状態に、戦況は移り変わりつつある。ロウシャル軍はひとまずトリンを見渡す丘まで後退し、次の策を練っていた。
その日の昼過ぎのことである。トリンを窺っていた兵士は、何者かが崩れた城壁を駆け降り、霜の降りた大地をこちらに向かって歩いてくるのを目視で確認した。兵士は弓に手をかけたが、それを別の兵士が止める。目を凝らして見れば、その者は白い旗を掲げていた。そして、また他の兵士が驚きの声を上げる。
「……少女?」
白い布を縛り付けた木の棒を掲げながら、白い地表を踏み締めて、亜麻色の髪の少女が丘に向かって歩を進めてくる様子に、物見台は一時騒然となった。
慌てて馬に乗った兵士が平原に辿り着くに至り、年若い少女がペリドット色の瞳を光らせて、こう気丈に口上を述べたのを聞いて、仰天する。
「ラーツ・ファニエル先生のことで参りました。どなたか、なるべく偉い軍人の方に、取り次いではもらえませんか?」
「ファニエルを解放せよ、と言うのだな」
アネシュカは頷いた。
マリアドル軍が手薄な箇所の城壁を死ぬ思いで潜り抜け、ロウシャル軍の陣地に到着するまでの緊張から、彼女はくたくたに疲れていた。それでも、なんとか、ファニエルと親しいとトルトから聞いたロウシャル将軍とこうして面会できた以上、アネシュカは倒れるわけにはいかなかった。
だから、彼女は必死になってファニエルの知己であったという偉丈夫に言葉を繰り出す。
「そうです。ファニエル先生が壁画を進んで改竄したのは確かに事実ですが、それは将軍に資金を送るためだったのでしょう? ならば、先生は反逆罪には当たらないはずです。ですから、将軍さえ、そのことを公表さえすれば……」
「そうしたいのは、俺もやまやまだ」
「だったら、なぜ、そうしないのですか! トリンに伝わってきた知らせでは、即日軍事裁判のうえ、死罪ってことじゃないですか!」
アネシュカは瞳に涙を湛えて、叫んだ。昨日それを知らされたときの衝撃は、いまも心に新しい。
人払いをされた、ロウシャルとふたりきりの天幕の空気が、ゆらり、揺れる。
すると、ロウシャルが頬髭を歪めながら、苦しげに呻いた。
「あいつが、それを、望んでいない」
「えっ……?」
「あいつが捕えられた報を聞いて、俺はすぐあいつの元に向かった。しかし、ファニエルは俺に向かって、こう言ったんだ」
顎髭を擦りながら、顰めっ面をして言葉を吐くロウシャルの口ぶりは、なおも苦悩に満ちている。アネシュカといえば唖然として、彼の顔を見つめることしかできない。
「自分は、祖国の英雄などよりも、国を裏切った芸術家として死にたい。そう記憶されたい。そう後世の歴史に刻まれたい。……あいつはそう、言った。それを頑として譲らん。俺がどう説得しても、あのいつもの微笑んだ顔のまま、そう言うんだ」
「そんな」
「本当に、あいつは大馬鹿者だよ。俺は頭を抱えて、事情を知る将官を集めて合議した。しかし、彼らもファニエルの功績を讃えながらも、こう俺に進言するんだ。そういうことなら、彼を裏切り者として処刑するしかないのではないか、なにより、そのようにした方が、軍の士気は上がり、反逆者への見せしめにもなると」
ロウシャルのあまりにも無情な言葉に、アネシュカは唇を震わせた。
「……ええっ……」
「実際、ファニエルの軍事裁判での態度は、不遜そのものだったのだ。それもあって軍には、あいつの功を認めつつも、国家の象徴を進んで壊し、トリン市民の士気を削いだ旨で、ファニエルを苦々しく思っている者も多いのだよ」
「なによ、それ! おかしいわよ!」
ついに耐えきれず、アネシュカは我を忘れて絶叫した。
分からなかった。ロウシャルの苦悩。軍人たちの思惑。それらの全てが。
そして一番訳が分からないのは、肝心のファニエルだ。
理解のしようがなかった。
命を捨ててまで、芸術家として名を遺したいとは、いったい、どういうことなのか。
そんな矜持に、いったい、なんの意味があるというのか。
苛烈なまでの少女の叫びに対して、ロウシャルは唇を噛んで地面を見つめるしかない。しかし、それからしばしの間をおいて放った言葉に、もはや、揺るぎはなかった。
「刑は明日の正午、トリンの城壁に程近い場所で執行する。トリン市民の目によく入るようにな」
「そんな! あんまりだわ!」
アネシュカの目から涙が零れ落ちた。ロウシャルは少女から目を背けるように立ち上がり、天幕を出て行く。
ひとりぼっちになった天幕の中、アネシュカの怒鳴り声が虚しく響きわたった。
「ファニエル先生の……馬鹿、馬鹿、大馬鹿ぁっ!」
ロウシャルはアネシュカの絶叫を背後に聞きながら、そのまま丘の外れにある粗末な黒い天幕へと歩を進めた。厳重に警備の兵士が固めるそこに歩み寄り、投げかけられる敬礼に返礼しながら中に入る。
すると、後ろ手に縛られたまま、地べたに転がされているファニエルの姿が目に映る。ロウシャルの命によって彼は拷問にさえ晒されなったものの、冬の冷たい地表に横たわる彼の顔は青く、唇は紫がかっている。だが、そんな色をしていても、ロウシャルを認めた宮廷絵師の唇は、なおも微笑みを絶やさないのだ。
ロウシャルは内心そのことを腹立たしく思いながらも、ファニエルの前に屈むと、彼の半身をそっ、と引き起こし、己のマントを外し冷え切った身にかけた。
それが己の知己に、いましてやれる唯一の心遣いであるという現実が、彼には耐えがたくて仕方ない。顔を苦渋に顰めながら、ロウシャルは銀髪の青年に語りかける。
「お前の弟子だという少女が、戦の合間を縫って、俺の元に来たぞ」
「……」
「彼女もお前のことを、大馬鹿者だと、叫んでいた」
「……まったく、あの子は……」
ファニエルはゆっくりと囁いた。琥珀色の瞳を優しく細めて。
「本当に、お前はそれでいいのか、ファニエル」
「いいのです。そうすることで、私の魂はより、天に近づけるのですから」
ロウシャルの何度目かの問いかけに、迷うこともなく即答したファニエルの口調は、楽しげでさえある。瞳に満ちているのは、諦観ではなく、果てることのない芸術への渇望の光だ。そして彼の胸の内もまた、その煌めきに輝いている。
そんなファニエルを見て、ロウシャルは大きく溜息をついた。
「芸術家という人間は、全くもって、俺には理解できんよ」
対してファニエルは、こう答えるのみだ。
「理解など、簡単にされたくないのです。私は」
丘の上の陣地に、一月末ならではの寒風が吹き渡り、天幕をも揺らす。
しかし、身体は凍えつつも、ファニエルの心は、これまでにない安らぎと幸福に満ちている。
――明日、私は何者も手に出来ぬ、永遠の称号を手に入れることが叶う。私はなんと幸せな人間なのだろうか。
彼は肩を落して天幕を去って行くロウシャルを見送った後、そう心の中で呟く。そして泥にまみれた銀髪を揺らしつつ、また柔らかに唇を歪めた。
夜、トリンに戻ったアネシュカは、工房の中で、ひとり、膝を抱えていた。
ロウシャル軍の陣地からは、特別な計らいとしてトリンの城壁近くまで兵士が馬で送り届けてくれた。それから夜を待って、またもマリアドル軍の目を盗んで市内に戻る。それだけで彼女は体力と気力を使い果たして、いまにも工房の床にて昏倒しそうだった。いや、もう、そうしてしまいたいほどに、彼女は失意にまみれていた。それなのに、意識はなおも冴え、思考は頭の中でとめどなく渦を巻いて止まない。
――どうすれば……。
アネシュカは椅子の上に座り込んで、必死に考える。ファニエルが死を望んでいる以上、もうなにもしようがないのかもしれない、とは思う。
しかし、敬愛する師が誤解と汚名にまみれたまま殺されていくのは、なんとしても避けたい。
そのとき、アネシュカの傍の壁に立てかけられていた板絵が、隙間風に煽られて、がたり、と音を立てた。
彼女は亜麻色の髪を揺らし、ふと、それに目を向ける。
次の瞬間、アネシュカの瞳は驚きに見開かれた。
その板絵は、ファニエルが工房から逃亡する直前まで、絵筆を振るっていた絵だった。誰にも真似できない、師の優雅な筆捌きが、それを告げている。
そこには、華麗な色彩に彩られた女神が描かれていた。
着衣を乱されながらも、凜とした表情を崩さず、誇りを持って屹立した女神の姿が。
力強い眼差しを空に向け、威厳を全身から放つバルシが、そこに「存在」していた。
「先生、いつの間に……?」
アネシュカの身体に震えが走る。それほどまでに、突如出現した女神は美しかった。
そしてその絵にはまだ背景がなく、女神の他にはまっさらな木の板であることに気付いたとき、アネシュカの頭にある考えが弾けた。
――この絵さえ完成させれば……もしかしたら。
浮かび上がった考えは、次の瞬間、確信に変化する。
同時に、うちひがれていた心が、燃え上がるのを感じた。彼女は急いで、板絵を画板に乗せる。工房に置かれていた画材をかき集める。
それから、意を決して、ファニエルが残した板絵に向かい合う。
――やってやるわよ。私は絵を描くわ。そして……。
アネシュカの手が躍った。命の躍動を感じさせる激しさで。
――そして、証明してみせるの。絵は、人の心を変えられるってことを! 人を救えるってことを! それが間違いじゃないってことを!
絵を描き始めて、いったい、どれくらいの時間が経過したのだろう。
いつしか、アネシュカは工房の椅子に崩れ、寝込んでしまっていた。そんな彼女を激しく揺さぶる者がいる。アネシュカはぼんやりとしながらも、瞼を持ち上げた。すると赤い髪の少年の顔が視界いっぱいに映り込む。
「……なんだ、トルトか……」
「なんだ、だ、じゃねぇよ。お前いったい、なんの絵描いているんだ? ……ってか、これ、先生の絵じゃないかよ!」
アネシュカはトルトの問いかけを耳にして我に返り、跳ね起きた。慌てて窓を見れば、工房に差しこむ光は、もうすでに朝のものではない。アネシュカの背筋は凍る。彼女は叫んだ。
「トルト! いま、何時?」
「え、え? もうすぐ昼だよ」
トルトがアネシュカの剣幕に驚いて、おどおどと答える。すると彼に向かって、必死の形相で少女が懇願する。
「トルト、手伝って! ファニエル先生を助けるの!」
「は?」
思いもしないアネシュカの言葉に、トルトは目を丸くした。丸くしつつも、呆れたように語を継ぐ。
「お前……なに言っているんだ? それに先生はもうすぐ、処刑されちまうよ」
するとアネシュカは一瞬泣きそうな顔になったが、すぐに、きりり、と表情を引き締めた。それから、目の前にあった板絵を掴むと、それを引きずりながら工房の扉に向かう。こう怒鳴りながら。
「じゃあ、いいわよ! 私ひとりで行くから!」
「……おい! 待てよ、アネシュカ! ……もう!」
トルトにはなにがなんだか分からない。
だが、とりあえず絵を、ずるずると引きずるアネシュカに手を貸す。そうして、ふたりは工房の外に板絵を引っ張り出した。
頭上に輝く冬の太陽は、天頂に近づきつつあった。
――冬らしく、よく晴れた日だ。死ぬには良い日だな。
トリンの城壁脇に急遽作られた刑場にて、ファニエルはひとり、突き抜けるような青い空を見上げていた。すると急に視界が遮られる。執行人の手によって目隠しがされたのであった。
「そのとき」が来たことを彼は知る。続いて、頭上から覚悟を質す冷たい声が降ってくる。
「ラーツ・ファニエル。時間だ」
ファニエルはなにも答えない。ただいつものように、微笑みを口に浮かべただけだ。
それを見て、別の執行人がファニエルの腕を引き、処刑台へと導く。それから乱暴に、彼の背を押しやった。冷え切った木の床に跪いた自分の首に、縄がぐるり、と巻かれる感触がする。
その瞬間、張り詰めた静寂を縫って、少女の甲高い大きな声が、目隠しをされたままのファニエルの鼓膜を打った。
彼がよく知るあの声だった。
「……この絵を見て!」
その声に、ところどころが壊れた城壁の上に、鈴なりになっていた市民の目が注がれる。執行人たちも思わず声の方向に目をやる。処刑台を囲む兵士と、それを見守るロウシャルを始めとした将官たちも同様だ。
果たして、衆人の視線の向こうにいたのは、大きな板絵を城壁の上から掲げる亜麻色の髪の少女と、赤い髪の少年の姿だった。群衆の視線は、掲げられた絵に集中する。
そして、誰もが息をのんだ。
そこには、レバ湖らしき湖のほとりに力強く立つ女神バルシが、いまにも躍りだしそうな麗しさで描かれていたのだ。
冬の昼の光の中、神々しいまでの迫力を持って、チェルデ人が誇る麗しき女神が群衆を強い眼差しで見つめていた。ほんとうにそれで良いのか、と見る者を問い質すかのように。
アネシュカは絵を空高くかざしながら、必死の思いで念じる。祈る。
――どうか、思いよ、通じて! みんな、ファニエル先生が本当に描きたかった絵を見て! そして、先生の功績を思いだして!
数瞬の沈黙の後、途端に周囲は騒然とした。王都から刑場を臨む大勢の市民の間を、刑場の兵士の間を、稲妻のようにざわめきが走る。
ほどなく、誰かが大きな声で叫んだ。
「お、おい、あの女神は、あそこにいる、ファニエルの手による絵じゃないか?」
群衆は更に騒がしさを増す。
やがて、アネシュカの願いが届いたかのように、誰からともなく、ファニエルを殺していいのか、という小さな戸惑いの声が市民から上がった。やがてその声は、ファニエルを殺すな、という言葉になり、最初はさざ波のように、ついでは津波のように、城壁へ詰めかけたトリン市民らの唇を突き動かしていく。
――通じた! 私と先生の絵が、みんなの心を動かしていく! そうよ! みんな、もっと、もっと、声を上げて! ファニエル先生を救って!
そして、そのときだった。誰もが思わぬことが起こった。
急変する状況にとどめを刺すが如く、高まる群衆の叫びを突き破って、馬の嘶きと猛々しい男の声が響いたのだ。
「その男の処刑を取りやめよ!」
市民が声の方向へと一斉に視線を投げれば、そこには黒い装束に身を包んだ若きチェルデ総督が、軍馬に跨がっていた。
それから、彼は馬上から身を翻す。
そして、城壁の上の市民をかき分け、群衆の前に屹立すると、刑場に顔を向けるや声の限りにこう叫んだのだった。
「ラーツ・ファニエルを我がマリアドル軍に引渡せ! その男は、我らを騙して、貴様たちに金を横流ししていた罪人だ! よって、我が軍で取調べの上、処罰させるよう要請する!」
マジーグが言い放った真実に、市民のどよめきは最高潮に達した。みるみるうちに、市民の声はファニエルを讃える歓声に形を変えていく。
その渦中で、アネシュカはなおも女神の絵を頭上に掲げていた。
手が震える。息が震える。なによりも、心が震える。
やがて彼女の両眼からは、マジーグの声に突き動かされるかのように、涙が溢れ出た。涙は滝のように頬を流れ、止むことを知らない。手は板絵を支えているから、アネシュカはそれを拭うことも出来ない。
だけど、彼女はそのとき確かに、幸福の中にいたのだ。そして、幸せを感じながらも人間は涙を流すのだ、ということを生まれてから初めて知る。
そしてほどなく、アネシュカの耳に、ファニエルの処刑を取りやめるよう命じる、ロウシャルの朗々とした大きな声が響いてきた。
――私と先生の絵、そして閣下の一声が、ひとりの人間の命を救った……! 絵って、なんて素晴らしいの! そして……人を愛するって、すごく、すごく素敵なことなのね!
アネシュカは心の中で叫ぶ。それから、人いきれの向こうに、黒いマントを翻して毅然と立つマジーグの横顔を、改めて見つめ直した。
泣き濡れた瞳が、彼の姿を捉えたとき、彼女の心はさらに幸福に輝いた。
床に跪いていたファニエルはふっ、と己の首でなにかが揺れるのを感じ取る。
それは首に回されていた縄他ならず、それから、それがするり、と外される気配がした。やがて彼は、兵士らによって処刑台から下ろされ、続いて目隠しが外される。
そのとき、ファニエルは再び天を仰いだ。
あれほどまでに焦がれた天が、果てしなく青く広がり、遥か彼方から己を遠く見下ろしているのを見て、彼は人知れず呟く。
「そうですか……どこまでも、私は天を描いても、人でしかいられないわけですね」




