1. 夏の御殿
「ここが六条院となります」
牛飼童の子がそう言うと、牛車が止められる。
二人が手を借りて牛車から降りると、そこには見渡す限りの大豪邸。溢れんばかりに植えられた、美しい花々、木々。まさにこの世の極楽とも呼ばれるのにも納得であるほどの豪華さを誇る、雅な住まいが広がっていた。
それは娘の実家と比べても、別次元のように感じるほどの豪華絢爛さであった。
案内されるまま正門からそこに入れば、そこには夏の御殿らしい生命力が感じられる庭が広がっていた。
涼しげな泉に、あたりには花橘や撫子を植えられている。離れた位置からでも、花橘の甘いながらも清々しい香りが漂ってくる。池の周りには菖蒲が整えて植えられている。
呆然とその絶景を見つめる娘に対し、鴇の女房は御殿についての説明を始める。
「ここが六条院・夏の御殿よ。主人は花散里さまで、他には光源氏の君の息子である、夕霧さまの里邸でもあるの」
鴇の女房は真剣な面持ちでそう説明するも、「まあ」と手を合わせた。
「他のことは後々覚えていったらいいわ。…難しいしね」
女房は次に、長い廊を通って御殿を案内する。
娘が手入れが行き届いた柱や障子に感動していると、後ろから奥ゆかしい声が聞こえてきた。
「あなたが新人の方?」
反射的に振り返ると、そこには青色と柳色を合わせた、涼しげな衣裳を身につけた女性が立っていた。
女房たちは小慣れたように頭を下げ、娘も咄嗟にぱっと頭を下げる。
すると花散里は、娘の前にわざわざ姿勢を下げて座った。
「初めまして、夏の御殿の主人・花散里です」
「…お話は聞いております、よろしくお願い致します」
「硬くなりすぎないでね、緊張してると思うけど」
花散里が娘に微笑みかける。後ろで他の女房たちが、妬んでいるのかギリギリと娘を見つめていた。
「そうだ、お名前を考えましょうか。…どうしましょうか」
花散里や付きの女房も、頭を悩ませて考える。
すると、娘の後ろに座っていた鴇の女房が、一つ手を挙げて提案した。
「若苗で、どうでしょうか」
「若苗…ですか?」
若苗とは、襲色目の一つで表裏がどちらも薄緑色である種類のことであるという。そう聞いた娘は、自分の袿に目を落とす。そこで、腑に落ちた。
すると、「なるほど」と同タイミングで花散里も気づいたようだ、嬉しそうに頷く。
「いいですね、貴女、どうです?」
「こ、光栄です!」
「良かった。ではごめんなさいね、仕事が溜まっておりまして。何かあったら言って頂戴ね〜」
花散里は、手を振ってそう去っていく。
風のような人だ。初夏に吹く清々しい、決心の後押しになるような。でも涼やかですっきりとしたような風のような。
頑張ろう。
その風に背中を押されたのかはわからないが、名もなき娘改め若苗はそう決心したのであった。