ババアのケータイ
未明に避難勧告が出た。まもなくここも台風十四号の暴風域に入る。
庭のゴールドクレストが強風に渦巻いていた。男が生まれた年に植えられた記念樹だ。
男はスマホと財布と通帳をウエストポーチにしまい、セパレートの雨衣を着た。懐中電灯、ラジオ、水、食料、タオル、薄手の毛布、替えの下着、眼鏡、歯ブラシ、洗顔フォームをバックパックに詰め、ポリ袋を被せた。暴風域が過ぎるまで自宅に篭っているつもりだったが、男は出るしかなかった。
数分前、林立する山の麓にある三十五年間暮らした男の家は、ゴコゴと滑り落ちてきた土砂に半分飲まれた。
両親の寝室だった部屋は丸々埋ってしまった。すでに二人とも他界していたため、生き埋めにならずに済んだのは不幸中の幸いだった。母は足の悪い父を置いて逃げはしなかっただろうし、父を背負って歩けもしなかっただろうから。
もし自分が山側の部屋で寝ていたら……と考えると、恐ろしくなった。地滑りの不気味な轟低音が耳に残っている。
ゴアテックスのブーツに雨衣の裾を被せ、紐を絞った。水中ゴーグルを装着して、風が重くのしかかるドアをゆっくりと開けると、ボッという音と風圧に鼓膜が竦んだ。
塀に沿って歩き始めると、隣りの民家も半分が土に飲み込まれていた。
「山田のババア……」
果たして生きているだろうか。怪我はしてないだろうか。
この暴風雨の中、老人を背負って避難所まで歩くのは困難だ。しかし、両親が亡くなってから、男の世話をよく焼いてくれたババアを見捨てることはできなかった。
東京で離れて暮らすババアの息子から託されていた合鍵を使って玄関を開けた。
「ババア、入るぞ!」
三和土に立って呼び掛けたが、返事はなかった。風が土のにおいを運んできた。
「ババア、上がるぞ!」
男はブーツのまま上がった。
南西向きの部屋から泥水が床を這って流れてきた。土砂に押された襖が内側から歪んでいた。ババアの寝室だ。
どうか、その部屋にだけはいないでくれ。
祈る思いで男は襖を開けた。
押し寄せた土で窓は割れ、壁は裂け、泥土が膝まで堆積していた。
男から血の気が引いた。素手で土を掬って婆を探した。
「ババア!ババア!」
喉が枯れるまで叫び、闇雲に土を掻き分けた。
どこを掘ればいいのか見当もつかない。
せめて寝床の場所が分かれば、と室内を見回すと、鏡台のコンセントに携帯電話の充電器が挿さっていた。
そうだ、山田のババアはいつも携帯電話を首からぶら下げていた。
男はウエストポーチからスマホを出して、ババアの番号に掛けた。
耳に当てたスピーカーからコール音が鳴る。
だが、部屋のどこからも着信音は聞こえてこない。土深く埋もれてしまって音が響かないのか。
男が諦めかけた時、手の中のスマホから声が聞こえてきた。
「もしもし、山田です」
ババアのいつもの呑気な喋り声だ。男の緊張が解けた。
「ババア!よかった……今どこにいるんだ?」
「エー、ただいまハワイ旅行に行っておりますので戻りましたらご連絡いたします」
ビープ音の後、留守電に切り替わった。
男は力が抜けて泥に膝をつき、優しい声でメッセージを残した。
「俺だけど、家にいると思って土足で上がっちまって、悪かったな。ハワイに行ってるとは知らなくてよ。マア、戻ったら連絡してくれ……こっちは今、台風ですごい雨風で、大変なことになってて……ああ……クソッ間に合わない!いいか、ババア!くれぐれも俺のことは気にせず達者で」
轟々と押し寄せてきた山津波の第二波で男の声はかき消された。
無慈悲な激流に木造の家は潰れ、男もろとも押し流された。
その三日後、山田のババアはハワイから帰国した。空港で留守電に気が付き、残された男の最後の言葉を聞いた。
携帯電話に耳を当てたババアの枯れた頬を、涙がざぶざぶと濡らした。
終