12 ひとつの神話 ふたつの国
「総督閣下!」
夜、マジーグは仄暗い自室に飛び込んできたアネシュカに面食らった。目前の亜麻色の髪の少女の顔には、喜びが満ちあふれている。
「わっ……なんだ、なんだ」
マジーグは慌てた。
アネシュカが部屋に入るや否や、ぴたり、と互いの身体が触れ合う距離まで、勢いよく身を躍らせてきたからだ。しかしアネシュカは、目を白黒させる敵軍の最高権力者の挙動を気にも留めず、彼の顔を見上げる。少女の輝く瞳のまぶしさに、マジーグはさらに黒い目を瞬かせた。
「タラムさんから聞きましたよ! 昨夜、お眠りになれたって本当ですか?」
嬉しくてたまらないといった様子のアネシュカに、マジーグは、数瞬、言葉を詰まらせる。
まさか少女が、これほどに喜びを露わにするとは、思ってもいなかったからだ。
それも、他でもない、己のことについて。
その戸惑いを隠すように、マジーグはなんとはなしに、アネシュカから目をそらしながら、ぶっきらぼうに呟いた。
「……少しだけだがな。調子に乗るな、ほんの数時間のことだ」
「それでも眠れたんですね! やった、よかったです!」
無愛想極まりないマジーグの答えだったが、アネシュカはいよいよ最高潮に感情を爆発させる。少女の様子に、マジーグの端正な顔はさらに困惑の色に揺れた。彼は思わず、問う。
「なぜ、そんなに喜ぶ?」
「え?」
アネシュカがにこにこと笑うのをやめて、今度は不思議そうな顔でマジーグを見つめる。
いつものことだが、そこからは邪気というものが全く感じられない。そのあと放たれた声も同じだ。
「だって。嬉しいに決まっているじゃありませんか。閣下の苦しみを、少しでも取り除くことができたのなら」
「……それは、そうかもしれぬが。だが、お前の苦しみじゃない。俺のだぞ」
「……確かに、そうですが。でも、目の前の人の悩みが少しでも減るのは、嬉しいことでしょう?」
ふたりは蝋燭の灯りに照らされた互いの顔を見交わした。双方、相手の言葉が分かりかねると言わんばかりの表情を浮かべて。
やがて、マジーグが黒い双眼でアネシュカを見据えながら、ぼそり、と言った。
「おかしな女だな、お前は」
「そうでしょうか?」
目前の少女は、きょとん、と瞳を丸く見開きながら、あどけなさの残る顔で答えた。マジーグは頭を振りながら椅子に腰を下ろす。そして、指に三つ編みを絡めながら、考える。
――どうにも、この少女と顔を合わせていると、調子が狂うな。
考えてみれば、アネシュカの前で醜態を晒してしまった先日以来、自分は彼女に感情を揺り動かされてばかりなのだ、という事実に彼は思い当たる。
自分のために絵を描くと宣言されたとき。懐かしい弟の絵を差し出されたとき。それから、生家の庭の絵を描かれたとき。それらの瞬間のどれもが、マジーグの心を驚愕や郷愁に駆り立てたのだ。こんなことは、彼のこれまでの生では起こらなかったことだ。
そこまで考えて、マジーグの胸には、彼自身も思いがけない興味が急に浮かんだ。
それで彼は、椅子に座りながら話しかけてきたアネシュカに、つい、こう命じてしまったのだ。
後から考えれば、軽率なほど、そして不思議なほど、気安く。
「閣下。今日はなんの絵を描けばよいですか?」
「今日は、俺のことはいい」
「えっ?」
「今宵は、お前のことを話してみよ」
マジーグの予想外の言葉に、アネシュカが目を丸くする。
「私のことをですか?」
「そうだ」
今度困惑したのはアネシュカの方だった。しかし、目前に座したマジーグの顔は真剣だ。いつものように唇が皮肉に歪んでもいない。
アネシュカは戸惑いつつも、机に絵具を広げる手を休め、なにから話せばいいものかと、考え込んだ。
すると、そんなアネシュカを見て、マジーグが声をかける。
「そんなに難しく考えずともよいぞ。そうだな、考えてみれば、名前と歳もきちんと聞いていなかった」
「……名前は初めてお目にかかった際、名乗りましたけど。アネシュカ・パブカです。十五才になります」
「ふむ。やはりまだまだ子どもだな。それでは、好きな食べ物は?」
「えーっと……ギムシャ、でしょうか」
「ギムシャ?」
すると、首を傾げるマジーグの前で、アネシュカが机に置いてあった帳面と木炭を手に取った。彼女は紙にさらさらと木炭を滑らせ、編み込み生地が特徴的な丸い菓子を描いて見せた。
「これが、ギムシャです。春の祝祭日にしか食べられない、甘く煮た棗が詰まったパイです」
「ああ、マリアドルでは、ギルスと呼ぶやつだ。ただ、ギルスはこんなに丸っこくないな。どちらかというと菱形だ」
「そうなんですか?」
「ああ、そうだ、ちょっと木炭を貸してみろ」
マジーグは腕を、木炭を握りしめたままのアネシュカの右手へと、伸ばした。
彼のいかつい手がアネシュカの肌に触れ、彼女は、どきりとする。
ほんの一瞬だけ触れあったマジーグの手のぬくもりは、なぜだかアネシュカの心に忘れがたい印象を残した。
一方のマジーグは肌が触れたことを気にする風でもなく、アネシュカから木炭を受け取ると、慣れない手つきで帳面に木炭を走らせる。
やがて帳面の上には菱形のなにか、の形が浮かんだ。
「こんな感じだな」
「閣下、意外と、絵……お上手ですね」
「世辞を言うな。俺は作戦を指示するときくらいしか、絵を描いたことはない」
「おっ、お世辞じゃないですよ! ……でも、初めて知りました。同じ中身のパイなのに、ところ変われば違うものなのですね」
「そうだな。しかし、あの甘ったるいパイが好きだとは、年相応で結構なことだ」
「……からかわないでください」
マジーグの軽口に、アネシュカがぷうっ、と頬を膨らませる。思わずマジーグは、そんな顔をするからそう言いたくなるのだ、と口にしたくなる。だが、彼はその言葉は胸にとどめて、むくれたままの少女に次の質問を繰り出した。
「それでは、お前の生まれた地は?」
「生まれは、セダ村です」
「セダ?」
「ええっと、チェルデ南部、レバ湖のほとりにある、小さな村です」
「ほう」
マジーグの黒い瞳が、ぎらり、と光った。彫りの深い顔が面白げな色に揺れる。
「あのレバ湖か。創世神話で女神バルシが産まれ出た」
「そうです! 私、レバ湖畔で生まれ育ったんです!」
「そうか。よりによって、な。お前たちチェルデ人が、俺たちマリアドル人を蔑む要因の、あの神話の地でか」
アネシュカの瞳が曇った。マジーグの言い放った言葉から、言いようのない皮肉と自嘲を感じたからだ。
ふたりの軽快な会話は途端になりを潜め、簡素な室内に沈黙の帳が落ちる。
若き総督が口にしたことは、チェルデとマリアドル、両国が建国以来抱えてきた対立の火種、他ならなかったからだ。
「でも……私は神話を理由に、マリアドル人を蔑んだことは、ないです」
「嘘を付け」
数分にわたる気まずい時間ののち、おそるおそる唇を動かしたアネシュカを、マジーグは乾いた笑いをもって応じた。
「女神バルシは、レバ湖で生誕したのち、男神ガランを産み落とした。だが、ガランは粗暴な性格ゆえバルシに疎まれ、荒野へと追放された。その地が俺の国、マリアドルだ。それはお前も知っておろう」
「それは知っています」
「そうだな。そのあとガランは軍略を極め、軍神と恐れられるようになった。その軍神ガランを崇めるのが我が国マリアドルだ。一方、チェルデは女神バルシを国神とし、芸術と文化を尊ぶ風土を育んだ。だからチェルデ人はマリアドルを格下の粗暴な神が治める荒れ地、野蛮人の国として軽蔑している。それゆえ、同じ創世神話を基としながら俺らの国は、有史以来仲が悪い。それも知らぬわけではなかろう。それでもお前は、俺たちを軽蔑していないというのか?」
マジーグはひと息に語を放った。
アネシュカには、そのマジーグの口調は、マリアドル人特有のチェルデへの憤懣が籠もっているように聞こえ、息をのむ。
しかしアネシュカにも言い分はあった。彼女は、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。こんなこと言ってもいいのかしら、と迷いながら。
「そうかもしれませんけれど。でも全てのチェルデ人が、そう考えているわけではないです。少なくとも……、少なくとも私は野蛮だと思ったことはなかったです。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「マリアドルが攻め入ってきたいまとなっては、違いますが」
マジーグが眉をぴく、と顰めた。
それと同時に、自国を占領した軍の長に、はっきりと侵攻に苦言を呈した少女の度胸に驚く。
なので数瞬の後、彼は呆れたようにこう語を零さぬわけにはいかなかった。
「お前は、余程の勇気ある女か、それとも相当の阿呆か、どちらかだな……」
「……」
アネシュカは困ったように無言でいる。しかしそれでも、彼女の表情からは怯えというものがいまもって、見受けられない。
そのせいだろうか、自分に無礼ともいえる言葉を投げかけられても、腹が立つこともない。
そしてようやく、マジーグはいまさらのように理解する。
目の前にいるアネシュカ・パブカという少女は、己の人生で一度も出会ったことがない種類の人間であると。若さゆえとはいえ、強者に媚びることを知らず、また遠慮を効かす機転も持たない。愚直と思えるほどに、どこまでもまっすぐに感情をぶつけてくる気質の人間、それがこの目前にいる少女なのだ。
――だから俺は、柄にもなくこの少女に興味をもったわけか。
マジーグは合点する。
そう捉え直すと、彼の中ではますますアネシュカがどんな人間なのか、好奇心が昂ぶる。一方でマジーグはそんな自分自身を意外に思った。不敬極まりない女と、この場で斬捨ててしまうことも自分なら出来るはずなのだ。だが、彼女に対してはなぜかそんな気持ちよりも、その人柄を知りたい、そのように思う心が上回ってしまう。
しかしながら、それがなぜなのか、そのときのマジーグには解が浮かばなかった。
彼が答えを見つけるのは、これより、もう少し時間が経過してからのことだった。
翌日、マジーグは執務の合間に、タラムを伴い、宮殿から歩み出た。
秋の気配が色づく晴れた空のもと、王宮内を軍靴の靴音高く歩めば、配下のマリアドル軍兵士が慌てた素振りで敬礼する。そこかしこにはチェルデ人の下男や下女もいる。彼ら彼女らはマジーグを見ると、仕事の手を止めて、怯える視線を隠すかのように頭を垂れる。
それらは彼が見知った、自分に対する人間のいつもの反応であった。見え隠れするのは、己に対する恐怖の感情だ。
しかし、その匂いを嗅ぎ取るたび、今日のマジーグは微かに落ち着かぬ気持ちになる。
「こんなことは、当たり前のことだと思ってきたのだがな……」
彼は漆黒のマントを揺らして歩を進めながら、ぽつり、と独り言つ。背後に控えたタラムには聞こえぬ程度の小声で。
やがてふたりは王宮とトリンの街を繋ぐ門に辿り着く。門番をしていた兵士がこれまたぎょっとした顔で敬礼し、タラムの命に従っておごそかに門の扉を開ける。
こうしてマジーグは、トリン侵攻の日以来はじめて、王宮前広場に足を踏み入れた。広場を往来しているトリン市民から放たれる、驚きの視線をものともせず、マジーグは目的の場所へとずんずん歩を進めた。そして、ぴたり、と彼の足は止まる。
マジーグの目の前には、ファニエルの描いた壮麗な創世神話の絵がそびえ立っていた。
「閣下。この絵をご覧になりたかったのですか」
タラムが意外そうな声音で、足を止めたマジーグを質すが、彼はなにも答えなかった。
ただ、マジーグはまじまじと壁画を見つめる。水上に佇む女神バルシの姿が黒い瞳に飛び込んでくる。彼は女神、続いてレバ湖の風景を食い入るように見上げ、脳裏に焼き付ける。
唐突にマジーグが語を発した。
「タラム。アネシュカの工房の主がこの絵を描いたのだったな」
「はい。筆頭宮廷絵師ラーツ・ファニエルによる壁画だと聞き及んでおります」
答えるタラムの声は戸惑いに満ちている。これまで、タラムの知る限り、マジーグが絵画をはじめとした芸術全般に興味を向けたことなどなかったからだ。しかし、マジーグは副官の困惑には見て見ぬふりを決め込み、さらに語を継いだ。
「たしか、あの工房には手を出さぬよう通達を出したにもかかわらず、我が軍の兵士が木の神像を壊した、と報告書にあったな」
「そういえば、そんな報告がありましたが、それがなにか」
「その神像を直しておけ。たしか槍を修繕する際に、木材の接着に適した薬剤があっただろう。それを使えばよかろう」
それだけ言うと、マジーグは黒い三つ編みを揺らしながら、絵の前から身を翻した。そして振り返ることもなく、王宮へと戻るべく門に向かって歩み去って行く。
マジーグの精悍な顔には、なにかに満足したような色が躍っている。
タラムはそれに気付きながらも、その正体がいったいなんであるのかを図りかね、なおも心中を困惑させたが、結局無言のまま、若き総督の背を追った。




