24. 菖蒲・前編
「なあ文経、私はもう長くはないそうだ」
「…そうでございますか」
蝉時雨の日の夜、文経の父・文徳は悲しげもなくそう言った。その雰囲気に押されたのか、文経もその言葉をそれほど重く受け取っていなかった。
と言うより、元服してまだ二年しか経っていない程成熟しきっていない時期にそんなことを言われても、まともに受け入れられないのが筋である。
「しかし、そのような話ならなぜ兄上をお呼びにならないのですか」
「そうだな、可笑しいよな」
文徳は、ずっと意味のわからない父親だった。
しかし、彼はその言葉を残した三日後に、永遠の眠りについた。
まだ齢十六の文経にとって、死とはよくわからないものであった。知らせが入ってから、葬儀を行い、父を見送ってからも、父がもう帰ってこないという自覚を持つことはできなかった。
家の柱であった父が死んでからは、均衡が崩れ出した。
母は、文経たち子供がいない時間を見計らって、何処かへ消えた。そうなれば文経の兄、長男・文隆の一人舞台だった。
彼は同乳母の高位の娘と結婚し、実家を改装して住むなど言い出し、あろうことか文経を家から追い出して見せた。
兄に逆らえなかった文経は、そのまま路頭に迷うことになった。
後ろ盾も取り柄もない、ただの底辺貴族の息子など、誰も目にも留めなかった。
だからこそ、彼は実家よりうんと遠い因幡国まで辿り着くと、そこで拾ってもらった平民のもとで、幾日か食い繋いだ。
それからは因幡で仕事を探し、三年ほどかけて、最低限あった貴族としての教養だけでもある程度賄えるほどの役職に漕ぎ着いた。
「文経さん、次の正月、一緒に巫女舞を見に行きませんか」
「巫女舞?」
雪の降り頻る十九の冬、文経は同僚から、毎年地元の神社で行われる舞に誘われた。
「私の妹が舞に参加していましてね」
「…暇なので、全然大丈夫ですよ」
最近一人で暮らすようになった文経にとって、新年は特に何もない暇な時期であったため、彼はこれを了承し、元日の夕方に、同僚とともにその巫女舞を見に行くことにした。
「この舞では三人の巫女が舞を捧げるんですよ」
「そうなんですね」
同僚は楽しそうにそう語り、文経が興味ありげに返すと、さらに勢いを増してまた話し出した。彼の妹は齢十三で「もも」と呼ばれているそうだ。
夕暮れの時が近づいてくるたびに、どんどん人が集まってきた。
その中に、さまざまな装飾品で着飾った三人の女童が入ってくる。その三人が入ってきた瞬間、周りのざわめきも急激に静かになった。
舞が始まり、横の同僚は興奮した様子で体を乗り出して見ているものの、文経は彼に比べるとさほど興味はなかったゆえ、少しいい加減にその舞を見ていた。
その時、目が合った。
三人の中でも群を抜いてしなやかに美しく舞う、一人の巫女と、文経は目が合ってしまった。
その瞬間、文経は彼女に一目惚れした。
彼女の美しい紫色の瞳、そして余裕のある表情は、彼の目と心に焼き付いた。
これまでほとんど女性に触れ合ってこなかった文経にとって、彼女は本当の初恋だったのである。恋の駆け引きなどわからない。普通の恋など知らない。
それでも文経は、彼女と話してみたかった。
舞が終わり、文経はすぐ舞姫がはけて行った方へ走り出した。
しかし、文経がそこへ辿り着いた頃にはもう彼女たちはいなくなってしまっていた。がむしゃらに走った影響で、荒い息を吐く彼に、その神社の住職が声をかけてきた。
「どうした、そこの坊ちゃん」
「あの、あの一番大きな巫女…は! 名は、なんと…」
鬼気迫る表情で必死にそう言う文経を見て、住職は彼女がここの神社の巫女で、周りからは「あやめ」と呼ばれる娘であることが分かったのであった。




